表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
123/123

第123話 白石の封筒──犯人に血が通った

# 白石の封筒──登場人物に血が通った


 九月の第三週、放課後、部室。


 先生が封筒を持って入ってきた。B4の封筒、分厚い。差出人の名前が書いてある。白石透、桜庭高校。


「凛。手紙だ。桜庭の白石から」


 先生が凛先輩に封筒を渡した。凛先輩がソファで封を切った。中身はA4用紙二十枚。原稿だ。


「白石くんから原稿!?」


「改稿版だ。フェスの合評会で"犯人に血がない"と言った作品の書き直しだ」


「白石くん、直してきたんですか」


「直してきた。手紙が入っている。読む。"桐谷先輩。お言葉通り犯人に血を通わせました。読んでいただけると幸いです。白石透"。短い」


「白石くんらしい。簡潔だ」


「簡潔は美徳だ。俺も見習う」


 楓が静かに壮介の原稿を正した。赤ペンではなく鉛筆で。優しさだ。たぶん。

 凛先輩が原稿を読み始めた。一枚目をめくる。凛先輩の読書を邪魔しない。


 詩織さんがちゃぶ台で「遠い声」の推敲をしている。完成した後も推敲は続く。ひなたがスマホで佐々木とやりとりしている。


 十分後。凛先輩が最後のページを読み終えた。原稿を膝の上に置いた。


「白石。やるな」


「どうだったんですか!?」


「犯人の動機が書き直されている。前は"パズルのための犯人"だった。犯行の手口は精密だが動機が空っぽだった。今は"人間としての犯人"がいる」


「犯行の理由に感情がある。理不尽な怒り。やり場のない悲しみ。それでも踏み越えてしまった一線。犯人が泣いている。犯人が後悔している」


「血が通ったんですか」


「通った。完全に」


 凛先輩が感心している。


「具体的に言うと。第三章。犯人が被害者の写真を見つけるシーン。前の原稿では犯人が写真を"証拠"として扱っていた。改稿では犯人が写真を見て手が止まる。被害者の笑顔を見て手が止まる。自分が奪ったものの大きさに気づく。その三行で犯人が人間になった」


