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第1話 俺の青春、打ち切りENDなんだが

# 俺の青春、打ち切りENDなんだが



 放課後の教室は、いつもこの時間になると空気が変わる。


 窓の向こうでサッカー部がアップを始めていた。ホイッスルが鳴って、短い掛け声が重なる。ボールを蹴る乾いた音。スパイクが芝を噛む音。全部知ってる。全部、身体が覚えてる。


 無意識に左膝を押さえていた。サポーターを外した跡がうっすら残る手のひらで、制服越しにあの鈍い痛みの記憶を撫でる。もう痛くはない。でも「痛かった」という記憶だけが、いつまでも膝に棲みついている。


 俺の青春は、もう終わった。始まって、ちょっと走って、途中でぶつ切りになった。クライマックスもなければ見せ場すらない。膝が壊れた瞬間に、全部が止まった。


 クラスメイトが次々と席を立っていく。部活のバッグを肩にかけて、靴音も軽やかに出ていく。野球部、バスケ部、吹奏楽部。行く場所のある人間たちだ。俺の鞄には教科書しか入っていない。サッカーシューズの代わりに英語の問題集。笑えるくらい軽い。


 まあ、帰るか。


 そう思って鞄を持ち上げた瞬間、廊下側から腕を掴まれた。



    *



「朝倉、お前今暇だろ」


 振り返ると担任の霧島遥が立っていた。


 スーツのネクタイが緩んでいて、ワイシャツの裾が片方だけズボンからはみ出している。手に持っているのは教科書ではなく文庫本で、しかもポケットにもう一冊ねじ込んでいる。やる気のない大人の見本みたいな人だが、目だけが妙に鋭い。


「暇じゃないです」


「嘘つけ。部活やめて毎日まっすぐ帰ってるだろ、担任から聞いた」


「先生が俺の担任でしょ」


「だから知ってる」


 反論の余地がなかった。


「どこ行くんですか」


「俺が顧問をやってる部がある。存続の危機だ」


「それ俺に関係ないですよね」


「文芸部だ」


「文芸部」


 聞き覚えはある。入学式のときに配られた部活一覧の、いちばん下のほうに小さく載っていた気がする。


「書くやつですか」


「読むのでもいい。座ってるだけでもいい。頭数が足りないんだ」


「俺、国語の成績3ですよ」


「俺は新人賞の最終選考落ちだ。学校の成績なんか関係ない」


 先生のほうが深刻じゃないですか。そう思ったが口には出さなかった。この人の口調には冗談と本気の境界がない。どっちに転んでもいいように投げてくる。教師というより、居酒屋で隣になったおじさんみたいだ。


「まあ来い。嫌なら帰ればいい。ただし帰る前にお茶くらい飲んでいけ」


「お茶で釣るんですか」


「茶菓子もある。凛が毎日持ってくる」


「凛って誰ですか」


「来ればわかる」


 腕を掴まれたまま、廊下を歩かされる。体育館の横を通り過ぎると、バスケ部のドリブル音が壁越しに響いていた。渡り廊下に出ると、それが遠ざかっていく。足音が自分と先生の二人分だけになった。


 旧校舎に入った瞬間、空気が変わった。


 埃っぽい匂い。古い本の匂い。蛍光灯が片方だけ切れかけていて、廊下の明るさがまばらだ。グラウンドから聞こえていたホイッスルが、もうほとんど届かない。別の世界に入っていくみたいだった。


 階段を上がる。二階の突き当たり。古い引き戸。すりガラスの向こうに淡い明かりが漏れている。


 霧島先生がその引き戸をスライドさせた。



    *



 最初に目に入ったのは、畳だった。


 六畳ほどの元和室。少しへたった畳にちゃぶ台がひとつ。壁一面を埋める本棚は、横積み・二重詰め・ジャンルぐちゃぐちゃの三重苦で、ミステリの隣に詩集、その上に辞書、さらにその上に漫画という無法地帯になっている。窓際には古いソファ。革が擦り切れて色が変わっていた。隅っこに埃をかぶったノートPC。ホワイトボードには名前と矢印が複雑に交差した相関図みたいなものが書き殴られている。


