第112話 深夜執筆会──隣の音が、聞こえる
# 深夜執筆会──隣の音が、聞こえる
あるある大会の後。消灯時間を過ぎた。白石の耳栓が限界を迎えた。
研修室に灯りがついた。蛍光灯を半分だけ。薄暗い。誰かが机に向かっている。万年筆を持って、ノートに向かっている。書きたくて起きてきた。呼吸を止めて眠れない夜がある。
俺も眠れなかった。壮介のいびきが原因ではない。白石に言われたことが頭の中を回っている。
「特性を活かした構成を見つければいい」
サッカーの戦術眼を文章に転用する。その発想が頭から離れない。
研修室に行った。詩織さんの隣の机に座った。書き始めた。
一人、また一人と集まってきた。暗黙の「深夜執筆会」だ。誰が呼びかけたわけでもない。書きたい人間が起きてきて、同じ部屋に集まった。
楓が正座で入ってきた。深夜でも正座。ノートとシャーペンを持っている。窓際の机に座った。白石がノートPCを抱えて入ってきた。
静かにキーボードを開いた。氷室が高級な万年筆を持って入ってきた。氷室も万年筆派だ。詩織さんと同じ。ひなたがスマホを握って入ってきた。画面の光が暗い部屋で青白く光っている。
凛先輩が最後に入ってきた。文庫本を持って。足を組んで、背筋を伸ばして。
三校の部員が一つ。部屋で各自の原稿に向かっている。蛍光灯半分の薄暗い部屋。窓の外は山の闇と虫の声。
*
音が違う。
詩織さんの万年筆。カリ、カリ。文章のリズムが手に出ている。
壮介のスマホ、タッ、タッ、フリック入力の音。不規則。壮介のフリック入力は感情に連動する。興奮している時はタタタタと速くなる。悩んでいる時は……タ……タ……と遅くなる。今は中間。考えながら打っている。
白石のノートPC、カタカタ、キーボードの音。論理的な音だ。一定のリズムで打っている。考えが整理されてから打つ。白石は打つ前に構成を決めている。打ち始めたら迷わない。
氷室のペン。ツー、ツー。氷室の文章は静かに書かれる。
凛先輩が文庫本を閉じた。パサ。
ひなたのスマホ、タッ、タッ、タッ、壮介より速い。会話文が多いラノベは打つ速度が速い。描写が少ない分、指が止まらない。ひなたの指は踊っている。
部室では七人の音しか知らなかった。でも「書く」は同じだ。
書く音は人格だ。壮介の音は大きくて不規則。詩織さんの音は安定して湿っている。楓の音は軽くて繊細、白石の音は論理的、氷室の音は静か。凛先輩の音はページをめくる音。全員が違う。全員が自分の音を持っている。
*
カリカリが消えた。研修室の中で、詩織さんの音だけが消えた。他の音は鳴り続けている。壮介のタッタッ、楓のサッサッ、白石のカタカタ。詩織さんだけが無音になった。
俺は気づいた。詩織さんがノートを見つめたまま動かない。万年筆を握っている、でも書いていない。ペン先が紙の上で止まっている。インクの染みが一点だけ広がっている。
「千歳さん、大丈夫?」
「はい。少し、考えていただけです」
俺の胸がチクリとした。白石に微笑んだ。白石にはできて俺にはできなかったのか。
詩織さんの視線が一瞬だけ俺のほうを向いた。一瞬だけ。
「詩織ちゃん、大丈夫? 筆が止まってたけど」
「大丈夫です。ただ、他の人がいると、書くものが変わる気がして」
「変わる?」
「部室で書く時と、ここで書く時と、出てくる言葉が違うんです。環境が文章に影響する」
先生がポケットからカイロを出した。
氷室が昨夜言った「書く場所が変わると内容も変わる」。それが詩織さんにも当てはまっている。何かが変わることを恐れている。
詩織さんのペンが止まった本当の理由を、俺は知らない。でも楓は気づいている。楓はノートに書いた。声には出さない。
楓のノートに何が書かれているか。俺は見たことがない。二つの記録が朝凪文芸部を二重に保存している。
詩織さんが書き始めた。止まっていたペンが動いた。でもさっきまでとリズムが違う。カリ、カリ、音は同じだ、でも間隔が少し長い。一文字書いて、考えて、また一文字。さっきまでの連続的な音ではない。断続的な音。詩織さんの中で何かが変わっている。
ひなたが佐々木と小声で話している。スマホの画面を見せ合っている。外の世界に同志がいるという安心感がひなたを支えている。
*
俺と白石が研修室の外に出た。廊下。缶ジュースを買いに自販機に行った。山の研修施設の自販機は品揃えが悪い。先生が嘆くレベルだ。缶コーヒーが一種類しかない。
「朝倉くんの文章、書いてる時の姿勢で分かるよ」
白石が唐突に言った。缶ジュースのプルタブを開けながら。
「姿勢?」
「体を前に倒して書く人は描写が強い。論理型は背筋を伸ばす。朝倉くんは前に倒してた」
「身体感覚の人間だからか」
「うん。構成の話をした時と矛盾しないんだよ。身体で感じて書く人は、構成を"頭"で組み立てるのが後回しになる」
「図星だ」
「でもそれは弱点じゃなくて特性。特性を活かした構成を見つければいい。朝倉くんの場合、サッカーの戦術眼があるでしょ。フォーメーションの感覚。あれを文章に転用すればいい」
「サッカーの戦術を文章に」
「うん。読者をどう動かすか。文章のどこに読者を"走らせる"か。サッカーのパス回しみたいに、読者の視線を誘導する。朝倉くんならできると思う」
「パス回しで読者の視線を誘導する」。サッカーのフィールドと原稿用紙を重ねる。
