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第12話 サッカー部の影

# サッカー部の影



 昼休み。購買にパンを買いに行く途中だった。


 廊下を歩いていると、向こうからサッカー部のユニフォーム姿の集団が来た。練習着のまま移動しているらしい。汗の匂い。スパイクが廊下に当たるカツカツという音。ユニフォームの胸に「ASANAGI」のロゴ。紺と白のストライプ。見慣れた色だ。二ヶ月前まで、俺もあの色を着ていた。


 すれ違おうとした。


「よう、朝倉!」


 呼び止められた。集団の中から一人が歩み寄ってくる。田中。田中翔太。サッカー部時代のチームメイトで、同じフォワードだった。中学のときからの知り合いだ。身長は俺より少し低いが、足は速い。スプリントだけなら部内で一番だった。悪意のない笑顔で近づいてくる。


「久しぶり。元気?」


「ああ、まあ」


「聞いたよ、文芸部入ったんだって? マジで?」


 田中の声は明るかった。驚きはあるが、否定はない。ただの好奇心だ。


 周りのサッカー部員も振り返った。何人かは俺のことを知っている。何人かは知らない。


「朝倉って元サッカー部の?」


「ああ、膝壊したやつだろ」


「文芸部って何するの?」


 悪気はない。全員、悪気がない。それはわかっている。でも「膝壊したやつ」という一言が、廊下の空気に混ざって俺の耳に届いたとき、胸の奥がちくりと痛んだ。


「膝、もう大丈夫なの?」


 田中が聞いた。心配している顔だ。本物の心配。


「走れはする。でもサッカーは無理だ」


「そっか」


 田中が少し寂しそうな顔をした。


「お前がいなくなって、フォワード薄いんだよ。一年の新入部員が入ったけど、お前みたいにはいかないな。戻ってこない?」


 冗談半分。本気半分。田中の目を見ればわかる。この男は嘘がつけないタイプだ。本気で戻ってきてほしいと思っている。俺と田中は中学二年のときからツートップを組んでいた。息が合った。田中が右サイドに流れて俺が中央に残る。田中のクロスに俺がヘッドで合わせる。何百回もやった連携。あの感覚は、俺の身体にまだ残っている。


「無理だよ」


 笑って答えた。笑えた。口角は上がった。でも声が硬くなったのは自分でもわかった。「無理」の「り」の音が微かに掠れた。


「そっか。まあ、文芸部も頑張れよ」


「ああ」


 田中が手を振って集団に戻っていく。スパイクの音が遠ざかっていく。紺と白のユニフォームが廊下の角を曲がって消えた。汗の匂いが薄れていく。最後に残ったのは、廊下のワックスの匂いだけだった。


 俺はその場に立っていた。購買に行く足が、少しだけ重くなっていた。手のひらが汗ばんでいた。拳を握って、開いた。田中の「戻ってこない?」が、まだ耳の中に残っている。



    *



 田中と話している途中で、壮介が通りかかった。


 空気を読まず割って入ってきた。いつものことだ。


「おーサッカー部の人? 陽翔の元チームメイト?」


「壮介、今はちょっと」


「文芸部すげえんだぜ! カレーうどんの小説が読めるし、プリン事件の推理もできるし、巨大カレーうどンと戦える!」


 田中たちが困惑している。


「カレーうどン?」


「巨大?」


「しかもプリン事件って何?」


「推理もできるって、探偵部なの?」


「こいつの言うことは忘れてくれ」


 壮介の口を手で塞いだ。壮介が口を塞がれたまま何か言っている。


「もごもご(ぶんげいぶさいこう!)」


「黙れ」


「もごもご(かれーうどんさいこう!)」


「それは文芸部関係ない!」


 田中が笑った。さっきの寂しそうな顔が消えて、素直に笑っていた。周りのサッカー部員も笑っている。壮介の破壊力は敵味方を問わない。


「朝倉、楽しそうじゃん」


 その一言で、足が止まった。


 楽しそう。


 楽しそう、か。


 田中は素直にそう思ったんだろう。壮介がバカみたいなことを叫んで、俺がツッコんで、二人でもみ合っている姿を見て「楽しそう」と感じた。それは事実だ。たぶん俺は楽しそうに見えたんだろう。文芸部に入る前の俺は、こんな顔をしていなかったはずだ。放課後に一人で帰っていた頃の俺は、こんなふうに誰かの口を塞いだりしなかった。


 でも俺の中では、その言葉が別の形に変換されてしまった。


 「お前はサッカーを捨てて楽しそうだな」。


 田中はそんなこと一ミリも思っていない。被害妄想だ。わかっている。わかっているのに、止められない。胸の奥のどこかで、サッカー部だった俺が、文芸部の俺を睨んでいる。お前は裏切り者だ、と。



