夕立の「最終面接」と、素直になれない氷菓(グラニテ)
八月。あかね商店街のアーケードは、家庭用エアコンの室外機が吐き出す熱風で、まるで巨大なサウナのようになっていた。喫茶「夕凪」の古い換気扇が、苦しげにカラカラと音を立てている。
「あかん、弦ちゃん……。もう溶ける。うち、このまま液体になって床の隙間に吸い込まれてまうわ。最期の言葉は『ボーナス三ヶ月分、現金で』って遺言に書いといて……」
陽菜が、氷嚢を頭に乗せてカウンターに突っ伏していた。その姿は、夏バテしたアザラシそのものである。
「……やかましい。……液体になるなら、そのまま排水溝に流れて海にでも還れ。……お前みたいな『煩悩の塊』が蒸発したら、この辺りに有毒な欲望の霧が立ち込めて公害になるやろ」
店主の弦は、汗一つかかずに、冷えた銅製のカップでアイスコーヒーを静かにステアしていた。
「……だいたい、暑い暑いと喚くエネルギーがあるなら、外の打ち水でもしてこい。……お前のその無駄な熱量で、店の電気代が三割増しや」
「ひどぉい! 従業員の健康管理も仕事のうちやろ! ほら、ご褒美に『最高級の桃のパフェ』とか作ってくれたら、うち、あと五分は動けるわ!」
「……却下だ。……お前に与えるのは、俺の『冷徹な視線』だけで十分や」
その時、店の扉がカランと涼しげな音を立てて開いた。
入ってきたのは、全身を白のシルクで包んだ、凛とした佇まいの美女だった。彼女が歩くたびに、店内には都会の高級ホテルのような、洗練された香水の残り香が漂う。
「……お久しぶりです、弦さん。……いえ、『伝説のヘッドハンター』と呼ばれていた頃のあなたとお呼びすべきかしら」
陽菜が、弾かれたように顔を上げた。
「……へ!? ヘッド……何? 弦ちゃん、このシュッとした別嬪さん、誰!?」
弦の手が、一瞬だけ止まった。
「……江藤か。……お前こそ、シンガポールの支社に引き抜かれたと聞いていたが。……わざわざこんな『煮え切らない油の匂い』がする街に、何の用だ」
「あなたの『適性検査』を受けに来たのよ。……あの日、あなたが私に下した『不採用』の理由。……五年経って、ようやくその答えを確認しに来たの」
江藤と呼ばれた女性は、陽菜を一瞥もせず、弦の正面に座った。その所作の一つ一つが、陽菜の「ガサツな動き」とは対極にある「完成された美」だった。
店内には、猛暑を忘れさせるほどの緊張感が走った。
そこへ、いつになく「まともな」服を着た電気屋の正蔵と、魚屋の茂雄が息を切らして入ってきた。
「弦!! 大変や! 表に黒塗りの高級車が止まって……って、なんやこの美女は!?」
「……正蔵さん、茂雄。……悪いが、今は『面接中』だ。……その、暑苦しい顔と、高級車にビビって漏れそうな情けないオーラを片付けてから来い」
江藤は、静かに口を開いた。
「弦さん。あなたが大手企業の人事を辞めて、こんな掃き溜めのような場所で、こんな……言葉も通じなさそうな娘を隣に置いて、一体何を求めているの? あなたの才能なら、今でも年収数千万のポジションを用意できるわ」
陽菜の胸が、チクリと痛んだ。
「……言葉も通じなさそうな娘」という言葉が、いつもは跳ね返せるはずの冗談が、なぜか喉の奥に刺さって抜けない。
「……弦ちゃん。……この人、誰なん。……ほんまに、弦ちゃんを連れて行くん?」
「……陽菜、お前は黙ってろ。……査定の邪魔や」
弦の声は冷たかった。陽菜は、何も言えずに俯いた。
弦は、江藤の前に、ごく普通の「自家製レモンの氷菓」を差し出した。
「……江藤。……お前は五年経っても、まだ『スペック』でしか人間を測れんのか。……あの日、俺がお前を不採用にした理由は一つや。……お前には、『雑味』を愛する余裕がなかった」