「三行で!?」


「三行だ。白石は構成の天才だ。三行で読者の感情を動かせる。前はその三行がなかった。今はある。三行があるだけで作品全体の温度が変わった」


 凛先輩が白石の改稿を解説している。


「白石の構成力は元々高い。トリックの精度も高い。足りなかったのは"犯人の体温"だけだった。その体温が入った。もう弱点はない」


「弱点がない?」


「ない。白石は完成した。俺のライバルとして」


 凛先輩が白石を「ライバル」と呼んだ。凛先輩が他人をライバルと認めるのは初めて聞いた。


「凛先輩。白石くんに電話しないんですか」


「する」


 凛先輩がスマホを取り出した。コール音、三回目で白石が出た、スピーカーにした。


「桐谷先輩にそう言ってもらえると、正直、泣きそうです」


「泣くな。俺の批評で泣くやつは初めてだ」


「先輩の批評が一番怖くて一番嬉しいんです。フェスで"犯人に血がない"と言われた時、三日間書けなくなりました」


「三日間か」


 楓が肩の力を抜いた。


「はい。でも四日目から書き直しました。先輩に言われたから。先輩の批評は正しかったから。先輩が間違っていたら三ヶ月書けなかったと思います」


「三日で済んで良かった」


「良かったです。改稿で一番苦しかったのは犯人の独白です。犯人が犯行後に一人で泣くシーン。あれを書く時、自分が泣きました」


「自分が泣いた」


「泣きました。先輩が言った"血を通わせろ"はそういう意味だったんだと、書いている途中で気づきました」


 窓から風が入ってきた。


「気づいたなら合格だ。書き手が泣いた文章は読者も泣く」


「ありがとうございます。先輩のおかげです」


「礼を言うな。お前が書き直したんだ」


「先輩。一つ聞いてもいいですか」


「なんだ」


 先生がポケットに手を突っ込んだまま。


「先輩は今、何を書いていますか」


 凛先輩が一秒黙った。


「書いている。長編を」


「長編!? 桐谷先輩が長編を!?」


「驚くな。完成したら送る」


「楽しみにしています。先輩の批評。おかげで僕の犯人が人間になりました。先輩の犯人がどうなっているか、読みたいです」


「読ませてやる」


「先輩。最後に一つ。先輩の批評は僕にとって宝物です。怖いけど。でも——宝物です」


「宝物か。大袈裟だな」


「大袈裟じゃないです。先輩の一言で僕の作品が変わりました。一言の批評が二十ページの改稿になった。一言が二十ページに膨らんだ。それは宝物です」


「白石。お前の改稿を読んだ俺のほうが宝物をもらった。白石の成長を読む。は批評者にとっての報酬だ」


 電話が切れた。


 壮介が泣いていた。楓が壮介の背中を叩いた。


「壮介。なんでお前が泣いてる」


「白石くんの話が感動して!!」


「先輩の 涙腺は常に 全開です」


「全開だ!!」


「先生も少し感動していますよ」


 楓が先生を見た。先生がコーヒーで顔を隠している。批評の力を信じる理由が、先生にはある。


    *


 電話の後。全員が帰った。部室に凛先輩と俺だけが残った。


「凛先輩。白石に批評できるのは、先輩も書いてるからですよね」


「当然だ」


「今も書いてますか」


「書いている」


「何を?」


 凛先輩がソファの下から手帳を取り出した。手帳のページを開いた。進捗メモが書いてある。数字が並んでいる。


「長編を書いている」


「長編!?」


「驚くな。俺はミステリ屋だ。短編しか書かなかったのは、長編を書く体力がなかっただけだ。今年は書く。卒業までに」


「卒業までに」


「そうだ。残り半年。半年で仕上げる」


「何ページくらい?」


「今のところ六十ページ。目標は二百ページ」


「二百ページ」


「タイトルは決めてある。"最後の密室"」


 最後の長編。作品らしいタイトルだ。


「密室って何のことですか」


「密室は俺自身だ。文芸部という密室。この部室で起きた全てを書く。三年間の全部を」


「三年間の全部」


「入部した日から卒業する日まで。全部がミステリの中に入る。犯人も被害者も探偵も全員いる。この部室の中に」


「先輩。それは」


「自伝ではない。ミステリだ。構造はミステリ。中身は三年間。俺にしか書けないものを書く」


 凛先輩が長編を書いていた。


「最後の長編」


 密室は文芸部。


「先輩。登場人物は?」


「俺たちがモデルですか」


「言えない」


「たぶん!?」


 壮介が帰り支度をしている音が聞こえた。まだいたのか。


「読めば分かる」


「壮介、原稿の「原」が「源」になってる」「意味は近い!!」「遠い」


「楓!! 全員容疑者って言った!!」


「事実です。先輩のミステリは密室で、容疑者は部員です。私も入っているかもしれません」

「容疑者は されど無罪の 文芸部」


 楓が短歌で締めた。


「五七五で無罪を主張した!!」


 凛先輩が笑った。


「誰にも言うな。完成するまで」


「言いません」


「完成したら本棚に入れる。引退の日に。俺の置き土産だ」


 置き土産。二百ページの長編作品。凛先輩がいなくなった後も本棚に残る。


 詩織さんが万年筆を握ったまま凛先輩を見ていた。