    *



 放課後。


 他のメンバーより先に部室に来た。引き戸を開ける。誰もいない。畳の匂いとお茶の残り香だけがある。


 ちゃぶ台の前に座った。南側。俺の席。


 PCを開かなかった。ノートも出さなかった。ペンにも触れなかった。


 ただ窓の外を見ていた。


 窓からグラウンドが見える。サッカー部が練習を始めていた。ホイッスルの音。短い掛け声。ボールが蹴られる乾いた音。スパイクが芝を噛む音。全部知っている。全部、身体が覚えている。


 左膝に手を置いた。サポーターはもうつけていない。制服の上から指で押す。痛みはもうほとんどない。走ろうと思えば走れる。でもサッカーは無理だ。急な方向転換。スプリント。シュート。膝に負荷がかかる動き全部が、もうできない。


 痛みはない。でも「痛かった記憶」が膝に染みついている。身体が覚えている。あの日、膝が壊れた瞬間の音。ゴムが切れるみたいな、パチンという音。


 逃げたのか。


 選んだのか。


 文芸部に来たのは、サッカーができなくなったからだ。消去法だ。霧島先生に腕を掴まれて、引きずられてきた。好きで来たわけじゃない。


 そうだったはずだ。最初は。


 じゃあ今は?


 今の俺は、なんでここに座ってるんだ。


 カレーうどんのエッセイを書いて、合評会をやって、部誌を作って、ミステリ講座を受けて。全部面白かった。楽しかった。でもそれは「サッカーの代わり」なのか。代用品なのか。本物じゃないのか。


 答えが出ない。


 ちゃぶ台の木目を見つめていた。木目の線が、グラウンドの白線に見えた気がした。


 田中は悪気がなかった。「戻ってこない?」は、純粋な誘いだった。フォワードが足りない。俺がいた頃のほうがチームは強かった。それは事実だろう。田中は事実を言っただけだ。


 でも事実が一番痛い。


 「楽しそうじゃん」も痛かった。壮介と俺のやりとりを見て、田中が素直にそう感じた。文芸部が楽しそうだと。それ自体は嬉しいことのはずだ。なのに俺は「サッカーを捨てて楽しそうだな」と翻訳してしまった。勝手に。誰にも頼まれてないのに。


 被害妄想だ。わかっている。田中は俺を責めていない。周りのサッカー部員も責めていない。「膝壊したやつ」と言ったのは、ただの事実確認だ。


 責めているのは俺自身だ。


 サッカーを辞めたことを、まだ自分で許せていない。文芸部で楽しい日々を送るたびに、膝の奥から小さな声が聞こえる。「お前は逃げたんだ」と。「サッカーができなくなったから、他の場所に逃げたんだ」と。


 窓の外で、ホイッスルが鳴った。短い音。練習開始の合図だ。かけ声が重なる。「一本!」「切り替え!」「走れ!」。全部知っている言葉だ。全部、俺が使っていた言葉だ。


 「走れ」。


 一番よく聞いた言葉だ。監督が言う。先輩が言う。チームメイトが言う。俺自身が自分に言う。走れ。走れ。もっと走れ。あの頃は、走ることしか考えていなかった。走ることが全部だった。走れなくなった日に、全部が終わった。


 今は畳の上に座っている。走っていない。走れない。でもここにいる。


 ここにいることは、意味があるのか。



    *



 引き戸がカラカラと開いた。


 詩織さんが入ってきた。鞄を肩にかけて、いつもの穏やかな表情で。


 でも俺の顔を見た瞬間、足が一瞬止まった。何かを察したんだろう。この人は観察力が異常だ。俺の表情の0.5秒の変化まで読み取る人だ。今の俺の顔が普段と違うことくらい、一目でわかったはずだ。


 詩織さんは何も聞かなかった。


 いつもの席に座った。鞄からノートと万年筆を取り出した。万年筆のキャップを外して、原稿用紙に向かった。カリカリという音が始まった。


 二人だけの部室。万年筆の音だけが流れている。


 しばらくそのまま、俺は窓の外を見ていて、詩織さんは原稿を書いていた。五分くらい。もっと長かったかもしれない。時間の感覚がぼんやりしていた。


 詩織さんがペンを止めずに言った。


「朝倉くん」


「はい」


「朝倉くんの書く文章、サッカーの描写がすごく生き生きしてます」


 こちらを見ていなかった。原稿用紙に向かったまま、万年筆を動かしながら話している。


「カレーうどんのときも、エッセイのときも、リライト大会のときも。動くものの書き方がすごく鮮やかなんです。走る人、蹴る人、飛ぶ人。そういうものを書くとき、朝倉くんの文章には他の人にはない熱量がある」


