九章・死出の跳躍(1)
水が流れて行く──地面を濡らしたそれは重力に引かれ、下へ下へと移動を続ける。
薄く目覚めた意識の中、その様子をじっと見つめていた雨楽は、今は亡き祖母から自分の名の由来を聞いた日のことを思い出す。
幼い頃、家の中から窓越しに土砂降りの雨が降る庭を眺めていた。
あっちゃんの家まで遊びに行くつもりだったのに降って来てしまった。そう嘆いていると祖母は「傘をさして行けばいい」と言う。
彼が「靴が濡れちゃう」と返すと、彼女は「なんだそれくらい」と呆れて頭を振った。
「お前の名前には、じいさんの願いが込められているのに」
「おじいちゃんの?」
「そうだよ、じいさんがお前の名付け親だ。浮草家では代々、長男の名前は祖父が付けるしきたりだからね。あの人は前もって名前を考えておいた。たしか“龍”に“侍”で“龍侍”だったかね。やたら画数が多くて孫がかわいそうだからやめとけと、あたしは何度も言ったんだ」
「ぼく、雨楽だよ?」
「知ってる。お前が生まれた日に、じいさんの気が変わったのさ。生まれたばかりのお前と初めて病室で対面した時、窓の外で雨が降っていた。あたしが折角の初孫が生まれた日に空気の読めない天気だねとぼやくと、あの人は言ったんだよ」
『雨も楽しめよ』
「だからお前は“雨楽”になった。逆境に負けない強い子に育って欲しいと。むしろ逆境を楽しめるくらいになってくれと。だから雨楽、雨くらいで諦めるな。本当に友達と遊びたいなら、傘をさしてでも雨がっぱを着てでも、なんでもいいから頑張ってみな」
直後、祖母は母に「お義母さん、こんな天気で出かけさせたら危ないってば」と苦情を言われケンカになった。
そして雨楽が出かけるまでもなく、幼馴染の秋人の方からずぶ濡れになって遊びに来たため、結局彼が雨の中に出て行くようなことは無かった。
あの時、祖母の言う通りにしていたら少しは強い人間になれたのだろうか?
わからないし、知ったとしても過去は変わらない。少なくとも、ここに何人も転がっている別の“自分”達は強くなれなかったのだろう。雨を避け、こんなところに逃げ込んでしまったのだから。
悲しくて、やるせなくて、理不尽に憤ることさえせず、そんな自分の弱さをとうの昔に受け入れていた──だからこそ、その瞬間、彼だけが理解した。
「そう、か……」
立ち上がる。
弱くても、
卑怯でも、
駄目な自分でも、
まだ一つだけ、出来ることがある。
「ッ、ハ……!?」
『あなたもやっぱり、私と同じね』
左肩から右の脇腹まで袈裟斬りにされた雨音に、もう一人の雨音が切っ先を向け、容赦無くトドメを刺そうとしている。刃が心臓めがけて突き込まれた。
だが、割って入った雨楽が代わりにその一撃を受ける。
「うぐっ!?」
『なっ!? 雨楽……さん……』
とてつもなく痛い。けれど身長差のおかげでそれは彼の心臓でなく、その少し下の位置を貫いた。動揺した影の雨音の手中で刃が液状化し、溶け落ちる。
「あ……あり、がとう……」
『え?』
その気になれば彼女には簡単に自分を殺せたはず。なのに攻撃を止めてくれた。やはりもう一人の雨音も優しい子なのだ。
感謝しながら背中を向け、力を振り絞り、もう一人の、まだ生きている方の彼女を抱きかかえた。そして走り出す。
雨音は掠れた声で問う。
「ど、どこ……に」
もう行き場なんて無い。彼女の虚ろな目はそう語っている。
けれど雨楽は頭を振った。あの日の祖母のように。
「間違ってた……こっ、こっちじゃ……ないよ」
凄まじく痛い。刺された場所から身体が引き千切れそうだ。まだ気絶していないことが自分でも信じられない。でも、今この瞬間だけは名に込められた願いの通り、痛みさえも受け入れて足を動かす。
長い長いトンネルを抜け、再び雨の降りしきる外界へ出た雨楽は、そこで遂に力尽きて膝をついた。二人は抱き合うような形で倒れ込む。
ああ、もう駄目だ。そう悟った彼は最後の力で語り出す。ついさっき気が付いた、この世界の真実を。彼女のために託さなければ。
「空に……影があった、よね……」
「枝……ですか……」
雨音も思い出した。今は空が、いや、頭上の海が暗くなって見えないけれど、たしかにこうなる前、遥か上方に枝らしき影が見えた。
