第113話 白石透の答え──「ライバルだよ、それだけだ」
# 白石透の答え──『ライバルだよ、それだけだ』
合宿四日目の朝。山の空気が冷たい。
深夜執筆会の後で全員が寝不足だ。壮介だけが元気だ。壮介は深夜執筆会に参加していない。大広間でいびきをかいていた。壮介の元気は他人の安眠の犠牲の上に成り立っている。
研修施設の外に出た。朝の散歩。山道を歩く。木漏れ日が眩しい。鳥が鳴いている。部室の窓からは聞こえない鳥の声だ。山の朝は音が多い。でも静かだ。矛盾しているが、山の朝は矛盾していい。
「朝倉くん」
白石が追いかけてきた。私服。パーカー。穏やかな笑顔。昨日の「明日また話そう」の続きだ。白石が自分から話を切り出すのは珍しい。
「少し話さない?」
「いいよ」
山道を並んで歩いた。木漏れ日が白石の眼鏡に反射している。白石の横顔は穏やかだ。でも目の奥に何かがある。決意のようなもの。白石が何かを決めて話しに来ている。
しばらく無言で歩いた。山の音だけが鳴っている。鳥の声。風の音。枝を踏む音。二人の足音。白石が口を開いた。
「朝倉くん。千歳さんのこと」
「昨日も言いかけたな」
「うん。昨日は言えなかった。今日は言う」
白石が立ち止まった。俺も止まった。白石が俺を見た。真っすぐに。穏やかさの奥にある目。分析屋の目。
「好きでしょ」
直球だった。
足が止まった。心臓が跳ねた。山の音が遠くなった。白石の声だけが頭の中で反響している。「好きでしょ」。二文字。いや四文字。ひらがな四文字が脳を貫通した。
「は!?」
「千歳さんのこと。好きでしょ」
「何を言って」
「フェスの時から見てた。千歳さんの横に僕が座った時の朝倉くんの顔。卵焼きの味がしなくなった顔。深夜執筆会で千歳さんのペンが止まった時に声をかけられなかった顔。全部見てた」
「全部見てたのか」
「分析屋だから。人の感情も分析する。朝倉くんの感情は分かりやすい。顔に出る。壮介くんにも楓さんにも見えてる。気づいてないのは本人だけだよ」
気づいてないのは本人だけ。俺だけが気づいていない。壮介も楓も白石も。全員が知っている。俺の中にあるものを。俺だけが名前をつけられていないものを。
「俺は詩織さんのことを」
「好きだよ。認めたくなくても。名前をつけたくなくても。朝倉くんの卵焼きの味が消えた時点で確定してる」
「卵焼きで確定するのか」
「するよ。嫉妬で味覚が変わる人間は、好きじゃなきゃそうならない」
白石の論理が正確すぎる。反論できない。フェスの日、白石が詩織さんの横に座った時、卵焼きの味が消えた。嫉妬だった。壮介にも言われた。楓にも見られた。全員が気づいていた。俺だけが「気になっているだけだ」と言い張っていた。
「白石。お前は詩織さんのことが」
「ライバルだよ。それだけだ」
白石の答えは変わらない。フェスの時と同じだ。ライバル。純粋な文学仲間。でも今回はもう少し話してくれた。
「中学の読書サークルで、千歳さんと一度だけ合評をしたことがある。あの人の感想を聞いた時に思った。この人の目には敵わないって。千歳さんは文章を読む時、書き手の呼吸を聞いている。文字の奥にある息遣いを。僕には真似できなかった」
「敵わないと思った」
「思った。だから高校に入って文芸部に入った。千歳さんに追いつくために。千歳さんの文章を超えるために。恋愛? ないよ。俺の相手は文章だ。千歳さんの文章が俺のライバルだ。千歳さん個人じゃない。千歳さんが書く文章が」
白石が断言した。恋愛感情はない。相手は文章だ。
「だから安心していいよ」
「安心?」
「僕は千歳さんを取らない。取る気もない。朝倉くんの敵じゃない」
