第114話 最終日の朝──「書くと告白になる」
# 最終日の朝──『書くと告白になる』
合宿最終日の朝。荷物をまとめている。
詩織さんの手つきが普段と違った。ノートを鞄に入れる時、一番奥に押し込んだ。いつもはすぐ取り出せる位置に入れるのに。隠すように。慎重に。
「詩織さん、昨日の執筆会で何か書いてた?」
「はい。少しだけ」
「読ませてもらっていい?」
詩織さんの手が止まった。三秒。
「今回は、ダメです」
初めてだった。詩織さんが俺に原稿を見せることを断ったのは。入部した時からずっと。
「読んでください」
と差し出してきた人が。一度も断らなかった人が。
「ダメ?」
「はい。今回は。すみません」
微笑んでいる。でも目が違う。
「分かった。無理に見せなくていい」
「ありがとうございます」
詩織さんがノートを鞄の奥にしまった。万年筆はまだ手に持っている。でもキャップが閉まっている。
朝食の時も詩織さんは静かだった。いつもなら。
「山の朝食は取材対象です」
と言いながらメモを取る。声がいつもより小さかった。
凛先輩が朝食の途中で席を立った。詩織さんに何か耳打ちして、二人で食堂を出ていった。俺には聞こえなかった。凛先輩が詩織さんを連れて出ることはたまにある。合評の時もそうだ。二人だけで話す時がある。俺は入れない。
*
朝食後。凛先輩に呼ばれた。
廊下、二人きり。窓から朝の光が入っている。山の空気が冷たい。私はペンを握ったまま立っていた。キャップは閉まっている。書けない万年筆、でも手放せなかった。
「千歳。ペンが止まっていただろ」
「気づいてましたか」
「お前の万年筆が止まる時は二つのパターンがある。構成に悩んでいる時。もう一つは、書きたくないものを書きそうになった時。昨夜は後者だった」
「何が書けなかった」
楓が壮介のノートを一瞥した。
「誤字三箇所です」
数えていたのか。
数秒、黙った。窓から風が入ってきた。髪が揺れた。言葉は見つかっている。
「書くと、告白になってしまうんです」
言ってしまった。凛先輩の目が一瞬動いた。すぐに戻った。
「告白」
「最近、何を書いても、朝倉くんのことになってしまう。描写が、比喩が、感情が、全部。フィクションで書こうとしても、嘘がつけない私には隠しきれなくて」
ペンを握る手が震えていた。
昨夜の執筆会で書こうとした。は手紙の話だった。差出人が受取人に届かない声を書き続ける話。でも書いているうちに受取人の輪郭が朝倉くんになった。
差出人が朝倉くんの隣に座りたいと書いた。「取材」ではなく「願い」を書いてしまった。気づいた瞬間にペンが止まった。
「取材です、と言い張ってきました。朝倉くんのことを百ページ以上書いても"取材の一環です"で済ませてきました。好きな食べ物も、走り方の癖も、ツッコミのタイミングも、全部記録しました。全部"取材"でした。でも最近は書けば書くほど、文章が告白になる」
「それの何が問題だ」
「問題です! 朗読したら全員にバレます。合評会に出したら審査員にもバレます」
「バレて何が困る」
「困ります!」
声が大きくなった。自分でも驚いた。
「朝倉くんが知ったら、今の関係が変わってしまう。ちゃぶ台を挟んで座れなくなるかもしれない。"メモします"と言っても笑ってもらえなくなるかもしれない。私は朝倉くんの隣で"気になります"と言える今の距離が好きなんです。その距離を失いたくない」
凛先輩が三秒黙った。
「千歳。それは作家として正しい」
「え?」
「書けなくなるほどの感情を持っている。それは恥じることじゃない。むしろ羨ましい。俺のミステリには感情が足りないと白石に言われた。お前の文章には感情がありすぎて溢れている。それは才能だ」
才能。
「告白になるなら、告白を書け。書くことと感じることが一致するのは、書き手にとって最高の状態だ」
「でも、バレたら」
「バレていい。お前の感情を読みたい読者がいる。俺がいる。壮介がいる。楓がいる。お前が何を書いても、俺たちは読む」
「書け。千歳。告白になるなら、告白を書け。それがお前の最高傑作になる」
目が潤んだ。ペンを握る手の震えが止まった。
「書きます」