「凛先輩。先輩の長編、私も読みたいです」


「完成したらな。お前のほうが先に完成しただろう。"遠い声"」


「はい。私の一万字は完成しました。先輩の二百ページはまだです」


「六十ページだ。あと百四十。半年で書く」


「先輩なら書けます」


「お前にそう言われると照れる」


「凛先輩が照れた!!」


「照れてない」


 凛先輩が照れている。詩織さんに「書ける」と言われて。凛先輩はいつも褒める側だから。


「先輩。俺の作品にも赤ペン入れてくださいよ。秋コンに出す原稿」


「入れる。容赦しない」


「容赦してほしいけど、容赦しない先輩の赤ペンが一番伸びる」


「当然だ。赤ペンに手加減はない」


「先輩の赤ペンと白石くんの批評。両方もらえるのは贅沢ですね」


「贅沢だ。お前は贅沢な環境にいる。外の批評と内の赤ペン。両方がある」


 外の批評と内の赤ペン。白石の批評は外からの目。凛先輩の赤ペンは内からの目。両方が俺を育てている。


    *


 全員が帰った。先生がコーヒーを二本持って戻ってきた。凛先輩に一本渡した。


「白石の改稿、どうだった」


「合格だ」


「お前の批評が効いたな」


「白石の努力だ」


「お前の批評がなければ白石は書き直さなかった。批評が人を育てる」


「先生も何か書いていますか」


「少し」


「少し?」


「四十ページくらい」


「四十ページ!?」


 先生のコーヒーが傾いた。


「驚くな。十年ぶりだが書いている」


「新人賞の最終選考で落ちてから書いていなかったんですよね」


「書いていなかった。でもお前たちを見ていたら書きたくなった。毎日、目の前で書いているのを見て。コーヒーを飲みながら」


「タイトルは」


「まだない。でも舞台はかもめ荘だ」


 部室が笑いに揺れた。


「かもめ荘?」


「昔、俺もかもめ荘で書いた。学生の頃。あの場所で書くと筆が進んだ」


「先生がかもめ荘を合宿先に選んだのは」


「偶然ではない。俺にとっても書く場所だった」


 先生がかもめ荘で書いていた。合宿場所を先生が選んだ理由。


「先生。完成したら読ませてください」


「完成したら読ませてやる。何年かかるか分からんが」


「何年でも待ちます」


「待つな。お前たちは自分の原稿を書け。俺は寝て待つ」


「先生は寝て待つんですか」


「寝るのも仕事だ」


 先生がコーヒーを飲み干した。


「凛。お前の長編。俺も読みたい」


「先生が読みたいと言うのは珍しい」


「珍しいから言っている。十年ぶりに書いている人間として、現役の生徒が何を書くか気になる」


「先生。書き上げたら最初に読んでもらいます」


「最初か。光栄だな」


 凛先輩と先生が笑った。二人で。三年間の師弟関係。


 帰り道。秋の風が冷たい。


 白石が改稿を送ってきた。主人公に血が通った。凛先輩が長編を書いている。六十ページ、目標二百ページ。十年ぶり、かもめ荘で。詩織さんが「遠い声」を完成させた。全員が書いている。


 批評が人を育てるなら、育てられた人もまた誰かを育てる。ちゃぶ台から見る目で。


 壮介の赤ペンは楓だ。凛先輩は一言で核心を突く。楓は短歌で核心を突く。どちらも正しい、どちらも赤い。


 詩織さんの赤ペンは凛先輩だ。「書け」「消すな」「漏れていい」。凛先輩の三つ。言葉が詩織さんの一万二百字を生んだ。三語が一万字に。白石の一言が二十ページに。言葉の錬金術だ。


 先生の赤ペンは誰だったのだろう。七人が目の前で書いている姿が、先生の赤ペンになった。


 秋コンクールまであと一週間。七つの封筒が揃う。


 書く、読む、笑う、泣くな。秋の部室で、全員が。


 批評が人を育てる。先生が言った。白石という外の人間にまで。


 秋コンクールが近い。全員の原稿が揃う。七つの封筒がポストに入る日が近い。


 壮介が帰り際に言った。


「陽翔。俺も長編書きたいな」


「壮介が長編?」


「凛先輩が二百ページ。先生が四十ページ。俺は何ページ書けるだろう」


「壮介は二千字がやっとだろ」


 


「再来年はもう卒業だ」


 壮介の宣言。自分の作品の長編。四十二文字から始まった男が長編を夢見ている。


 楓が帰り際に呟いた。


「書くことが 人と人とを 繋ぐ糸 白石先輩の 血も通いけり」


 壮介がノートを落とした。拾おうとして頭をちゃぶ台にぶつけた。


  卓に白石の原稿が置いてある。二十枚。改稿版。主人公に血が通った原稿。凛先輩がソファで目を閉じている。六十ページの長編を頭の中で構成している。先生がコーヒーの空き缶を片づけている。


「最後の長編」


 凛先輩の三年間が収まる。先生の原稿はいつ完成するだろう。かもめ荘の話。十年越しの続き。


「ライバル」


 凛先輩が認めたライバル。部室の外にいるライバル。批評が育てたライバル。一言の批評が二十ページの改稿になった。一言が二十ページに。白石はそれを「宝物」と呼んだ。


 俺にとっての凛先輩の赤ペンも宝物だ。赤い線が原稿に入るたびに拳を握った。でも赤い線のない原稿はありえない。凛先輩の赤ペンは俺。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