「敵って何だよ」
「恋敵。朝倉くんが一番怖かったのはそれでしょ。千歳さんの中学の男友達が現れて、千歳さんを取られるかもしれないって」
「取られるとかそういう」
「そういうことだよ。認めなよ。朝倉くんは千歳さんが好き。僕は千歳さんの文章が好き。ベクトルが違う。競合しない」
白石が笑った。眼鏡の奥の目が温かい。白石は嫌な奴じゃなかった。最初から嫌な奴じゃなかった。フェスの時にも思った。今も思う。白石は穏やかで鋭くて、人の感情を見抜いて、でもそれを武器にしない。白石の分析力は人を傷つけるためではなく、人を前に進めるために使われる。
「朝倉くん。一つ言っていいかな」
「何だよ」
「千歳さんも気づいてると思うよ。自分の気持ちに。千歳さんは嘘がつけない人だから。自分の感情に気づいたら、必ず書く。それが千歳さんだ」
「書く?」
「うん。千歳さんは感情を文章にする人だ。好きになったら好きだと書く。それを止められない。だから昨夜ペンが止まったんだと思う。書きたいものと書けるものの間で詰まった」
白石が詩織さんのペンが止まった理由を言語化した。書きたいものと書けるものの間。詩織さんは何かを書きたかった。でも書けなかった。書いたら何かが変わるから。書いたら戻れないから。
「それ以上は言わない。本人が気づくべきことだから。千歳さんのことも、朝倉くん自身のことも」
白石が手を差し出した。握手。
「ライバルとして、これからもよろしく。文芸の話はいつでもする。恋愛の相談は壮介くんにしてね」
「壮介に恋愛相談するわけないだろ」
「壮介くんのほうが人の気持ちに敏感だよ。朝倉くんより」
「それは否定できない」
握手した。白石の手は温かい。ライバルの手。敵ではない手。白石との距離が確定した。ライバル。友人。恋敵ではない。確定した。安心した。
安心した理由が今は分かる。白石が詩織さんを好きではないと確認したかった。確認して安心した。安心するのは、俺が詩織さんを好きだからだ。白石に言われなくても、たぶん分かっていた。分かっていたけど名前をつけていなかった。
「好き」。その二文字が頭の中で鳴っている。白石が言った二文字。俺の二文字ではない。まだ。俺はまだ「好き」を自分の口で言えない。言ったら変わる。変わることが怖い。今の関係が心地いい。ちゃぶ台を挟んで座る関係が。万年筆の音を聞く関係が。「取材です」と言われる関係が。
山道を一人で帰った。白石は先に研修施設に戻った。俺は山道に残った。少しだけ一人でいたかった。木漏れ日が足元に落ちている。鳥が鳴いている。風が吹いている。全部が綺麗だ。いつもなら気づかない景色が綺麗に見える。なぜだ。白石に「好きでしょ」と言われたからか。名前をつけられたからか。名前がつくと世界が変わるのか。
サッカーをやっていた時には感じなかった種類の緊張がある。試合前の緊張ではない。もっと柔らかくて、もっと怖くて、もっと温かい。胸の中に何かが膨らんでいる。名前をつけたくない。でも名前がある。白石が先に言った。「好き」。
でもいつか言う日が来るのかもしれない。来なくてもいい。今はまだ。まだ言えない。
*
別の場所。凛先輩と氷室が廊下で話していた。窓から午後の光が入っている。二人が壁にもたれて向かい合っている。
「桐谷先輩。昨夜の執筆会で思ったんですが」
「何だ」
「先輩の長編ミステリ。読みたいです。完成形でなくても構いません。途中でもいい。先輩の構成を分析したい」
「分析目的か」
「分析と、純粋な読者としての興味です。先輩のミステリは構造が美しい。僕が書けない種類の美しさがある」
「お前が俺のミステリを"美しい"と言うのか」