 西日が畳を斜めに切っていた。空気が橙色に染まっている。


 そして——ちゃぶ台で原稿用紙に向かう少女がいた。


 黒髪のロングが背中まで流れている。制服のリボンがわずかにずれていて、本人はまったく気づいていない。手元では万年筆が走っている。インクが青黒く紙に染みていく。ペン先が原稿用紙を引っ掻く、小さくて規則的な音。横顔。まつげの影。窓から入る西日がまぶたの輪郭をやわらかくなぞっている。


 絵になるな、と思った。言葉にする前に、そう感じていた。


 少女が顔を上げた。目が合う。一拍の間。


「あ……いらっしゃいませ」


 喫茶店じゃない。


 丁寧にお辞儀をされた。背筋がまっすぐだ。


「霧島先生から伺っています。新しい部員候補の方ですよね」


「まだ候補とも言ってないんですが」


「朝倉陽翔さん。一年三組。元サッカー部。身長百七十二センチ。好きな食べ物はカレーうどん。最近よく行くコンビニは学校裏のセブン。よく買うのはカフェオレと肉まんです」


「なんで俺のプロフィールそんな詳しいんですか!? ていうかコンビニの購買傾向まで把握してるんですか!?」


「取材は小説家の基本です」


 にっこり笑ってそう言った。悪気がゼロの目だった。悪気がゼロなのが逆に怖い。


「千歳詩織です。一年二組です。よろしくお願いします」


「よろしくお願いします……?」


 千歳詩織。丁寧で、静かで、でも真っ直ぐこっちを見てくる目をしている。観察されている、という感覚がある。動物園のガラス越しに覗かれている動物の気持ちが、少しだけわかった。


「おー、ほんとに連れてきたんだ。先生にしては仕事が早い」


 声はソファの方から飛んできた。本の山の向こうから顔を出した人物は、長い髪に切れ長の目をした先輩だった。ソファに寝転がっていた姿勢からゆっくり起き上がって、髪がさらっと揺れる。かっこいい。


 ただし後頭部に盛大な寝癖がついている。


「桐谷凛、二年。一応部長やってる」


「一応ですか」


「部員が私と千歳と先生しかいないからな。部長もなにもない。ただの称号だ」


「三人……」


「廃部ラインが五人。あと二人足りない。で、お前が四人目の候補」


「いやまだ入るとは」


「入るよ」


 断言された。


「先生がお前を連れてきた時点でもう決まってる」


「横暴じゃないですか」


「横暴じゃない。必然だ。この部に"候補"で終わった人間はいない」


「歴代何人いるんですか、その候補」


「お前が初めてだ」


「サンプル数が少なすぎる!」


 凛先輩が少しだけ笑った。クールな顔にほんの一瞬だけ笑みが乗って、すぐに消える。見間違いかもしれないレベルだった。


「まあ座れ。茶を出す」


 気づいたらちゃぶ台の前に座らされていた。凛先輩が棚から急須を取り出して、慣れた手つきでお茶をいれ始める。


「あの、湯呑みが五つあるんですけど」


「来客用」


「来客って俺のことですよね。すでに俺が来ること前提で用意されてません?」


「先生が今日連れてくると言っていたからな」


「計画的犯行じゃないですか」


「計画は犯罪じゃない。段取りだ」


 霧島先生はそのやりとりを聞きながらソファの端に腰を下ろすと、目を閉じた。三秒。落ちた。完全に落ちた。


「先生!? 顧問でしょ!?」


「……部員が増えたら起こしてくれ……」


 詩織さんが棚からブランケットを取り出して、先生にかけた。手際が良すぎる。もう動きが自動化されている。


「いつものことです。気にしないでください」


「いつもなんですか」


「はい。先生はだいたい十五分で起きます。缶コーヒーを飲みながら赤ペンを持つのが復活の合図です」


「缶コーヒーが復活の鍵なんですね」


「先生の生命維持装置だと思ってください」


「言い方がだいぶ不穏なんですが」


 凛先輩が湯呑みを差し出してきた。緑茶のいい匂いがした。


「飲め。落ち着くから」


「落ち着かないといけないような状況なんですか」


「お前、ツッコミが上手いな」


「褒められてるのか警戒されてるのかわかりません」


「褒めてる。この部にはツッコミが足りなかった」


 お茶をすすった。確かに少し落ち着いた。畳の匂いと、お茶の湯気と、万年筆のインクの匂い。グラウンドの汗臭さとは全然違う。ここには点数もタイムもない。それが今の俺には少しだけ楽だった。