「いい返事だ」
「でも凛先輩。書いたものを朝倉くんに見せる勇気は、まだありません」
「見せなくていい。まず書け。書くことと見せることは別の行為だ。書くのは自分のためだ。見せるのは読者のためだ」
別の行為。書くことと見せること。確かに違う。ノートに書いた時点では私だけのものだ。見せなければ誰にもバレない。まず書く、書いた後で考える。
「書かないと、感情が腐る」
「感情が腐る?」
「書かない感情は腐る。書いた感情は生きる。腐らせるな」
凛先輩が背を向けた、廊下を歩いていった、振り返らなかった。
背中を見ていた。見えなくなるまで。
それのキャップを外した。ペン先が朝の光を反射した。お前なら書けると信じているから「書け」と言う。
朝倉くんのことを書く。告白になる。凛先輩がそう言った。
帰ったら書こう、部室で、ちゃぶ台の前で。朝倉くんの向かいで。朝倉くんに聞こえない声で。万年筆の音だけが届く距離で。
手紙の話を書く、差出人は私。受取人は名前のない人。名前は書かない。でも読む人が読めば分かるだろう。私の文章は嘘がつけないから。嘘がつけないことが、今は心臓が速くなった。
「書け」
書く。怖くても書く。
*
壮介と荷造りをしていた。
「詩織ちゃん、今日なんか静かだな」
「朝から原稿見せてくれなかった」
「それは珍しいな。初めてじゃないか?」
「初めてだ」
壮介が俺の顔を見ている。からかう目ではない。
「陽翔。お前、鈍いぞ」
「何がだよ」
「何がって」
壮介が三秒考えた。見つからなかったらしい。
「話が飛びすぎだ」
「飛ぶ!! 壮介は飛ぶ!!」
壮介が話題を変えた。壮介すら気づいているのに俺だけが気づかない。
楓が部屋から出てきた。
楓が壮介の原稿を黙って返した。付箋が七枚貼ってあった。
畳がきしんだ。
「最高の朝食だ!!」
「先輩の 最後の朝は カレーの香」
楓が壮介の横を通り過ぎる時、小声で言った。
「詩織先輩のこと、気づいていますか」
「気づいてる。でも俺が言うことじゃない」
「そうですね。先輩は正しいです」
壮介が小さく頷いた。
「楓」
「はい」
「俺は鈍いか?」
「先輩は鈍くないです。人の気持ちには敏感です」
「陽翔は?」
畳が壮介の声で振動した。
「朝倉先輩は鈍いです。自分のことだけ」
「自分のことだけ鈍いのか」
「はい。他人のことは見えています。自分のことだけが見えない。それが朝倉先輩の鈍さです」
「楓は全部見えてるんだな」
「短歌詠みですから。でも、見えることと言えることは違います」
部室が笑いに揺れた。
「言えないこともあるのか」
「あります。たくさん」
楓の声が少し低くなった。楓にも言えないことがある。壮介は気づかなかった。楓の「言えないこと」が何を指しているのか。壮介は人の気持ちに敏感だが、楓の気持ちだけは読めない。楓が近すぎるからかもしれない。
*
退所式。三校がロビーに整列した。
五日間が終わる、山の研修施設。かもめ荘とは違う合宿だった。二十人。山。ライバルも隣にいたいた。
白石が手を差し出した。
「朝凪さん。夏のコンクールで会いましょう。構成、磨いてきてね」
「磨いてる」
握手した。白石が小声で言った。白石はいつも全部知っている顔で笑う。
氷室が詩織さんに声をかけた。
「千歳さん。次は負けません」
「氷室さん。私も負けません」
ライバルの微笑み。目が笑っていない。でも声には温度がある。合宿を経て変わった距離。
氷室が凛先輩にも声をかけた。
「桐谷先輩。長編、送ってください。必ず読みます」
「送る。赤ペンで返せ」
「容赦しません」
「それでいい」
凛先輩と氷室が頷き合った。作品屋と分析屋。部長と部長。合宿がなければ生まれなかった関係だ。
園田が楓に。「また即興対決しましょう」「ぜひ」。佐々木がひなたに。「作品送り合いましょう」。
「送ります!」
壮介が全員に叫んだ。
「また会おう!!」
声がロビーに響いた。他校の部員が笑った。
先生が三校の顧問と最後の挨拶をしていた。
「大和くんの声量は全国レベルですね」
先生が壮介を。
「才能かもしれない」
と認めた瞬間だった。