「言います。事実ですから」
氷室が凛先輩に「美しい」と言った。ライバルを超えた言葉。氷室は認めている。凛先輩のミステリの構造美を。分析屋が構造美を認めるのは最高の褒め言葉だ。
「いいだろう。途中だが送る。代わりに北嶺の部誌を寄越せ」
「送ります」
「あと一つ。俺のミステリを読んだ感想は遠慮なく言え。"美しい"だけでは足りない。"ここが甘い"も言え」
「言います。遠慮しません」
「それでいい」
凛先輩と氷室。ミステリ屋と分析屋。ライバルでもあり読者でもある。凛先輩が氷室に長編を読ませる。外の読者に。身内ではない読者に。凛先輩の長編が外に出る。合宿がなければ生まれなかった関係だ。
「桐谷先輩。三年生ですよね」
「ああ」
「来年はいないんですか」
「いない。卒業する」
「惜しいですね。先輩のミステリをもっと読みたかった」
「大学に行っても書く。読みたければ送る」
「送ってください。必ず読みます。批評も返します」
凛先輩が少しだけ笑った。氷室が凛先輩の読者になった。高校を卒業しても読者でいてくれる人間ができた。凛先輩の読者は朝凪の六人だけではない。外にもいる。氷室という読者が加わった。
*
壮介と楓が食堂にいた。遅い朝食を食べている。壮介がカレーうどンの即席麺を食べている。持ち込んでいた。やはり持ち込んでいた。
「壮介先輩。合宿にカレーうどンを持ち込んだんですか」
「鞄に入ってたんだ!! 無意識だ!!」
「無意識で即席麺が鞄に入る人は初めて見ました」
「楓、カレーうどンの匂い嫌い?」
「嫌いではありません。先輩の匂いがします」
「俺の匂い!? カレーうどンが!?」
「先輩はカレーうどンの匂いがするんです。入部した時からずっと」
「俺がカレーうどンの匂い!!」
「事実です」
楓が壮介をカレーうどンの匂いで認識している。壮介の存在はカレーうどンの匂いと一体化している。壮介=カレーうどン。二年間で確定した等式だ。
「ところで楓」
「はい」
「陽翔の顔、朝からずっと変なんだけど。白石くんと散歩してたみたいだし。大丈夫かな」
「白石さんと話した後の朝倉先輩は、いつも顔が変わります」
「変わる?」
「曇っていた顔が晴れます。でも晴れた後に少しだけ赤くなります」
「赤くなる!?」
「赤くなります。朝倉先輩は自分の感情に気づきかけると赤くなるんです」
「楓って、人の感情よく見てるよな」
「観察は仕事です。三十一文字で感情を切り取るには、まず感情を見なければなりません」
「陽翔は詩織ちゃんのことが好きなんだよな」
「はい。気づいていないのは朝倉先輩だけです」
「全員知ってるのか」
「全員知っています。凛先輩も。先生も。ひなたも」
「詩織ちゃんは?」
「詩織先輩は自分の気持ちには気づいています。でも朝倉先輩の気持ちには確信が持てていない。だから書けなくなっているんです」
「書けなくなってる?」
「昨夜の執筆会で万年筆が止まっていました。詩織先輩が書けなくなるのは、感情が筆を邪魔する時です」
「感情が筆を邪魔する。楓すげえな。全部見えてるのか」
「見えます。先輩の嫉妬の顔も。詩織先輩の万年筆が止まる理由も。朝倉先輩が卵焼きの味を失う瞬間も」
「卵焼きまで見てたの!?」
「見ていました。フェスの時に」
楓が全部見ていた。俺の嫉妬も。詩織さんのペン停止も。卵焼きの味覚喪失も。楓の観察記録には全部が記録されている。三十一文字で。非公開の短歌帳に。
「壮介先輩」
「ん?」
「先輩は鈍いですか」
「俺? 鈍くない!! たぶん!!」
「先輩は鈍くないです。人の気持ちに敏感です。だから私の五七五を理解できるんです」