 いや何しみじみしてんだ。まだ入部するとも言ってないのに。



    *



 お茶を二口目いったところで、詩織さんがA4用紙の束を差し出してきた。五枚。表紙に手書きで「短編・窓辺の声」と書かれている。


「よかったらこれを。読んでいただけると嬉しいです」


「はあ」


「感想をいただけたらもっと嬉しいです」


「はあ……」


「できれば三百字以上の感想をいただけたら、私は本日中に次作の執筆に入れます」


「プレッシャーかけてきてますよね!?」


「プレッシャーではありません。動機付けです」


 目がキラキラしている。この輝きの前で「読みません」は物理的に言えない。断ったら何か起きそうだ。何かというのが具体的に想像できないのが逆に怖い。


「じゃあ読みます」


「ありがとうございます!」


 声のトーンが二段階くらい跳ね上がった。さっきまで静かに万年筆を走らせていた人と同一人物なのか怪しい。


 義務感で一行目に目を落とした。


 三行で空気が変わった。


 描写の精密さが尋常じゃない。主人公の少年が窓辺に座って外を眺めているだけの場面なのに、その視線の先にある世界がくっきり見える。風の温度、光の角度、机の木目の手触り。五感のどれもが正確に、だけど押しつけがましくない。「彼の沈黙は重たい水のように教室に沈んでいった」。こういう一文がさらっと出てくる。


 ページをめくる手が速くなっていた。


 二枚目の途中で気づいた。義務で読んでいたはずなのに、いつの間にか続きが知りたくて読んでいる。読書なんて普段ろくにしないのに、文字が頭の中で映像になっていく。窓辺の少年の呼吸が聞こえる気がする。


 三枚目あたりで、妙なことに気づいた。


 主人公の少年。運動部を怪我で辞めた設定。少しぶっきらぼうだけど根は優しい性格。好きな食べ物がうどん。


 うどん。


 読み進めるたびに一致点が増えていく。放課後の教室で一人になる主人公の描写が、やけにリアルだった。窓の外にグラウンドが見えている。練習する元チームメイトの声。それを聞きながら膝に手を置いている。


 おい。これ。


 五枚目を読み終えた。顔を上げる。ソファの向こうで凛先輩がニヤニヤしていた。寝癖はいつの間にか直っている。


「すごく面白いです」


 嘘じゃない。心の底からそう思った。国語の成績が3の俺でもわかる。この人の文章には力がある。読む人間を別の場所に連れていく力だ。


 詩織さんの表情が一瞬で変わった。花が咲くみたいな笑顔になる。


「本当ですか!?」


「本当です」


「どのあたりが!?」


「全体的に。比喩が特にすごいです」


「比喩! 具体的にどの比喩ですか!?」


「えっと、三ページ目の——ところで一つ聞きたいんですけど、この主人公って」


「フィクションです」


「まだ聞き終わってないんですが」


「完全なフィクションです。モデルはいません。いません」


 二回言った。


「いや、うどんが好きで運動部辞めてて放課後一人でいる男子って、割と限定されませんか」


「日本には約六千万人の男性がいます。その中でうどんが好きな人は推定二千万人。うち運動部経験者は」


「統計で煙に巻こうとしてますよね!?」


 凛先輩がソファからボソッと言った。


「あれ、三日前から書き始めてたよ。お前の入部が決まった日から」


「凛先輩!?」


 詩織さんが跳ねるように振り返った。顔が赤い。耳まで赤い。首の付け根あたりまで赤い。


「あくまで取材として! プロフィールを参考に人物造形を行っただけです! 小説的手法として! 創作の技術として!」


 早口がどんどん加速している。句読点が蒸発している。


「"取材"って言えば何でも許されると思ってません?」


「許されます!」


 即答だった。


「小説家にとって取材は神聖な行為です!」


「神聖のハードルが低くないですか」


 凛先輩がお茶を啜った。涼しい顔で。


「千歳、見苦しいぞ」


「先輩が余計なことを言うからです!」


「事実を述べただけだ」


「事実の開示にもタイミングがあります!」


「お前の小説にはタイミングの概念がちゃんとあるのに、実生活にはないんだな」


「それは関係ないです!」


 凛先輩が俺のほうを見て、少しだけ口角を上げた。


「面白いだろ」


「面白いかどうかの前に、状況の理解が追いつかないんですが」


「追いつかなくていい。そのうち慣れる」


 照れくさかった。自分がモデルにされたことが、というよりも、自分に興味を持ってもらえたことが。それがどういう種類の興味なのかはまだわからない。でも千歳詩織という人は、俺の何かに「書きたい」と思ったのだ。


