複雑な気持ち 5
イーレッセがどこにいるかわからないだけで、こんなにも神経を使うなんて。
茂みの背は低いから、たぶんあのイーレッセの身体は隠しきれない。だとしたら注意すべきは樹木の死角くらい。それなら、そこまで危なくない気もする。
「せーので、走るわよ」
「わかりました」
私はうなずいて答える。凛子先輩の合図にいつでも応えられるように、膝を曲げた。
強い風が吹く。がさがさと、茂みが嬲られて音を立てる。
その音に混じって黒い影がびゅっ、と私の方目掛けて飛び出した。
「うわっ!」
咄嗟に後ずさろうとして足がもつれ尻餅をつく。すると耳元でがき、と鈍い音が上がる。
「ひっ――」
引きつった声が洩れる。
鼻先で獣が鋭い牙を?いていた。偶然にも身体の前に差し出す姿勢になったミョルニルがつっかえ棒になって、口を抑えている。
爛々と光る赤い両目と、否が応にも視線が合う。不思議とこんな近距離にも関わらず獣臭さも、息遣いも感じない。ただただ、鋭い眼光が、私を捉えようと睨む。
「退きなさい!」
凛子先輩が腕を振るう。獣は事前にそれを察知して飛び退き、四肢を走らせて茂みに消えた。
「あ、ありがとうございます」
ミョルニルを杖にして立ち上がる。
「どうやら、いつものイーレッセじゃないみたいね……」
凛子先輩は左右を見回す。
栗色の体毛に、高い鼻、見た目は、犬そのもので、大きさはちょうどシロくらいだっただろうか。そしてあの赤い瞳――ということはあれがイーレッセなんだろうか。
日も落ちてきて公園内はさらに暗くなり、茂みに何かが潜んでいたとしてもたぶん気づけない。その上いつものイーレッセよりも速い。
がさりと草が揺れて黒い影が走り、また別の茂みに消える。背後でもがさがさと茂みが揺れた。それが風によるものなのか、あの、イーレッセによるものなのかわからない。
私たちを中心にするようにして自然が騒ぐ。いったいどこから飛び出してくるのか、全然見当もつかない。そもそも相手が何体いるのかさえ、定かじゃない。
私と凛子先輩はお互いの死角を補うようにして、自然に背中合わせになる。私よりも広い背中、頼りになるその人の存在だけが、唯一信じられるもの。
それと同時に重く圧し掛かる責任感。凛子先輩の死角を補っているということは同時に、こちら側から襲い掛かるイーレッセは、私が止めないといけないということだ。さっきみたいなことは絶対に許されない。私はなけなしの勇気を振り絞って、ミョルニルを構える。
小さな影が飛び出す。なんとかミョルニルを盾にして、イーレッセの攻撃を受け流し、反撃しようと構え直した時には、すでにもう姿をくらましている。すごくじれったい。
「大丈夫?」
「はい……なんとか」
イーレッセの攻撃が直線的だからかろうじて防げているけれど、それもいつまでもつかは自分でもわからない。
凛子先輩も状況は変わらないよう。物音はしても、倒す時のような決定的な動きはない。
「埒が明かないわね……」
苦々しい口調で凛子先輩が言った。
イーレッセの方もこうやってちくちくと挑発するように攻撃を仕掛けてくるのは、私たちが焦れるのを待っているようですらある。
「――結衣、走るわよ」
「だけど!」
このまま無闇に走り出すのはあまりに危険すぎる。待ち構えている罠に、自ら飛び込むようなものだ。
「このままだとジリ貧に変わりないわ。それで――」
凛子先輩から一つの指示だけ告げられる。
「わかりました」
それは賭けと言ってもいいくらいのものだったけど、それでもこのままよりは――いいかもしれなかった。




