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『魂を導く紋章師』  作者: nukoto


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第97話 「届かなかった言葉」

 まだ陽が昇りきらぬ時間、リアン達が泊まっている部屋の扉が静かに叩かれた。

 短い間の後、リアンが立ち上がり、音もなく扉を開ける。


 そこには紋章教会の使者が立っていた。

 純白の外套、胸には《聖環の印章》。

 その表情は氷のように無機質だ。声だけが、書式通りに滑って出る。


「導き手リアン・アルステッド殿。王都内にて発生した浄化依頼をお伝えします」


「……王都内で?」




 リアンは眉を寄せる。戦地や瘴気地帯の浄化ならまだしも、この都市で呼ばれるのは珍しい。


「はい。灰の前線に派遣されている導き手たちは全員不在。現在この地に残るのは、貴殿おひとりのみです」

 使者はわずかに視線を下げ、封印された命令書を差し出す。

 封蝋の《聖環》が、刃物で割れば泣き出すみたいに薄く脈打っていた。

「依頼は王都北区の屋敷。詳細は封に記されています。明朝、教会の馬車が迎えに参ります」


「……わかりました」

 リアンは書簡を受け取り、軽く頭を下げた。

 使者はそれ以上何も言わず、礼だけを残して去っていった。


 扉が閉まる。

 わずかに鳴った金具の音が、部屋に静寂を戻す。


「……久しぶりね、浄化の依頼」

 椅子の背にもたれたまま、サラが片眉を上げた。

「でも――王都の中ってのは、妙じゃない?」サラは窓の外の塔時計に視線を跳ばす。


「確かに。普通、こんな場所で魂が残ることはない」

 リアンは封を切り、書簡に目を走らせる。

「……依頼場所は“王都北区・カシエル家”。貴族の屋敷だな」


「貴族の……?」

 サラの表情に、警戒の影が差す。

「戦や災厄の跡地じゃないのに、“浄化”を頼むなんて、普通じゃないわね」


「事故や事件があったのかもしれない」

 リアンは低く言いながら、窓の外へ目を向けた。

 朝の光が石畳を照らし、人々の営みがゆるやかに始まる。

 ――だがその奥に、見えない影が息づいている気がした。


「……何か、未練か、憎しみが残ってるのかもしれない」


「ふうん……まぁ、行ってみなきゃ分からないわね」

 サラは立ち上がり、軽く背伸びをする。

「どうせまた、面倒なことになるんでしょうけど」


「……いつものことだろ」

 リアンが苦笑する。


「ま、いいわ。どうせ暇だったし。

 どうせあんたひとりじゃ抱えきれないんだから、ちゃんと頼りなさいよ」


「わかってるよ」

 リアンは穏やかに答え、机の上の紋章書を閉じた。

 窓からの光が、彼の右手の《箱舟の紋章》を照らす。


 ――明日、また“導く”日が来る。

 それが、どんな魂の声であっても。


⸻


 翌朝。


 王都の北区、古びた煉瓦造りの街並みを抜けた先――

 リアンとサラは、深い蔦に覆われた屋敷の前に立っていた。


 門柱には、まだ“貴族の紋章”が残っている。

 刻印の中央を、黒い一本線が横切っている。――〈抹消〉。


「ここが……カシエル家ね」

 サラが呟き、足元の石畳を見やる。

 長い間、人が出入りしていないのか、落ち葉が積もり、空気がひどく重い。


 門の前には一人の男が立っていた。

 王都騎士団の紋を肩に刻んだ青年――年はリアンとそう変わらない。

 彼は二人を見ると礼をとり、静かに名乗った。


「お待ちしておりました。王都警備騎士、アレン・ルストです。……ここには昔、警邏で何度も来ました。」

「導き手のリアン・アルステッドだ。こちらは同行者のサラ」

「存じております。教会より通達を受けております」


 短い挨拶のあと、アレンは屋敷を振り返り、低い声で続けた。


「……ここ、カシエル家は取り潰しとなりました。

 理由は――国家反逆罪です」


「反逆罪?」

 サラの眉がわずかに動く。


「当主エドワルド・カシエル卿は、王国の戦争政策に反対していました。

 息子を前線に送り出したのですが……彼は戦で戦死しました。

 それからというもの、卿は“この戦は間違いだ”と、王に直訴したそうです」


 アレンの声は、どこか悔しげだった。

「だが、取り合ってもらえず……。

 その後、裏で反戦の書簡を配布していたことが発覚し、国家反逆罪に問われました。

 逮捕の夜、卿は屋敷で自害を。止められませんでした、私たちは。」


 風が門を鳴らす。

 枯れ葉が足元で転がり、冷たい音を立てた。


「……それ以来、この屋敷は瘴気に覆われています。

 騎士や祈祷師が入っても、内部で幻覚を見たり、気を失ったり……。

 誰も長く留まれません」


「なるほどね」


「反逆者の屋敷が瘴気に……まるで“王の正義”を示すかのようね」