 この人はすごい。文章が、すごい。国語の成績3の俺でも、それだけはわかる。



    *



 結局その日のうちに仮入部届を書かされた。


 凛先輩が引き出しから用紙を取り出した。もう印刷済みだった。


「用意がいいですね」


「当然だ。先生が連れてくると言った時点で印刷した」


「俺の意思は」


「お前の意思は尊重する。ただし"入部する"という意思だけを尊重する」


「選択肢がひとつしかないじゃないですか」


「一つあれば十分だ」


 この人の論理に勝てる気がしない。たぶん推理小説のトリックを考え慣れている人間には、人を説得するなんて朝飯前なんだろう。


「動機は何でもいい。"先生に脅された"でもいい」


 ペンを持った。動機欄の前で手が止まる。


 窓の外、空がオレンジから紫に変わりかけている。部室の壁掛け時計がカチカチと秒針を刻んでいた。畳の匂い。お茶の湯気。万年筆のカリカリという音——詩織さんがもう書き始めている。さっきまで顔を真っ赤にしていたのに、もうペンを握っている。切り替えが早すぎないか。


 凛先輩はソファで文庫本を開いているが、ページをめくる気配がない。視線がこっちに向いている。霧島先生は寝ている。ブランケットの下から規則的な寝息が聞こえる。


 なんで文芸部に入るのか。


 サッカーができなくなったから。行く場所がなかったから。先生に腕を掴まれたから。正直なところ、消去法だ。


 でもさっき読んだ五枚のことを考えた。窓辺の少年が外を眺めている場面。あの文章を読んでいた数分間、膝の痛みも、グラウンドの記憶も、全部忘れていた。誰かが紡いだ言葉の中にいた。あの感覚は初めてだった。


 ペンを動かした。


 動機欄に書いた文字——「面白い小説を読んだから」。


 詩織さんが横から覗き込んだ。


 真っ赤になった。


 さっきの赤さを上回っている。赤を通り越して、もう信号機みたいだ。


「あ、あの」


「事実です」


「事実ですか」


「面白かったんで」


 詩織さんが両手で顔を覆った。指の隙間から目だけが覗いている。なんか目がうるんでいる。


「……ありがとう、ございます」


 声が小さかった。さっきまで取材取材と元気に叫んでいた人の声が、急に小さくなった。


 凛先輩がソファから声を飛ばしてきた。


「よし。これで四人。あと一人だな」


「俺に心当たりはないですよ」


「いるでしょ、お前の周りに」


「いません」


「暇そうで、断りにくくて、うるさい人間」


 脳裏に浮かんだ。弁当を二段重ねで食う、声のでかい、あの男。サッカー部時代からの親友。給食のカレーうどんを三杯おかわりして保健室に運ばれた伝説の持ち主。


「いや、あいつだけはダメだ。絶対にダメだ」


「その反応、つまりいるのね」


 凛先輩が獲物を見つけた猫みたいな目になった。


「ぜひ紹介してください」


 詩織さんがいつの間にかノートを広げていた。ペンを構えている。さっきまで顔を赤くしていたのが嘘みたいに、目が完全に切り替わっている。取材モード。起動が速すぎる。感情のギアチェンジにクラッチがない。