「熱量、ですか」


「はい。たとえばリライト大会で"膝が痛む。でも関係ない"って書いたとき。あの一文には、身体で覚えた重さがありました。頭で考えた文章じゃなくて、身体から出てきた文章。それは、サッカーをやっていた朝倉くんだから書ける言葉だと思います」


 万年筆のカリカリ音が続いている。詩織さんはまだこっちを見ない。


「サッカーをやっていた自分が、無駄だったなんて思わないでください。あの経験があるから、朝倉くんの言葉には体温がある。走ったことがある人にしか書けない文章が、確かにあるんです」


 胸の奥が熱くなった。


 詩織さんの言葉は、俺の「過去の自分」を否定しなかった。サッカーをやっていた自分が無駄じゃなかったと言っている。あの日々があったからこそ書ける言葉がある、と。走ったから書ける。蹴ったから書ける。痛かったから書ける。


 言い返す言葉が見つからなかった。ありがとうも、そうですかも、違う気がした。何も言えなかった。ただ詩織さんの横顔を見ていた。万年筆を走らせる細い指。原稿用紙に落ちるインクの線。この人は俺のことを、こんなふうに見ていたのか。俺の文章の中にサッカーを見つけてくれていたのか。


 引き戸がまた開いた。


 凛先輩が入ってきた。俺の表情と、詩織さんの背中を一瞬見て、状況を把握したようだった。何も聞かなかった。ソファに座って、文庫本を開いた。


 しばらくページをめくる音だけが加わった。万年筆のカリカリと、ページをめくるパサッ。二つの音が交互に鳴っている。


 凛先輩が、文庫本に目を落としたまま、独り言のように言った。


「サッカーを辞めた人間が文芸部にいるのは、矛盾じゃないよ」


「先輩」


「過去を持ったまま新しい場所に来た、ってだけだ。捨てたわけじゃない。持ったまま来た」


 凛先輩はこちらを見なかった。文庫本のページに目を落としたまま、静かな声で続けた。


「私だってそうだ。中学で人間関係に疲れて、一人で本を読む場所が欲しくて文芸部に来た。逃げ場が必要だった。でも気づいたら居場所になっていた。逃げた先が、いつの間にか帰る場所になってた。それだけのことだ」


 先輩の声は淡々としていた。でも「それだけのことだ」の「だけ」に、少しだけ力がこもっていた。


 二人とも、俺を見なかった。詩織さんは万年筆を動かし続けていたし、凛先輩は文庫本を読み続けていた。俺に向かって語りかけたのではなく、ただ自分の思いを口にした、という形。


 でも全部、俺に届いていた。


 詩織さんは「過去の自分」を肯定してくれた。サッカーがあったからこそ、今の文章がある、と。凛先輩は「今の場所」を肯定してくれた。逃げた先が居場所になった。それでいい、と。


 二つの言葉が、別々の方向から俺を包んでいた。過去と現在。両方を否定しなくていい。両方を持ったまま、ここにいていい。


 窓の外から、まだサッカー部の声が聞こえていた。でもさっきほど痛くなかった。



    *



 引き戸が蹴り開けられた。


「引き戸を蹴るな!!」


 凛先輩の声が飛ぶ。


 壮介が仁王立ちしていた。鞄を片手に、もう片方の手におにぎりを持っている。


 部室に一歩入って、止まった。空気を察したのだ。壮介にしては珍しい。しんみりした空気が部室に残っていることを、この男なりに感じ取った。


 三秒黙った。


 壮介が三秒黙るのは、たぶん入部以来初めてだ。


 そして言った。


「なあ、焼肉行かない?」


 吹き出した。


 自分でも驚いた。笑いが出た。さっきまで窓の外を見つめて、ちゃぶ台の木目を見つめて、膝を押さえて、答えの出ない問いを抱えていたのに。壮介の「焼肉行かない?」で笑ってしまった。