でも──
「違う……よ。あれは……“根”だと思う……」
「え……?」
「ま、前に、この木を見たんだ……」
同じものだったという確信は無い。けれど二度目の跳躍の時、自分達の界球器から別の界球器へ移動する最中、彼方に見えていた巨木。あれとこの木とは本質的に同じものな気がする。
あの時に見た大樹には青々と葉が茂っていた。けれど、この世界で見た頭上の影に葉は見当たらなかった。
だから気付けた。自分達はずっと上に向かっているつもりで、逆にこの木の根を目指し、下り続けていたのだと。
かつてレインが言っていた。世界は可能性によって分岐し、数を増やしていく。
自分達の世界はいくつもの分岐の果てに生まれたどこかだ。なのに流れを遡り続けても辿り着けるはずがない。
「もっと……下を目指すんだ。そしたら、きっと──」
そう言った直後、雨楽は再び意識を失ってしまう。雨音は胸の痛みが消えていることに気が付き、起き上がった。さっき斬られた傷がいつの間にか消えている。
「まさか、逃げてる間に……」
意識が朦朧としていてわからなかった。彼は例の力で傷を癒してくれていたのだ。自身の方が重傷なのに、こちらを救うことを優先した。
なんて不器用な人だろう。
もっと上手くやればいいのに、どうしても、それが出来ない性格らしい。
『……あなたはどうするの?』
「!」
いつの間にか影の自分が追い付いて来ていた。その手には再び形を成した黒い嗚角。
雨音はもう一人の自分を見上げ、それからその視線を足下の階段に向ける。影の彼女もつられて顔を向けた。
雨楽の腹部から流れ出した血が下へ下へ流れ落ちる。
それを見た瞬間、彼と同じように悟った。
「時間は常に、未来に向かってしか流れない」
そう答えた彼女の瞳は藍の輝きを放つ。今この瞬間、雨音は完全にネットワークの権限保有者へ昇格した。その繋がりから知識が流れ込んで来る。これは≪時空≫を司る神の力の一部だと。
「私も、あなた達も間違っていた。この人だけが気付いた。私はずっと、彼を弱い人だと思い込んでいた。
ううん……きっと、それは間違ってない。雨楽さんは弱い。でも、弱いから気が付けることもある。自分を正しいと思い込んでいる人間は間違いを認められない。誤解したまま突き進む。だから彼のような人間も必要なんだと、やっとわかった」
信じてみよう。間違っていたとしても構わない。彼のこの推測が誤っていたって恨みはしない。
信じたいから信じるのだ。その結果がどうなろうと、絶対に後悔しない。
「さよなら。私は、この人と一緒に行く」
『そう……あなたは、私と違うのね』
影の雨音は思い出す。
彼女は信じられなかった。親友を裏切った彼を。自分のせいで酷い目に遭っているクラスメートに対し、手を差し伸べられなかった彼を。足手まといの浮草 雨楽をどうしても信頼できず切り捨てた。
だから見届けたくなった。自分とは違う選択をした自分が、どうなるのかを。
『どうか、元気で』
祈るような気持ちで言葉を投げかけると、雨音は小さく頷き、雨楽を抱えて階段の外へ身を投げ出した。事情を知らない人間が見たら単なる自殺行為。
でも彼女は自殺志願者じゃない。
きっともう、雨楽も──
『生きてください……』
階段の縁に立って見下ろしていた彼女の頬を涙が伝い落ちる。その細い肩に別の影が手を置いて、また別の影は頭を撫でた。
いつの間にか大勢の影が同じように階段に立って下を見つめていた。何十何百の同位体の成れの果て。互いを信じることが出来なかった者達の亡霊。せめて自分同士で寄り添い、傷を舐め合おうとしていた。
それも、もう終わる。
今まで一定以上の高さにまでは上がってこなかった海面が、突然渦を巻き上昇して来る。ほどなくして激流に飲み込まれ、餌食となった彼等は感謝の念を抱いた。
あの二人がやってくれた。そう確信して。
──雨楽と共に飛び降りた雨音。その眼前に水面が迫る。衝撃に備え、彼女は彼の体を強く抱き瞼を閉じた。
ところが、いつまで経っても衝撃は来ない。不意に温もりに気付いて目を開くと二人はすでに水中に没していた。
(どういうこと?)
