第123話 白石の封筒──犯人に血が通った
# 白石の封筒──登場人物に血が通った
九月の第三週、放課後、部室。
先生が封筒を持って入ってきた。B4の封筒、分厚い。差出人の名前が書いてある。白石透、桜庭高校。
「凛。手紙だ。桜庭の白石から」
先生が凛先輩に封筒を渡した。凛先輩がソファで封を切った。中身はA4用紙二十枚。原稿だ。
「白石くんから原稿!?」
「改稿版だ。フェスの合評会で"犯人に血がない"と言った作品の書き直しだ」
「白石くん、直してきたんですか」
「直してきた。手紙が入っている。読む。"桐谷先輩。お言葉通り犯人に血を通わせました。読んでいただけると幸いです。白石透"。短い」
「白石くんらしい。簡潔だ」
「簡潔は美徳だ。俺も見習う」
楓が静かに壮介の原稿を正した。赤ペンではなく鉛筆で。優しさだ。たぶん。
凛先輩が原稿を読み始めた。一枚目をめくる。凛先輩の読書を邪魔しない。
詩織さんがちゃぶ台で「遠い声」の推敲をしている。完成した後も推敲は続く。ひなたがスマホで佐々木とやりとりしている。
十分後。凛先輩が最後のページを読み終えた。原稿を膝の上に置いた。
「白石。やるな」
「どうだったんですか!?」
「犯人の動機が書き直されている。前は"パズルのための犯人"だった。犯行の手口は精密だが動機が空っぽだった。今は"人間としての犯人"がいる」
「犯行の理由に感情がある。理不尽な怒り。やり場のない悲しみ。それでも踏み越えてしまった一線。犯人が泣いている。犯人が後悔している」
「血が通ったんですか」
「通った。完全に」
凛先輩が感心している。
「具体的に言うと。第三章。犯人が被害者の写真を見つけるシーン。前の原稿では犯人が写真を"証拠"として扱っていた。改稿では犯人が写真を見て手が止まる。被害者の笑顔を見て手が止まる。自分が奪ったものの大きさに気づく。その三行で犯人が人間になった」
「三行で!?」
「三行だ。白石は構成の天才だ。三行で読者の感情を動かせる。前はその三行がなかった。今はある。三行があるだけで作品全体の温度が変わった」
凛先輩が白石の改稿を解説している。
「白石の構成力は元々高い。トリックの精度も高い。足りなかったのは"犯人の体温"だけだった。その体温が入った。もう弱点はない」
「弱点がない?」
「ない。白石は完成した。俺のライバルとして」
凛先輩が白石を「ライバル」と呼んだ。凛先輩が他人をライバルと認めるのは初めて聞いた。
「凛先輩。白石くんに電話しないんですか」
「する」
凛先輩がスマホを取り出した。コール音、三回目で白石が出た、スピーカーにした。
「桐谷先輩にそう言ってもらえると、正直、泣きそうです」
「泣くな。俺の批評で泣くやつは初めてだ」
「先輩の批評が一番怖くて一番嬉しいんです。フェスで"犯人に血がない"と言われた時、三日間書けなくなりました」
「三日間か」
楓が肩の力を抜いた。
「はい。でも四日目から書き直しました。先輩に言われたから。先輩の批評は正しかったから。先輩が間違っていたら三ヶ月書けなかったと思います」
「三日で済んで良かった」
「良かったです。改稿で一番苦しかったのは犯人の独白です。犯人が犯行後に一人で泣くシーン。あれを書く時、自分が泣きました」
「自分が泣いた」
「泣きました。先輩が言った"血を通わせろ"はそういう意味だったんだと、書いている途中で気づきました」
窓から風が入ってきた。
「気づいたなら合格だ。書き手が泣いた文章は読者も泣く」
「ありがとうございます。先輩のおかげです」
「礼を言うな。お前が書き直したんだ」
「先輩。一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
先生がポケットに手を突っ込んだまま。
「先輩は今、何を書いていますか」
凛先輩が一秒黙った。
「書いている。長編を」
「長編!? 桐谷先輩が長編を!?」