「……雑味? そんなもの、一流のビジネスには不要です」
「……そうか。……なら、このグラニテを食ってみろ。……あかね商店街の、泥臭い夏の味や」
江藤が一口、氷を口に運んだ。 瞬間、彼女の眉が微かに動いた。
「……苦い。……レモンの皮の苦味と、隠し味の……これは、ミントではなくて、もっと野性的な……」
「……この街の軒先に自生しとる、ただのドクダミの葉を少しだけ煮出した。……薬効はあるが、お前の嫌う『余計な雑音』そのものやな」
弦は、隣で震えている陽菜の肩を、無造作に、しかし力強くポンと叩いた。
「……江藤。……お前には、この陽菜という『不採用の塊』のような女の価値は分からんやろうな」
「え……?」
陽菜が顔を上げる。
「……計算は合わん、掃除は適当、金には汚い。……だがな、お前が切り捨てた『雑味』や『無駄』が、どれだけこの街の人間を救っとるか。……正蔵さんの間違いだらけの修理が、結果として新しいアイディアを生み、茂雄の無茶な仕入れが、おヨネさんの新しいレシピを作る。……そして、こいつの『なんでやねん』という一言が、俺の凝り固まった論理をぶち壊してくれる」
弦の目は、江藤を射抜くように鋭く、しかしどこか穏やかだった。
「……俺は、完璧な組織を作るために人事をやってきた。……だが、ここでは『不完全な人間』が、お互いの欠落した部分を埋め合って生きとる。……俺の本当の居場所は、ガラス張りのオフィスやなくて、この熱苦しくて、不器用な連中が溜まる、このカウンターの中や」
「…………」
江藤は、しばらく黙ってグラニテを見つめていたが、やがて小さく溜息をついた。
「……完敗ね。……五年経っても、私はあなたの『理想の求人』には届かなかったみたい。……でも、弦さん。……その『不採用の塊』、大切になさることね。……彼女、泣きそうな顔であなたを見てるわよ」
江藤は、去り際に一通の名刺をカウンターに置き、風のように去っていった。
夕立が降り始めた。アーケードの屋根を叩く激しい雨音が、熱気を一気に洗い流していく。
「……はぁ。……びっくりした。……ほんまに、弦ちゃんが連れて行かれるかと思ったわ」
陽菜が、雨の冷気で少し落ち着いた顔で呟く。
「……フン。……お前みたいな『不採用の塊』を放っておいて、どこへ行けと言うんだ。……お前がいなくなったら、この店の『反面教師』としての求人広告を出す手間が増えるやろ」
「……もう、最後まで毒舌やな! ……でも、弦ちゃん。……さっきの、うちのこと褒めてくれたん……ほんま?」
「……褒めてない。……事実を陳列しただけや。……ほら、雨が上がったら、あの客が置いていった名刺をゴミ箱に捨ててこい。……うちは『再就職』も『スカウト』も、受け付けてへんからな」
弦が、陽菜の前に、新しいアイスコーヒーを置いた。
そこには、陽菜の好きなガムシロップが、いつもより少しだけ多めに入っていた。
「……あ、甘い! 弦ちゃん、これサービス?」
「……糖分を摂って、少しはその足りない脳みそを働かせろ。……それと、お前の短冊の願い事……『弦ちゃんの毒舌が治りますように』って書いたやつ、あれ、俺が勝手に『陽菜の給料が据え置かれますように』に書き換えといたからな」
「なんでやねん!!」
あかね商店街、八月の夕暮れ。
夕立の後の虹が、濡れたアーケードの隙間に見えた。
へんこつ店主の毒舌は、相変わらず容赦ない。
けれど、その言葉の裏側には、世界中のどんなキャリアアップよりも価値のある、たった一人の幼馴染への「終身雇用」の約束が隠されているのだった。
(第六十一話 完)




