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第106話 楓先生の古典講座(壮介、絶叫)

# 楓先生の古典講座(壮介、絶叫)


 フェスが終わって二週間。六月。期末テストが近づいている。


 壮介が成績表を部室に持ち込んだ。ちゃぶ台の上に広げた。七点上がった。


「五十五! 上がった! 成長した!」


「赤点ラインが四十だ。五十五は自慢できる数字ではない」


 部室の空気が締まった。全員が書く体勢に入った。


「凛先輩ひどい!」


「壮介先輩」


 楓が正座のまま壮介を見た。


「私が古典を教えます」


「楓が!?」


「短歌詠みにとって古典は母語のようなものです。五七五のリズムは古典から来ています。百人一首は古典文法の宝庫です。私が教えるのが最も合理的です」


「合理的って言われると断れない」


「断るな。受けろ。お前に必要なのは楓。容赦のなさだ」


 楓が壮介のノートを一瞥した。


「誤字三箇所です」


 数えていたのか。

 凛先輩が追い打ちをかけた。


「容赦がないのは知ってます!!」


 楓が壮介に古典を教える。この組み合わせは面白い。カレーうどンと百人一首。全く違う世界の住人が、ちゃぶ台を挟んで向き合う。


    *


 


「字余りの上に散文です。やり直してください」


「やり直し!?」


 楓がお手本を見せた。


「覚えられるわけがない!!」


 楓が百人一首を使って古典文法を教え始めた。カードを一枚ずつ壮介の前に置く。


「この歌の"けり"は何の助動詞ですか」


「過去?」


「正解です。"けり"は過去の助動詞。詠嘆の用法もあります」


「おっ、やった!」


「"けりけりと 蹴ったボールが 飛んでゆく"」


「それは"蹴り"です。古典の"けり"ではありません。サッカーの"蹴り"です」


「ダメだった!!」


 全員が笑った。壮介の古典はサッカーに汚染されている。「けり」と聞くと蹴りを連想する。壮介の脳内辞書はスポーツと食べ物で八割を占めている。


 楓が次のカードを出した。


「"なりけり"を使って短文を作ってください」


「"カレーうどんなりけり"」


「つかないの!?」


「つきません。"なりけり"は過去の断定です。"かくなりけり"のように用います。飯は過去ではなく現在進行形の存在です」


「哲学的になってきた」


 俺が呆れた。壮介と楓の古典講座は哲学に到達しかけている。自分の作品の時制を議論する文芸部。外の世界から見たら異常だろう。


 楓が息を吐いた。でも怒っていない。でも付き合ってもらえると頑張れる。


 楓がカードをもう一枚出した。


「"ぞ・なむ・や・か・こそ"は何ですか」


「係助詞!!」


「正解です。では"こそ"の結びは」


「已然形!」


「正解。二連続正解です」


「やった!!」


「では"こそ"を使った和歌を探してください。百人一首の中から」


 壮介が百人一首のカードを広げた。五十枚ほど。


「"瀬を早み 岩にせかるる 滝川の"! これ"こそ"ある!?」


「ありません。それは崇徳院の歌です。"こそ"は入っていません」


「入ってない!! 似てたのに!!」


「似ていません。先輩、読み上げるのはいいですが、もう少し静かに」


 詩織さんがメモを取っている。何の会話をメモしているのか聞く勇気がない。


「先輩の脳は音声入力方式なんですね」

「二刀流というか、黙読が苦手なだけです」


 壮介の音声入力方式。壮介は声に出さないと理解できない。楓の指導は壮介に合わせてカスタマイズされている。


「先輩。"已然形"を覚えていますか」


 凛先輩が目を開けずに手だけ動かした。


「正解です。素晴らしい」


 ひなたがスマホでこっそり実況している。


「先輩たちの掛け合い、テンポ神です」


「一回正解しただけで喜ぶのは早いです」

「では已然形を使った歌を」


「"已然形 えの段踏めば 道開く"」


 楓が止まった、三秒、壮介を見た。


「先輩。今のは悪くないです」


「悪くない!?」


「五七五になっています。しかも内容も合っています。已然形の特徴を五七五で表現できました」


 先生がコーヒーを飲みながら全部聞いている。口元だけ笑っている。


「かもしれません。確定ではありません」


 壮介が嬉しそうにしている。楓に「悪くない」と言われた。


    *


 テスト勉強会。部室。ちゃぶ台二台に七人の教科書が広がっている。


 俺は数学、苦手だ。サッカーには数学がなかった。文芸部にも数学はない。でもテストには数学がある。高校生の宿命だ。


 詩織さんは英語。得意だが赤線を引きすぎている。凛先輩の赤ペンと同じ色だ。詩織さんの教科書は合評された原稿に似ている。


 凛先輩は政治経済、受験科目、真剣に読んでいる。集中力が変わらない。政経も同じ集中力で読む。


 壮介の声と楓。沈黙が部室のバランスを作っている。


 楓は国語、満点狙い、余裕がある。余裕があるから壮介を教えられる。楓は自分の勉強と壮介の指導を同時にこなしている。マルチタスク。三十一文字で世界を表現する人間は、複数の情報を同時に処理できる。


 ひなたは理科。好きだが計算が弱い。


「誰か数学教えて」


 