白石が最後に俺に近づいた。他の全員が荷物を持ってバスに向かっている時。
「朝倉くん。合宿で分かったことがある」
「何だ」
「朝凪の強みは文章じゃない。人だ」
「人?」
「壮介くんの声。楓さんの目。ひなたさんの指。千歳さんの万年筆。桐谷先輩の背中。七人がいること自体が朝凪の強みだ。桜庭にも北嶺にもそれはない」
「白石の桜庭にもあるじゃねえか」
「ある。でも朝凪のほうが温かい。ちゃぶ台のせいだと思う」
白石が笑った。卓のせい。白石はちゃぶ台を朝凪の核だと見抜いている。
「じゃあね。夏のコンクールで」
「ああ。またな」
*
帰りのバス。七人と先生。
全員が何かをしていた。壮介がMCの台本メモを書いている。先生の新記録かもしれない。
詩織さんは窓の外を見ていた。
万年筆を握っていない。ノートも開いていない。いつもならバスの中でも取材ノートを開く人が。行きのバスでは。
「山の空気は文章に良い影響を与える」
とメモを取っていた。帰りのバスでは何も書いていない。
「詩織さん」
「はい」
「書かないの?」
「今は、少しだけ、考える時間が必要なんです」
微笑んだ。だが目が潤んでいた。
「何か俺にできることある?」
聞いてから後悔した。壮介に「鈍い」と言われた直後に、こんな大雑把な質問しかできない。でも他に言葉が見つからなかった。
「いえ。朝倉くんは、いつも通りでいてください」
「いつも通り?」
「はい。いつも通り、ちゃぶ台の向かいに座っていてください。それだけで十分です」
何が十分なのか分からない。でも詩織さんがそう言うなら、いつも通りでいる。
壮介が後ろの席から小声で言った。
「陽翔。詩織ちゃん、大丈夫かな」
「分からない。でも"いつも通りでいてください"って言ってた」
「いつも通りか。難しいこと言うな、詩織ちゃんは」
「難しいか?」
「難しいだろ。"いつも通り"って、意識した瞬間に"いつも通り"じゃなくなるんだから」
壮介がたまに鋭いことを言う。意識した瞬間に「いつも通り」ではなくなる。白石に。
「好きでしょ」
と言われてから、俺はもう「いつも通り」ではない。でも詩織さんは「いつも通り」を求めている。
「壮介。お前ならどうする」
「解決にならないだっての」
「しない」
「する!! 壮介理論!!」
壮介理論。自分の作品で全てを解決する理論。壮介が隣にいるから、俺は詩織さんのことを考えすぎずに済む。
楓が壮介の隣で呟いた。
「先輩の それが 休む日は 心が何か 書いている日だ」
バスが山を下りていく。海が見えてきた。詩織さんが窓の外の海を見ている。ペンを握っていない手が膝の上にある。その手が少しだけ震えていた。寒いはずがない。
先生がポケットに手を入れたまま、小声で言った。誰にともなく。
「いい合宿だった」
先生がそう言うのは珍しい。
「先生。何がいいと思いましたか」
「全員が書いていたことだ。深夜に。三校が。誰にも言われずに。起きてきて、机に向かって、書いていた。顧問として見たかった景色だ」
「先生も起きてたんですか」
「先生は廊下から見てたんですか」
「見守りは顧問の仕事だ」
先生が深夜の執筆会を廊下から見ていた。
理由を、俺はまだ知らない。詩織さんの手が震える理由も。分からない。
夕方、旧校舎、何も変わっていない。
壮介が畳に大の字で倒れた。
「畳!! 帰ってきた!!」
「壮介、行儀が悪い」
「研修施設にも畳あったのかよ」
壮介が畳に頬をつけている。畳の匂いを吸っている。
「不衛生だ」
壮介が。
「衛生より畳だ!!」
と返した。
詩織さんがテーブルの前に座った。鞄の一番奥からノートを出した。キャップを開けた。
カリ。
一文字。ペンが動いた。部室に帰ってきたから。
俺はちゃぶ台の向かいに座った。いつもの位置に。いつも通り。詩織さんがそう言ったから。
カリカリという音が鳴っている。カリ、カリ。いつもの音。
でも詩織さんの中では何かが変わっている。俺だけが知らない。
俺はいつも通りでいる。卓の向かいで。ペンの音を聞きながら。
「記録します」
ら笑いながら。
カリ、カリ。詩織さんのインクの音。全部がここにある。
ペンの音だけが、夏の部室に響いている。