「驚くな。完成したら送る」
「楽しみにしています。先輩の批評。おかげで僕の犯人が人間になりました。先輩の犯人がどうなっているか、読みたいです」
「読ませてやる」
「先輩。最後に一つ。先輩の批評は僕にとって宝物です。怖いけど。でも——宝物です」
「宝物か。大袈裟だな」
「大袈裟じゃないです。先輩の一言で僕の作品が変わりました。一言の批評が二十ページの改稿になった。一言が二十ページに膨らんだ。それは宝物です」
「白石。お前の改稿を読んだ俺のほうが宝物をもらった。白石の成長を読む。は批評者にとっての報酬だ」
電話が切れた。
壮介が泣いていた。楓が壮介の背中を叩いた。
「壮介。なんでお前が泣いてる」
「白石くんの話が感動して!!」
「先輩の 涙腺は常に 全開です」
「全開だ!!」
「先生も少し感動していますよ」
楓が先生を見た。先生がコーヒーで顔を隠している。批評の力を信じる理由が、先生にはある。
*
電話の後。全員が帰った。部室に凛先輩と俺だけが残った。
「凛先輩。白石に批評できるのは、先輩も書いてるからですよね」
「当然だ」
「今も書いてますか」
「書いている」
「何を?」
凛先輩がソファの下から手帳を取り出した。手帳のページを開いた。進捗メモが書いてある。数字が並んでいる。
「長編を書いている」
「長編!?」
「驚くな。俺はミステリ屋だ。短編しか書かなかったのは、長編を書く体力がなかっただけだ。今年は書く。卒業までに」
「卒業までに」
「そうだ。残り半年。半年で仕上げる」
「何ページくらい?」
「今のところ六十ページ。目標は二百ページ」
「二百ページ」
「タイトルは決めてある。"最後の密室"」
最後の長編。作品らしいタイトルだ。
「密室って何のことですか」
「密室は俺自身だ。文芸部という密室。この部室で起きた全てを書く。三年間の全部を」
「三年間の全部」
「入部した日から卒業する日まで。全部がミステリの中に入る。犯人も被害者も探偵も全員いる。この部室の中に」
「先輩。それは」
「自伝ではない。ミステリだ。構造はミステリ。中身は三年間。俺にしか書けないものを書く」
凛先輩が長編を書いていた。
「最後の長編」
密室は文芸部。
「先輩。登場人物は?」
「俺たちがモデルですか」
「言えない」
「たぶん!?」
壮介が帰り支度をしている音が聞こえた。まだいたのか。
「読めば分かる」
「壮介、原稿の「原」が「源」になってる」「意味は近い!!」「遠い」
「楓!! 全員容疑者って言った!!」
「事実です。先輩のミステリは密室で、容疑者は部員です。私も入っているかもしれません」
「容疑者は されど無罪の 文芸部」
楓が短歌で締めた。
「五七五で無罪を主張した!!」
凛先輩が笑った。
「誰にも言うな。完成するまで」
「言いません」
「完成したら本棚に入れる。引退の日に。俺の置き土産だ」
置き土産。二百ページの長編作品。凛先輩がいなくなった後も本棚に残る。
詩織さんが万年筆を握ったまま凛先輩を見ていた。
「凛先輩。先輩の長編、私も読みたいです」
「完成したらな。お前のほうが先に完成しただろう。"遠い声"」
「はい。私の一万字は完成しました。先輩の二百ページはまだです」
「六十ページだ。あと百四十。半年で書く」
「先輩なら書けます」
「お前にそう言われると照れる」
「凛先輩が照れた!!」
「照れてない」
凛先輩が照れている。詩織さんに「書ける」と言われて。凛先輩はいつも褒める側だから。
「先輩。俺の作品にも赤ペン入れてくださいよ。秋コンに出す原稿」
「入れる。容赦しない」
「容赦してほしいけど、容赦しない先輩の赤ペンが一番伸びる」
「当然だ。赤ペンに手加減はない」
「先輩の赤ペンと白石くんの批評。両方もらえるのは贅沢ですね」
「贅沢だ。お前は贅沢な環境にいる。外の批評と内の赤ペン。両方がある」
外の批評と内の赤ペン。白石の批評は外からの目。凛先輩の赤ペンは内からの目。両方が俺を育てている。