「楓の五七五、分かるようになってきた!! "事実です"が褒め言葉だってことも!!」
「分かっているなら嬉しいです」
「嬉しいって言った!! 楓が嬉しいって!!」
「散文で言いました。大事なことなので」
大事なことは散文で言う。楓の法則。壮介が「嬉しい」を引き出した。壮介は人の感情を引き出す天才だ。楓の「嬉しい」を壮介が引き出した。楓は壮介にだけ散文で気持ちを言う。壮介はそれにまだ気づいていない。楓が自分にだけ特別な言葉を使っていることに。
*
午後。全員が研修室に集まった。合宿四日目の午後。明日は最終日だ。
白石と話した。「好きでしょ」と言われた。否定できなかった。否定する言葉が見つからなかった。白石は「恋敵じゃない」と確定してくれた。安心した。安心した理由が分かった。
でもまだ言えない。「好き」という二文字を自分の口で言う日は、まだ来ない。来なくてもいい。今はまだ。ちゃぶ台を挟んで座れればいい。万年筆の音を聞ければいい。「取材です」と言われればいい。
詩織さんが研修室に入ってきた。万年筆を持っている。ノートを持っている。でも昨夜と少し様子が違う。ノートを鞄の奥ではなく、手に持っている。すぐ取り出せる位置に。何かが変わったのか。変わっていないのか。分からない。
明日は最終日だ。合宿が終わる。部室に帰る。外で過ごした夏が終わる。白石と話した。氷室と凛先輩が繋がった。楓と園田が火花を散らした。ひなたと佐々木が同志になった。壮介がカレーうどンを持ち込んだ。全部があった夏だった。
そして俺は、白石に「好きでしょ」と言われた。否定できなかった。
明日、帰りのバスで詩織さんの隣に座るかもしれない。座らないかもしれない。座ったら何かを話すかもしれない。話さないかもしれない。全部が「かもしれない」だ。確定していない。でもいつか確定する日が来る。来なくてもいい。今はまだ。
まだ言えない。でも「まだ」は「いつか」の裏返しだ。
白石が教えてくれた。俺の中にあるものの名前を。壮介が気づいていた。楓が見ていた。全員が知っていた。知らなかったのは俺だけだ。鈍い。壮介に「鈍い」と言われるのは嫌だったが、壮介のほうが正しかった。壮介は文章は下手だが、人の気持ちは読める。壮介のセンサーは文章ではなく人間に反応する。
明日は合宿最終日だ。帰る。部室に。ちゃぶ台の前に。詩織さんの隣に。いつもと同じ位置に。でもいつもと同じ気持ちでは座れないかもしれない。白石に名前をつけられた感情が、ちゃぶ台の下で膨らんでいるから。
掟の一番目。書け。俺はいつか、この感情を書くのだろうか。詩織さんのように。詩織さんは感情を文章にする人だ。俺は身体感覚で書く人だ。この胸の膨らみを、いつか文章にする日が来るのだろうか。
来るかもしれない。来ないかもしれない。全部が「かもしれない」だ。でもそれでいい。今は書く。感情ではなく構成を。白石に教わったサッカーの戦術眼を構成に転用する。パス回しで読者を動かす。それを書く。感情は後でいい。後で書く。いつか。
「まだ」は「いつか」の裏返し。白石が笑った顔を思い出した。穏やかな笑顔。敵ではない顔。ライバルの顔。友人の顔。白石に出会えてよかったと思った。嫉妬の相手だったのに。嫉妬の相手が友人になった。外に出なければ出会えなかった人間だ。凛先輩が「外に出る」と言った。出てよかった。出なければ白石に会えなかった。白石に「好きでしょ」と言われなかった。名前がつかないまま膨らみ続けていたかもしれない。
名前がついた。まだ自分では言えない。でも名前がある。それだけで少し、楽になった。
合宿四日目の午後。山の空気がまだ冷たい。明日は最終日。帰る日。外の夏が終わる日。