「お前のそういうとこ、好きだよ」


「え、告白?」


「違えよ」


「だって"好き"って言った!」


「文脈を読め」


「文脈って何!」


「小説の授業で習っただろ!」


「習ってない!」


 凛先輩がソファで小さくため息をついた。でも口元は笑っていた。


「大和、空気を壊す天才だな」


「褒めてくれてありがとう」


「褒めてない」


「褒めてるだろ! 天才って言った!」


「壊す天才だ。壊すほうにしか才能がない」


「壊すのも才能だ!」


 否定できなかった。壮介が空気を壊してくれなかったら、俺はまだちゃぶ台の木目を見つめていたかもしれない。この男の「空気を読まない力」は、たまに人を救う。


 霧島先生が遅れて部室に入ってきた。缶コーヒーを開けながら。


「お、全員揃ってるな。珍しく真面目な顔してるじゃないか」


「真面目じゃないです。焼肉の話をしてました」


「焼肉か。いいな。俺も行きたい」


「先生も来ます?」


「給料日後なら考える」


「先生、いつも給料日後ですね」


「教師の財布は常に給料日前だ」


 部室がいつもの温度に戻っていた。壮介が騒いで、凛先輩がツッコんで、詩織さんがメモを取って、霧島先生が缶コーヒーを飲む。いつもの光景。いつもの音。さっきまでの沈黙が嘘みたいだ。



    *



 帰り道。


 学校の裏手にある図書館に寄った。前にも来たことがある。合評会の後に「海辺の椅子」の作品集を借りた場所だ。


 今日は別のコーナーに向かった。


 スポーツ小説。棚の一角にスポーツを題材にした小説が並んでいる。野球、バスケ、陸上、水泳。そしてサッカー。思っていたより数が多い。背表紙を指でなぞりながら、一冊ずつタイトルを読んでいく。


 一冊手に取った。表紙にサッカーボールのイラスト。タイトルは知らない作品だった。裏表紙のあらすじを読んだ。怪我でプロを諦めた元選手が、少年サッカーのコーチになる話。


 膝が疼いた。物理的な痛みではない。記憶の痛みだ。でもこの本の主人公も、膝を壊しているのかもしれない。走れなくなった人間が、走ることを教える話。走れなくなっても、サッカーとの関わり方は一つじゃない。


 本を棚に戻さなかった。借りた。図書カードに名前を書いた。


 もう一冊、目についた本があった。短編集。サッカーではなく、陸上を題材にした小説だった。走ることについて書かれた小説。表紙は地味だったが、最初の一行を読んだら手が止まらなくなった。「走ることは、地面との対話だ」。


 これも借りた。


 図書館を出て、夕暮れの道を歩いた。鞄にサッカー小説と陸上小説が入っている。教科書と、部誌の創刊号と、先週借りた文庫本の横に。スポーツ小説が二冊も鞄に入っている。文芸部員の鞄としては、たぶん正しい。


 サッカーは、書ける。


 走ることはもうできない。蹴ることもできない。グラウンドに戻ることもできない。でも「書く」ことで、あの世界にもう一度触れられるのかもしれない。詩織さんが言っていた。「サッカーをやっていた朝倉くんだから書ける言葉がある」と。凛先輩が言っていた。「過去を持ったまま新しい場所に来た」と。


 過去を捨てたんじゃない。持ったまま来たんだ。膝の痛みも、グラウンドの記憶も、ホイッスルの音も、田中の「戻ってこない?」も、全部持ったまま。文芸部のちゃぶ台の前に座っている。


 家に帰った。鞄を置いて、制服のまま机に向かった。ノートを開いた。シャーペンを手に取った。


 何を書くか、決めていなかった。エッセイなのか小説なのかもわからない。でもペンを持った瞬間、指が動いた。


 書いた。最初の一行。


 「走れ、朝倉」。


 三文字の名前。自分の名前。自分に向けた命令。走れ。もう走れない膝を持った人間が、自分に「走れ」と言っている。矛盾だ。でも書きたかった。


 膝が壊れた日のこと。グラウンドの匂い。ホイッスルの音。チームメイトの声。田中の「戻ってこない?」。壮介の「焼肉行かない?」。詩織さんの「身体で覚えた言葉」。凛先輩の「過去を持ったまま」。全部が、一行の後に並ぼうとしている。


 書けるかどうかはわからない。完成するかどうかもわからない。四十二文字で終わるかもしれない。壮介の焼肉エッセイより短いかもしれない。


 でも書きたいと思った。走れなくなった俺が、走ることを書く。矛盾しているかもしれない。でも文芸部にいること自体が、最初から矛盾だった。サッカー部を辞めた人間が書く部活に入った。矛盾の上に立っている。


 だったら、もう一つ矛盾を重ねたっていい。


 走れない人間が、走ることを書く。


 ペンが動いた。二行目を書いた。三行目を書いた。窓の外が暗くなっていくのに気づかないまま、俺はノートに向かい続けた。


 走れない足で、走ることを書いている。それが、今の俺にできる、たったひとつの全力のスプリントだった。

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