フォーメーションを構成に転用する。パスコースを文脈に転用する。サッカーを辞めた俺が、サッカーの感覚を文章に使う。捨てたはずの武器が別の形で戻ってくる。
「白石って、人の特性を見抜くのが上手いな」
「分析が趣味だから。文章も人間も」
「人間も分析するのか」
「するよ。千歳さんの万年筆が止まった理由も、たぶん分かる」
「分かるのか」
「分かる。でも言わない。本人が気づくべきことだから」
白石が缶ジュースを飲んだ。穏やかな横顔。それとも俺か。
「朝倉くん。千歳さんのこと」
「何だよ」
「いや、なんでもない。明日また話そう」
白石が笑って研修室に戻った。何を言いかけたのか、俺の胸がざわつく。白石は何かを知っている。俺が知らないことを、詩織さんのことを。俺の中にある何かを。
白石の背中を見ていた。凛先輩の言葉が頭をよぎった。
廊下の自販機、灯りが唯一の光源だ、山の夜は暗い。合宿では隣にいる。
研修室に戻った。部室でもここでも。
*
「"月明かり 窓に映るは 書く人の 影が重なる 山の研修所"」
「"虫の声 ペンの音より 静かなり それでも書くか と問う夜がある"」
「いいですね。"問う夜"が好きです」
「園田さんの"影が重なる"も好きです」
二人が静かに笑い合っている。短歌詠み同士の深夜の対決。声を出さない、静かな火花。壮介とひなたのラノベトークとは対照的な沈黙。同じ「読み合い」なのに温度が違う。楓の火花は音がしない。でも熱い。
楓がもう一首。
「"三校の 筆の音色が 重なりて 夜の研修所 文芸の森"」
園田が目を閉じた、味わっている、楓の歌を。三秒。目を開けた。
「文芸の森。綺麗な比喩ですね」
「環境が歌に入りました。山の空気のおかげかもしれません」
「氷室さんの言う通りですね。書く場所が変わると書く内容も変わる」
楓が頷いた。部室では詠めなかった歌が山で詠めた。場所が歌を変える。楓は環境の影響を受けやすい短歌詠みだ。短歌は三十一文字だから、環境の変化が一文字単位で影響する。
園田がもう一首返した。
「"深夜二時 起きて書く子は 皆同じ 学校違えど ペンの子である"」
楓が微笑んだ。「ペンの子」。
「園田さん。"ペンの子"が好きです。いつかこの言葉を借りていいですか」
「もちろん。萩原さんの歌の中で育ててください」
短歌詠み同士の言葉の贈り物。園田が楓に「ペンの子」を贈った。楓がいつかそれを歌に入れる。言葉は人から人に渡る。渡るたびに色が変わる。園田の「ペンの子」が楓の歌の中でどんな色になるか。それは楓だけが知っている。
*
深夜二時。一人、また一人と寝落ちしていく。壮介は最初から研修室に来ていない。大広間でいびきをかいている。
ひなたが机に突っ伏して寝た。スマホの画面がまだ光っている。フリック入力の途中で寝落ちした。最後に打った文字は「そして彼女は」。続きは明日のひなただけが知っている。
最後まで起きていたのは凛先輩と氷室だった。二人が向かい合って座っている。凛先輩がミステリの文庫本を読んでいる。氷室が純文学の文庫本を読んでいる。
「お前、純文も読むのか」
「ミステリ屋の先輩には言いにくかったんですが」
「隠すな。何を読んでいる」
「夏目漱石です。"こころ"を再読しています」
「いい本だ。"先生"の告白は構造的にミステリに近い。秘密の段階的開示。読者への情報制御。漱石はミステリ作家だったのかもしれない」
「全ての文学はミステリだ。謎があり、伏線があり、回収がある。構造が違うだけで本質は同じだ」
凛先輩と氷室が文学論を交わしている。深夜二時。山の研修施設。蛍光灯半分の薄暗い部屋。作品屋と分析屋が漱石について語り合っている。外に出たからこそ聞ける会話。
俺は半分寝かけていた。意識が遠い。でも凛先輩と氷室の声は聞こえている。低い声が二つ、静かに交差している。
詩織さんはまだ起きていた。万年筆が動いている。詩織さんが書いているものは、今の詩織さんにしか分からないものだ。
深夜執筆会。三校のペンが同じ部屋で鳴った夜。聞いていいのかも分からなかった。
明日は合宿四日目。
「明日また話そう」
何を話すのか、詩織さんのことか、俺のことか。俺が気づいていない何かのことか。
分からないまま視線を落とした。詩織さんのペン。音が子守唄のように聞こえた。カリ、カリ、安心の音。部室と同じ音。どこにいても変わらない音。
その音が止まる瞬間があった。止まって、また始まる。止まる理由を俺はまだ知らない。
深夜執筆会が終わる。誰が終わりを宣言したわけでもない。一人ずつ寝落ちしていく。書く人間は書く力が尽きたら眠る。壮介は最初から寝ていた。
壮介の深夜は常にいびきだ。ひなたが机に突っ伏して寝た。スマホの画面がまだ光っている。「そして彼女は」で止まっている。続きは明日のひなたが書く。
楓が園田にお辞儀をして部屋に戻った。深夜でも丁寧。
研修室に残ったのは凛先輩と氷室と、詩織さんだけだった。凛先輩と氷室は本を読んでいる。詩織さんは書いている。三人とも止まらない。止まれない。止まったら何かが失われると知っている人間は止まらない。
「明日また話そう」
何を話すのか。
「千歳さんのこと」
で止まった言葉。その先に何がある。
壮介のいびきが子守唄より先に耳に入ってきた。でかい。全部が安心の音だ。