「言わないからな! 言ったら終わりだ!」


「大丈夫です。千歳なら名前がなくても特定できる」


「それが怖いんだよ!」


 凛先輩が涼しい顔で湯呑みを置いた。


「安心しろ。もう調査済みだ」


「は?」


「大和壮介。一年三組。お前の隣の席。好きな食べ物は焼肉。口癖は"暇すぎて死ぬ"。最近サッカー部にほとんど行ってない」


 データが完璧だった。凛先輩がスラスラと読み上げていく。詩織さんが微笑んだ。


「先輩と手分けしました」


「共犯じゃねえか!」


「共犯ではありません。共同調査です」


「言い方を変えただけですよね!?」


 凛先輩が腕を組んだ。


「来週中に連れて来い。方法は任せる。ただし結果は出せ」


「部長命令ですか」


「部長命令だ」


「入部初日に部長命令って重くないですか」


「重いか軽いかは結果で決まる。成功すれば軽い命令だったことになる」


「なんですかその結果論」


「結果が全てだよ。千歳、大和壮介の情報をまとめてプリントにしろ」


「もうしてあります」


「もうしてあるんですか!?」


 詩織さんがノートの間からA4一枚を抜き出した。「大和壮介 基本データシート」と書かれている。顔写真つき。どこで撮ったんだ。


「いつ作ったんですかこれ」


「今朝です。霧島先生から"今日連れてくる"と聞いた時点で、周辺人物の調査に入りました」


「仕事が速すぎる。CIAか」


「CIAではありません。千歳詩織です」


「知ってます」


 霧島先生がブランケットの下で寝返りを打った。


「凛、あんまり新入りをいじめるなよ」


「いじめてません。教育です」


「起きてたんですか先生」


「寝てた。今起きた」


「嘘ですよね」


「半分嘘だ。半分は夢の中でお前たちの会話を聞いていた。なかなか面白い掛け合いだな」


「夢の中で聞いてるって、それもう起きてるじゃないですか」


「意識の問題だ。深く考えるな」


 この部、全員が一癖ある。誰ひとりとして普通じゃない。なのに、なぜか噛み合っている。歯車の形がバラバラなのに、回すと動く時計みたいだ。


 壊れかけの時計。でも、ちゃんと時を刻んでいる。



    *



 帰り支度をして引き戸に手をかけたところで、背後から声がかかった。


「朝倉くん」


 振り返ると、詩織さんがちゃぶ台の向こうから小さく手を振っていた。


「明日もお待ちしています」


「はい」


「あと、今日の感想なんですけど」


「はい?」


「どの場面で一番引き込まれたか、どの一文が最も印象に残ったか、その一文を読んだときの心拍数の体感変化、可能であれば五段階評価で。できれば明日までに」


「宿題のボリュームがおかしくないですか!?」


「感想は宿題ではありません。取材です」


「取材のハードルだけは一流ですね!」


 凛先輩がソファに横になりながら片手を上げた。


「じゃあな朝倉。明日から地獄だ」


「地獄って言わないでください」


「楽しい地獄だよ」


「矛盾してません?」


「矛盾は小説の基本だ。覚えとけ」


 名言なのか暴論なのか判断がつかない。


 引き戸を閉めた。すりガラスの向こうで、すぐに万年筆のカリカリという音が始まった。詩織さんがもう書いている。


 旧校舎の廊下を歩いた。自分の足音だけが反響する。渡り廊下を抜けると、本校舎側からかすかに部活の声が聞こえた。体育館、グラウンド、音楽室。みんなそれぞれの場所で、それぞれの放課後を過ごしている。


 校門を出て振り返った。


 旧校舎の二階、端っこの窓に明かりが灯っている。橙色の小さな四角い光。凛先輩と詩織さんがまだ残っているのだろう。あの部室だけが光っている。


 グラウンドのほうに目をやると、もう暗かった。サッカー部はとっくに練習を終えている。ナイター照明も消えている。あの場所には、もう誰もいない。


 でも旧校舎の窓だけが光っていた。


 ポケットに手を入れた。仮入部届の控えが指先に触れる。紙の感触。薄っぺらくて、頼りなくて、でも確かにそこにある。


 「面白い小説を読んだから」。


 それが俺の動機だ。膝を壊した元サッカー部員が、なぜか文芸部に入部届を出した。終わったはずの放課後に、なぜか続きが生えてきた。


 明日からどうなるんだろう。部誌ってなんだ。コンクールってなんだ。取材ってなんだ。あの先輩は毎日あんなにクールなのか。あの顧問は毎日あんなに寝てるのか。壮介を連れてこいって言われたけど、あいつが文芸部に入ったらどうなるんだ。想像するだけで頭が痛い。


 それに、あの人は——毎日あんなふうに万年筆を走らせているんだろうか。西日の中で、まつげに影を落としながら。


 空はもう紺色に変わりつつある。その境目に、薄い橙が一筋だけ残っていた。灰色だと思っていた放課後に、少しだけ色がついた。


 明日から俺は文芸部員だ。


 文芸部って、何するんだ。


 今さらすぎる疑問を抱えたまま、俺は家に向かって歩き出した。

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