1-2 アンゲル 管轄区
同じころ。
イシュハの南、教会管轄区。
厳格な女神イライザの信者が暮らす国だ。人々は女神の戒律に従って暮らし、週に一度教会で祈りをささげ、罪深い行為を絶対に許さない。他の神を信仰することも認められていない。
その管轄区の、人知れぬ田舎町の、ある小さな家の中。
「イシュハは文明の進んだところだ、そこで暮らすことはいい勉強になるだろう。でもな」アンゲルの父は深くしわの刻まれた眉間にさらに重い懸念を足し、これ以上ないほど深刻な顔で息子に忠告した「お前はイライザ教会の敬虔な信者だ。それを忘れずに正しく生活しろ。アニタ教のやつらはおそろしく怠慢で放蕩だというが、決して流されるな。金の貸し借りはするな。放蕩者に近づくな。酒の誘いは断れ。女にも手を出すな。真面目に勉学に励め」
隣では母親が、心配そうな顔でアンゲルを見つめている。
言葉が通じるとはいえ、違う神を信仰する異国の学校に息子を送るのは、心配でたまらないのだ。
「わかってるよ」
そう答えて、わざとらしいほどにこやかに笑いながら家を出たアンゲルだが、内心穏やかではなかった。
家を正面から見上げる。両親は見送りには出てこない。管轄区の習慣では、子供が巣立つときに見送るのはいけないことなのだ。一人前の大人になるための儀式である。
玄関から数歩歩き、振り返る。
今にも崩れそうな屋根(実際一度台風で崩壊した)と、玄関に飾られている、女神をかたどった古ぼけたレリーフを見つめながら、アンゲルは、
『俺は敬虔なイライザ教徒なんかじゃない!』
『女神の存在なんか信じられないから、イシュハに行くんだ!』
そう家に向かって叫びたくなった。でも、それはできなかった。この国で『女神を信じていない』などと口走ったらどういうことになるか、アンゲルはよく知っていた。
同じ学校に通っていたある少年が『女神なんているとは思えない』と教室で言った。
教師が憤慨して少年をどこかへ連れて行った。
その後、少年の姿を見た者はいない。
アンゲルの頭に、懲罰室とか、退学とか、宗教裁判という文字が浮かんだ。
あわてて頭を振った。そんな単語とは縁のない国にこれから行くのだ!
とにかく、あのけちな……いや、清く正しく貧乏な両親が、狂信的な……いや、敬虔なるイライザ教会の信徒が、あの放蕩女神アニタの国イシュハの学校に行くことを許可してくれたのだ。これだけで奇跡だ。
そのことだけは、イライザ様に感謝してもいいだろうとアンゲルは思っていた。
しかし、別な女神を信仰している国というのは、いったいどういうものだろう?新聞や本でその存在を知ってはいたが、アンゲルには『別な信仰』というものがどんなものか、想像もつかなかった。神話では、女神アニタは毎晩パーティーを開き、騒ぎ、飲み、食い、音楽を愛し、地上から人を招いたというが(それで厳格なイライザとは仲が悪いらしいが)そんな女神アニタの信者というのは、どういうものだろう?
俺自身たいした信仰なんてもってないからな。なおさらわかるわけがないな!
まあいい。行けば分かるだろう。
アンゲルは力強く歩き出した。未知の国に向かって。
駅まで10kmほど歩かなくてはいけない。車もバスもない。
土埃が風に舞う。最近晴れた日ばかり続き、空気が異様に乾燥している。
まずポートタウンへの列車に乗らなくては。