*
全員が帰った。先生がコーヒーを二本持って戻ってきた。凛先輩に一本渡した。
「白石の改稿、どうだった」
「合格だ」
「お前の批評が効いたな」
「白石の努力だ」
「お前の批評がなければ白石は書き直さなかった。批評が人を育てる」
「先生も何か書いていますか」
「少し」
「少し?」
「四十ページくらい」
「四十ページ!?」
先生のコーヒーが傾いた。
「驚くな。十年ぶりだが書いている」
「新人賞の最終選考で落ちてから書いていなかったんですよね」
「書いていなかった。でもお前たちを見ていたら書きたくなった。毎日、目の前で書いているのを見て。コーヒーを飲みながら」
「タイトルは」
「まだない。でも舞台はかもめ荘だ」
部室が笑いに揺れた。
「かもめ荘?」
「昔、俺もかもめ荘で書いた。学生の頃。あの場所で書くと筆が進んだ」
「先生がかもめ荘を合宿先に選んだのは」
「偶然ではない。俺にとっても書く場所だった」
先生がかもめ荘で書いていた。合宿場所を先生が選んだ理由。
「先生。完成したら読ませてください」
「完成したら読ませてやる。何年かかるか分からんが」
「何年でも待ちます」
「待つな。お前たちは自分の原稿を書け。俺は寝て待つ」
「先生は寝て待つんですか」
「寝るのも仕事だ」
先生がコーヒーを飲み干した。
「凛。お前の長編。俺も読みたい」
「先生が読みたいと言うのは珍しい」
「珍しいから言っている。十年ぶりに書いている人間として、現役の生徒が何を書くか気になる」
「先生。書き上げたら最初に読んでもらいます」
「最初か。光栄だな」
凛先輩と先生が笑った。二人で。三年間の師弟関係。
帰り道。秋の風が冷たい。
白石が改稿を送ってきた。主人公に血が通った。凛先輩が長編を書いている。六十ページ、目標二百ページ。十年ぶり、かもめ荘で。詩織さんが「遠い声」を完成させた。全員が書いている。
批評が人を育てるなら、育てられた人もまた誰かを育てる。ちゃぶ台から見る目で。
壮介の赤ペンは楓だ。凛先輩は一言で核心を突く。楓は短歌で核心を突く。どちらも正しい、どちらも赤い。
詩織さんの赤ペンは凛先輩だ。「書け」「消すな」「漏れていい」。凛先輩の三つ。言葉が詩織さんの一万二百字を生んだ。三語が一万字に。白石の一言が二十ページに。言葉の錬金術だ。
先生の赤ペンは誰だったのだろう。七人が目の前で書いている姿が、先生の赤ペンになった。
秋コンクールまであと一週間。七つの封筒が揃う。
書く、読む、笑う、泣くな。秋の部室で、全員が。
批評が人を育てる。先生が言った。白石という外の人間にまで。
秋コンクールが近い。全員の原稿が揃う。七つの封筒がポストに入る日が近い。
壮介が帰り際に言った。
「陽翔。俺も長編書きたいな」
「壮介が長編?」
「凛先輩が二百ページ。先生が四十ページ。俺は何ページ書けるだろう」
「壮介は二千字がやっとだろ」
「再来年はもう卒業だ」
壮介の宣言。自分の作品の長編。四十二文字から始まった男が長編を夢見ている。
楓が帰り際に呟いた。
「書くことが 人と人とを 繋ぐ糸 白石先輩の 血も通いけり」
壮介がノートを落とした。拾おうとして頭をちゃぶ台にぶつけた。
卓に白石の原稿が置いてある。二十枚。改稿版。主人公に血が通った原稿。凛先輩がソファで目を閉じている。六十ページの長編を頭の中で構成している。先生がコーヒーの空き缶を片づけている。
「最後の長編」
凛先輩の三年間が収まる。先生の原稿はいつ完成するだろう。かもめ荘の話。十年越しの続き。
「ライバル」
凛先輩が認めたライバル。部室の外にいるライバル。批評が育てたライバル。一言の批評が二十ページの改稿になった。一言が二十ページに。白石はそれを「宝物」と呼んだ。
俺にとっての凛先輩の赤ペンも宝物だ。赤い線が原稿に入るたびに拳を握った。でも赤い線のない原稿はありえない。凛先輩の赤ペンは俺。