 アレンは言葉を詰まらせたが、何も返さなかった。


 リアンはしばらく沈黙し、屋敷の奥を見つめる。

 どこかで、風鈴のような音がした。

 ――それは、瘴気が空気を歪めて鳴らす、微かな悲鳴にも似ていた。


「……行こう」


サラが小さく笑って「任せて」と囁く。


 リアンが一歩踏み出す。

 サラは短く息を吐き、後に続いた。


⸻


 玄関の扉は半ば開いたまま、誰かを待つように止まっていた。

 中へ入ると、空気が重く沈み、埃と古い香の匂い。息が白くなるほど、ひやりとしている。


「……綺麗ね」

 サラがぽつりと呟く。

「取り潰された家にしては、整いすぎてる」


 家具も壁も整然としたまま。

 まるで昨日まで、そこに人がいたようだった。


 しかし、リアンには分かっていた。

 この静けさは――“祈りが途切れた家”の静けさだ。


⸻


 屋敷の廊下は、時が止まったように静かだった。

 壁にかけられた肖像画の瞳が、通り過ぎる二人を追うように見える。

 重ね塗りされた絵具の奥――そこには、まだ“人の気配”が残っていた。


 リアンは足を止め、手のひらを壁にかざす。

 箱舟の紋がかすかに反応した。

 淡い光の波が、廊下の空気にゆらめく。


「……瘴気の反応がある。けど、強くはない」

「まだ“完全には消えてない”ってことね」

 サラは片手を腰に当て、薄く笑う。

「まったく……死んでも休ませてもらえないなんて、皮肉な話ね」


 階段を上ると、埃をかぶった絨毯が長く続いていた。

 両側の扉は閉ざされ、金の取っ手は冷たい。


 サラがふと一枚の扉の前で足を止める。

「ここ……子どもの部屋っぽいわね」


 リアンが頷き、ゆっくり扉を押し開ける。

 軋む音とともに、淡い光が差し込んだ。


 部屋の中は驚くほど整っていた。

 机の上には古びた地図と、いくつもの戦地の記録書。

 窓枠に触れた指先がかすかに痺れる。部屋の冷気は、廊下より深い。

 窓際には木製の小さな兵士人形が並び、陽を受けて影を落とす。

 一体だけ、槍の先が欠けている。触れられたまま戻らなかった指の跡が、うっすら埃に残る。


「……ここで、父親はずっと息子の帰りを待ってたのかもな」


 リアンの声は低く、どこか掠れていた。


 サラは机の上に目を落とし、古びた紙束を手に取る。

 封をされないままの手紙がいくつも重なっていた。

 宛名には――“陛下へ”“王国議会へ”“友へ”。


「直訴文……か」

 サラが呟く。

 その字は震えながらも丁寧で、何度も書き直した跡があった。


『この戦は、民のためにならぬ。

 我が息子の命を以て学んだのは、敵を倒すことではなく――

 失われた命に、何も残らぬということだ。

 どうか、これ以上の死をお止めください。』


 リアンは息を呑んだ。

 手紙を包む紙の端に、淡い痕跡――瘴気の粒子が残っている。


「……届かなかったんだな」

「ええ。誰にも読まれず、ここで止まってる」

 サラの声が、わずかに揺れた。

「これじゃ、未練が残って当然よ」


 リアンは手紙をそっと机に戻した。

 紋章の光がまた、淡く灯る。

 彼は目を閉じ、手袋を外した右手で胸を叩く。紋が、低く脈を打つ。


「――感じる。ここにいる」


 空気が変わった。

 窓の外から吹き込む風が、紙束を舞い上げる。

 床に散った手紙の上で、影がゆらりと形を取った。


 それは、人の輪郭をかすかに模した光。

 沈んだ声が、どこからともなく響く。


『……届かなかった……誰にも……』




「父親の魂……?」

 サラが身構える。炎の紋が一瞬、手の甲に浮かぶ。


 リアンは首を振った。

「違う。怒りじゃない。――“想い”が残ってる」


 影は震えながら、散らばった手紙の上を漂う。

 そのたびに空気が波紋のように揺れ、壁の肖像画の瞳が濁っていく。


『せめて、息子の死が……無駄でなかったと……伝えたかった……』


「……誰にも届かなかった言葉」

 リアンの声がかすれる。

 その掌が淡く光り、箱舟の紋が応えた。


 サラが静かに後ろで呟く。

「リアン……あんた、また全部背負う気?」


「背負わなきゃ、導けない」


「――エドワルド・カシエル。あなたの想いは、俺が届ける」


 リアンは短く答え、影へと手を伸ばした。

「……大丈夫。舟は、ここにある」


 掌の紋章が淡く光り始める。

 背後で空気が歪み、光が一点に収束する。形なき舟――《箱舟》。

 光は揺らめき、まるで包み込むように闇へと広がっていく。


 その瞬間、リアンの意識は深淵へと引き込まれていった。



『……届かなかった……』

「――届かせる」


 光が脈動する。

 紙が舞い、窓が軋む。

 まるで、長く閉ざされていた時間が動き出すかのように。




 

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