1-1 エレノア イシュハ
一人の女性から、この物語を始めよう。
ここは北国イシュハ。
女神アニタをたたえて管轄区から独立したこの国は、外国からの移民を無尽蔵に受け入れて発展してきた。もうすぐ建国500年を迎える。公用語はイシュハ語だが、町にはさまざまな言語が飛び交い、肌の色も髪の色も目の色もみんな違う。基本はアニタ信仰だが、実際は宗教も価値観もバラバラだ。
そんなイシュハの東方の街レハルノーサ。
公演を終えた芸人たちが、一斉に旅支度を始めていた。テントをたたみ、囲いや骨組を撤去し、馬や象を追い立てる。ほとんどの芸人は、商業の盛んな北のセカンドヴィラか、首都か、港町ポートタウンに向かう。
ミゲル・フィリとヤエコ・ノルタの芸人夫婦も、別な大都市に向かうために荷物をまとめていた。
しかし、娘のエレノアは違った。
「アルターの学校から入学許可が下りたわ!」
エレノアが、ぶあつい封筒を持って、半ばスキップするようにうきうきとしながら部屋の中をくるくると回った。まだステージ衣装を来ていたので、長いスカートのすそが大きく広がり、エレノアが父ミゲルに書類を見せようとしゃがみ込んだ時、スカートが大きなかぼちゃのように丸くふくれた。
アルターにはイシュハで一番大きな、歴史ある高校があり、そこからほとんどの生徒がストレートで、アルターか首都の大学に進学する。規模は世界一で、イシュハ中の優秀な子供はすべてそこに送られてくると言っても過言ではない。
そんな高校から、途中入学の許可が下りたのだ。
「ここでちゃんと勉強すれば、音楽大学に行けるの」エレノアが父の顔に書類を押しあてた「成績が良ければ、学費も出るのよ!」
「でもお前、歌なんかは」ミゲル・フィリは娘のうれしそうな顔を見つめながらつぶやいた「大学なんか行かなくたって、勝手に覚えりゃいいもんじゃないか」
「まだそんなこと言ってるの?」
エレノアは立ち上がり、自分のスーツケースを引っぱりだして、目についたものを適当に詰め込み始めた。ほとんど自分が集めている大きな帽子だったが。
世界中を旅する芸人のもとに生まれたハーフの娘エレノアは、だれもが驚くほどの美貌と、驚くべき音感を持って生まれた娘だった。黒髪は母ヤエコ・ノルタから、青い目は父ミゲル・フィリから受け継いだものだ。
ヤエコは東方のアケパリ人。そして父ミゲルは西方のドゥロソ人。3歳から歌い始めたエレノアは、他の旅芸人の誰よりも確実に、観客の心をとらえた。美しい声。父も母も曲芸専門で、娘に歌など大して教えてもいないのに、エレノアの歌は音程も表現技法も完璧だった。
「大学で音楽の修士号を取れば、学校で教えることができるし」エレノアは最後に残っていたシャツをスーツケースに無理矢理押し込んだ「オペラハウスに入れるかも」
「そんなもんに入らなくても、お前は一人でもやってけるだろう」
「いっしょに世界を回ってりゃ食うに困らないのに」
母ヤエコが、アケパリ風の蔦模様の弁当箱を持って部屋に入ってきた。中には『ノルタ風手抜き料理』が詰まっている。
「わざわざ余計な苦労しに行くなんて、やっぱりあんたに似たんだよ、ミゲル」
アケパリなまりの強いドゥロソ語で、ヤエコが夫にささやいた。
「俺がいつ余計な苦労なんかした?」
にやつくヤエコに向かってミゲルが、ドゥロソなまりのアケパリ語で抗議した。
「流れ者のアケパリ芸人を妻にしたこととか?」
エレノアはイシュハ語で、ふざけてそんなことを言った。
「流れ者なんて言うんじゃない。私も立派な芸人だ」ヤエコがエレノアの頭を指でつっついた「大いに勉強しておいで、そして大成功しなさい。でも、男にはまっちゃだめよ」
「俺もそれが心配なんだ」
ミゲルが娘を見つめながら目を細めた。
ほんとうに、なんという美しい娘だろう……女神が芸術のためにこの世にお遣わしになったのかと思うほどだ。きっと、女神アニタの祝福を受けたに違いない。
今までだって、父ミゲルは思い出した。娘が大きくなるにつれて、旅先でたくさんの男たちがうちの娘を追いかけたもんだ。うまく追い返した奴もいるし、しつこく次の旅先までついてきた奴もいた……。
まあ、ヤエコがレッドタイガーを放したら逃げて行ったが……。
「大丈夫よ」エレノアが自信ありげに笑った「私、男になんか興味ないわ。歌が恋人なの。よく知っているでしょう?」
エレノアは父親に抱きついて頬にキスをした。ミゲルは笑ったが、とても寂しそうだ。
まあいい、変な男がついたら、虎のえさにでもしてやろう……。
そう思っていたのだが、もちろん娘には内緒だ。