「俺も苦手だ」


 凛先輩が言った。


「私も数学だけは」


 詩織さんが俯いた。


「文系の集まりか」


「文芸部ですから」


 楓が冷静に答えた。


「先生! 数学教えてください!」


 壮介が先生に叫んだ。先生がポケットに手を入れたままを振った。


「俺も文系教師だ。教えられない」


「先生も!?」


「数学は独学でなんとかしろ。俺は古典なら教えられる。だが楓がいるなら俺の出番はない」


 自分で言って自分で恥ずかしくなった。


「超えてない。得意分野が被っただけだ」


 ひなたが手を挙げた。


「私、理科ならなんとか教えられます」


「ひなたちゃんが唯一の理系の希望!」


「理系の希望って言われると重いですけど、頑張ります!」


 楓が短歌で締めた。


「七人の 文系揃いし テスト前」


「文系は誇りだ!!」


「誇ることではありません。数学を勉強してください」


    *


 テスト週間が終わった。結果が返ってきた。


 壮介が成績表を部室に持ち込んだ。古典の欄。


 壮介の声で窓がびりびり鳴った。


 声百五十パーセント。部室が揺れた。


 壮介が黙った、三秒。部室史上最長の沈黙だった。四秒目に復活した。


 楓が成績表を確認した。六十三点。目標だった六十点を超えている。楓の指導が効いた。百人一首で文法を叩き込み、短歌のリズムで語彙を覚えさせた。壮介の古典は楓のおかげで八点上がった。


「目標六十は超えました」


「超えた! 楓のおかげ!」


「ただし次の目標は七十です」


「もう次の目標!?」


「先輩の 成長速度 亀並み されど一歩は 確かに進む」


 壮介がメモを取ろうとした。ペンを逆さに持っている。


「事実です」


 


 壮介が六十三点で喜んでいる。四十八点から十五点上がった。入部してから一年と少しで十五点。楓の指導が始まって二週間で八点。


 詩織さんが取材ノートに書いている。


「壮介くんの古典成績推移。」


「詩織先輩。俺の成績を取材しないでください」


 壮介が座布団の上であぐらをかいた。畳がミシッと鳴った。


 


 ひなたが壮介を祝った。


「壮介先輩おめでとうございます! 六十三点!」


「私のテストも壮介先輩のおかげで頑張れました。壮介先輩が古典で叫んでるのを見てたら、私も理科頑張ろうって」


「俺の叫びが理科のモチベーションになった!?」


「声の力です!」


 壮介の声が人にやる気を与えている。MCの才能だけでなく、壮介の声そのものが人を動かす力を持っている。テスト勉強にも効く武器だ。


 先生がコーヒーを飲みながら成績表を見た。


「六十三か。悪くない。楓、お前の指導は効いている」


「ありがとうございます。先輩の努力の結果です」


「楓の謙虚は本物だな。壮介の努力三割、楓の指導七割だ」


「七割!? 俺の努力は三割!?」


「妥当な配分だ」


「上げない。事実だ」


 凛先輩がソファから言った。


「壮介。六十三は悪くない。だがまだ足りない」


「先輩も!?」


「楓の指導で八点上がった。楓がいなければ五十五のままだった。楓に感謝しろ」


「先輩たちの掛け合い、テンポ神です」


「どういたしまして。では次の百人一首テストの準備を」


 楓は壮介を休ませない。凛先輩のスパルタとは質が違う。凛先輩は「頂上を見せる」スパルタ。楓は「一段ずつ登らせる」スパルタ。壮介には楓の階段式が合っている。一段ずつ。


 四十八から五十五、五十五から六十三、次は七十。その次は七十五。いつか八十に届く。楓がそこまで付き合ってくれるなら。


 帰り道、壮介と歩いている、六月の夕暮れ。梅雨の合間の晴れ。空がオレンジに染まっている。


「壮介。楓に教わるの、どうだ」


「怖いのか」


「楓は容赦ない。間違えると五七五でやり直しだ。でもさ、何回間違えても怒らないんだよ。淡々とやり直させる。凛先輩は怒るじゃん。"なぜできない"って顔する。楓は怒らない。"では次"って言う。その"では次"が安心するんだよな」


「楓の"では次"が安心する」


「うん。何回失敗しても"では次"って言ってくれる。見捨てない。壮介はダメだって顔しない。"では次"って。次があるんだって思える」


 壮介が楓の教え方を言語化している。まだ本人は気づいていないだろうけど。


「テストは終わった。夏が来る。七人の夏だ」


「持ち込むな」


 壮介が笑った。フェスで見た外の世界の、もっと深いところに潜る夏が来る。


 楓の古典講座は夏休みも続くらしい。


「夏休みも勉強するの!?」


 壮介の成績は楓の手に委ねられた。


 壮介の成績表をもう一度見た。四十八、五十五、六十三。三つの数字が並んでいる。右肩上がりだ。グラフにしたら斜めの線になる。壮介の一年間が三つの数字に凝縮されている。


 凛先輩がホワイトボードに何かを書き加えた。「壮介古典:48→55→63(次回目標70)」。来場者カウンターの隣に。壮介の古典が文芸部。歴史の一部になった。


 頭を抱えた。


「自由は七十を超えてから。六十三は仮釈放だ」

 楓が小さく笑った。壮介が叫んでいる。ひなたがスマホを見ている。


 七人の日常。テストが終わっても変わらない日常。


 でも壮介の古典は四十八から六十三になった。変わったものもある。外の世界を見て、テストを越えて、少しずつ変わっている。変わらないリズムの中で、一人一人が変わっていく。


 壮介の次のテストは夏休み明けだ。楓の古典講座は続く。二人の掛け合いが成績を上げる。

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