全く水の抵抗を感じない。落下速度が落ちないし呼吸も出来る。
今度は細い根が複雑に絡み合って出来た地面が迫って来た。今度こそぶつかってしまう。そう思った雨音は根を消し去るため、右手を突き出し灰色の炎を生み出す。
ところが根は勝手に動き、自ら二人の通れる隙間を作り出した。
「え!?」
その隙間をくぐった彼女達は、また空中に放り出される。
「これは……!?」
根の下には空が広がっていた。その空の下にはまた海があり、海の底には根の絡み合う大地があり、さらにその下には空が──延々その繰り返し。
でも、何もかもそのまま繰り返されているわけではない。落下速度がどんどん上がっていく。二人は加速を続け、やがて空と海と根の繰り返しさえも認識できないほどの速度に達した。景色のほとんどが虹色になって上方へ流れ去る。
ただ一つ、大樹だけは変わらず傍らにあった。いったいどこまでこの巨木の幹は続いているのだろう?
やがてさらに不思議なことが起きた。頭の中に次々と映像が浮かんでくる。自分の記憶、雨楽の記憶、他の誰かの記憶が入り混じっている。
全てが悲しい思い出。
水滴だ。雨として降り続いていたそれが今はほとんど同じ速度で並走している。雨粒が体のどこかに触れる度、記憶が脳裏に閃く。
ああ、そうか……この雨は自分達の心が生み出したものだったんだ。だから悲しい記憶が増えるほど水位も上がり続けていた。
そうして見えた記憶の一つに、雨楽から聞いた思い出があった。
『オレ、お前のことが好きだ』
幼馴染に告白された日。
『ふざけんな! アイツを馬鹿にするんじゃねえ!!』
その幼馴染が、激昂してクラスメートとケンカした日。
『ごめん……謝るから、秋人をなんとかしてくれ。お前から頼んでくれたら、絶対やめてくれるだろ……』
雨楽を馬鹿にしたことがきっかけでクラスの中心人物だった秋人に敵視され、いじめの標的となってしまったクラスメート、春咲 潮。
彼は助けを求めてきた。教師達はいじめに気付いていながら、問題になることを恐れて見て見ぬフリをしている。
すごく悲しかった。
どうして大人達は助けてくれないんだろう? どうしてクラスのみんなはこんなひどいことに加担するんだろう?
なけなしの勇気を振り絞り、秋人を止めようとした。久しぶりに彼の家まで行き、もう春咲君にひどいことをしないでと頼んだ。
いじめなんてしちゃいけないし、親友がそれを主導している事実が何よりも悲しかった。でも彼のその想いは秋人に伝わらなかった。
『お前のためにやってるんだろ! それなのに、なんだよ……もしかして、あいつの方が好きなのか!?』
雨楽は彼を友人として見ていた。告白されてからも結局それは変わらなかった。
逆に、秋人にとっての彼は最初から恋愛対象だった。その違いが誤解を生んだ。
怒った彼に叩かれ、押し倒され、無理矢理キスされた。
怯えて震える雨楽を見て、正気に戻った秋人が動揺した隙に、なんとかその場から逃げ出して家へ帰った。
それ以来、他人の目が怖くなった。彼等が自分をどう見ているのかわからない。一番の親友だと思っていた相手でさえ、本当はそうではなかった。彼にとっての自分は“大好きな女の子”だったのだ、ずっと。
そして少年は、外に出られなくなった。
「雨楽さん……」
やっぱりわかっていなかった。まだ幼い時分にこんな経験をしたなら、他人を信じられなくてもしかたないじゃないか。
自分も秋人と同じだ。本当の彼を見ようともしていなかった。
彼に勝手に自分の母親を重ね、理想を押し付けていた。
でも、もうやめよう。
「あなたは弱いかもしれない。けど……優しい人です」
さっきだって守ってくれた。誰かが傷付くのを見る度に、自分の心まで傷付けてしまう繊細な人。だから傷や病を癒す力に目覚めた。彼のその優しさが無ければ自分はとっくに死んでいるのに、そんなことさえ忘れていた。
「私があなたを守ります」
鏡矢の剣は弱い人々を守るためのもの。ずっとそう教わって来た。
けれど今、雨音の心は決まった。他の誰よりもまず彼を守ろうと。優しいけれど臆病で、生きることを諦めかけてしまっている。そんな彼を守り抜くことが、きっと、より多くの命を救うことに繋がるはず。
この力も、そのためだけに使おう。
時間と空間の支配者よ。藍に輝いた瞳で前方を見つめ、力の源に呼びかける。自分達をどうか元の世界に、あるべき場所に戻してください。
次の瞬間、力が応えてくれたのか永遠に続くように思われた虹色の空間の先に青い光が生じた。それがなんなのかと考える間も無く、二人はその中へ吸い込まれた。




