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始まり

 それはいつもと何ら変わらない日常から始まった。


「すみません、つまりーー端的に言うと現在、何も食べ物を受け付けないと、そういうことですか?」


 相談室にしている一階奥の書斎でソファに深く腰掛けながら、吉良(きら)伸也(しんや)は今三十分ほどかけて聞いた相談を簡潔にまとめて確認した。


「……そう……です」


 たった四文字答えて頷くだけでひどく体力を使うのか、その女性はほとんど聞き取れないほどのか細い声で肯定した。痩身なのは間違いない。肌の血色も悪く、せっかくの黒髪のロングヘアもかさついて元気がなかった。簡単なプロフィールを聞いたが、正直に言って二十三歳にはとても見えない。何よりも印象的なのは窪んだ目だ。そこだけがギラギラと輝いている。


「わかりました。ひとまずーー」


 最初に考えたのは食の異常だ。相談者は症状が現れるよりも先にサプリメントを常用していたらしく、殆ど食事らしい食事を摂ることもなく生活をしていたらしい。次に考えた可能性は一般的な、つまり純粋に精神的、社会文化的な拒食症だが、食べないのではなく食べられない(・・・・・・)症状ということでその可能性も排除した。


 そうだとしたらーー。


 ひとまず、あやかしに理解があって信頼できる病院を紹介したところで女性には帰ってもらった。一人残った吉良はコーヒーテーブルに置いた食器をそのままに壁際に並べた、もはや要塞のようなとパートナーからも揶揄される本棚の中から該当の本を取り出して後ろの机へと置いた。その全てが妖に関する図書だ。


 ーーやっぱりそうだよね。


 『あやかしとの共生社会のあり方』と書かれた一般向けのベーシックな本の中にもそれは書かれている。すなわち餓鬼と呼ばれる妖だ。人に取り憑き食を奪うと書かれている。


 餓鬼は食糧難だった時代に数多く産み出された妖だ。発生原因は非常に単線で、飢餓に苦しんだ人々の恨みから生まれた、とされている。時代を経て飽食の時代になってからはその数を減らしているものの、三年前にようやく「あやかし保護法」が制定された以降も全国的に取り憑かれた例が散見されている。餓鬼は欲動や衝動をコントロールすることが困難で、己の性質のままに生きざるを得ないからだ。


 パタンっと優しく本を閉じる。


「やっぱり沙夜子さんに相談するしかないか」


 左腕に着けた簡素な腕時計に「(やなぎ)田沙夜子(ださやこ)」の名前と要件を伝える。念のためにメッセージの送信を確認したあとすぐに柔らかなメロディラインのアラームが鳴った。休憩の時間だ。


 書斎を出て2階のリビングへ移動する間に芳ばしいキリマンジャロのコーヒーの香りと、子守唄が降ってきた。リビングではいつものようにパートナーがまだ一月にも満たない子どもを寝かしつけながらソファにゆったりと腰掛けていた。


「お疲れ様」


 穏やかな円らな瞳が微笑んだ。その笑顔に吊られて吉良の顔も綻びる。仕事モードのときは大概が深刻な話が持ち込まれるためにどうしても気が引き締まってしまう。こうして笑顔を確認し合うことだけでも固くなった頬や肩や首の筋肉が解される気がする。


「ありがとう」


 目礼をして小さな我が子の成長の早いくしゃくしゃの髪の毛を撫でた。母親に似たかわいい瞳がうっすらと開いたと思ったら眠気に負けて垂れていく。


 途端に快活なメロディが弾けた。


「もしもーー」


『吉良! 悪いけど至急こっちへ来て!!』

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