第93話 「白壁の王都へ」
夜露の草原を抜ける馬車の車輪が、静かに回る。
道に散る光の雫が、朝日に触れては消えた。
昨夜の焚き火の名残は灰となり、簡素な朝食を終えた二人は再び街道に戻っていた。
澄んだ空気の中、空はすでに青く高く、冷え込んでいた気配もすっかり薄らいでいる。馬の吐息はもう白くはなく、陽の温もりを含んで穏やかに散っていった。
手綱を握るリアンは、遠くを見据えながら小さく呟く。
「……昼ぐらいには、王都に着くだろうな」
荷台に腰を下ろしていたサラが、風に揺れる銀髪を指で払いながら、陽光を反射させた金の瞳を細める。
「ふふ……楽しみね」
その笑みは、朝の光のように柔らかかった。
リアンは思わず肩の力を抜き、表情を和らげる。
「……なんだか、久しぶりに“平和な朝”って感じだな」
「そうね。でも、油断しないで。平和ってのは、だいたい嵐の前に来るものよ」
冗談めかして笑う声。そのあと、サラの眼差しはすっと真剣な色を帯びた。
「それと――昨日の夜のこと、忘れないで。あのイメージを、いつでも出せるようにしておきなさい」
リアンは左手の紋章へと視線を落とす。焚き火の赤で照らされた夜を思い出しながら、静かに頷いた。
「あぁ……確かに。すぐにでも、形にできるようにしておかないとな」
街道を進む馬車の振動に合わせ、リアンは胸の奥で風の精霊の姿を思い描く。草原を駆け抜け、森を抜け、谷を越えて自由に舞う――昨夜、確かに肩に降り立った透明な羽音と清らかな気配。
「――ほら、手綱!」
鋭い声が飛ぶ。
「他のことに気を取られないの!」
はっとして馬の頭を引き戻す。車輪が石に乗り上げ、がたんと大きく揺れた。リアンは苦笑を漏らす。
「……厳しいな」
サラは頬杖を解き、指先で手綱の革を軽く弾いた。
「当たり前でしょ。命懸けで扱う力なんだから」
「……返す言葉もないな」
「うん、素直でよろしい」
その言葉は軽やかに響きながらも、確かな重みを帯びていた。リアンは改めて手綱を握り直し、静かに息を整える。
街道を渡る風が、二人の間をすり抜けていった。遠い地平線の向こう、霞む白い影のような王都は確実に近づいていた。
⸻
――車輪が乾いた街道を刻み続ける。
青く澄んだ空はどこまでも高く、陽光が大地をくっきりと照らし出している。風が草花を揺らし、香りを運び、すっと抜けた。
「……ねぇ」
荷台に座っていたサラが、道端に咲く黄色い花をひょいと摘み取る。
「これ、食べられるのよ」
指先でひらひら揺らされる花に、リアンは眉をひそめた。
「本当に? 毒草じゃないだろうな」
サラは片肩をすくめ、唇に小さな笑みを浮かべる。
「さぁ? 試してみる?」
「……やめとく」
「つまらない男ねぇ」
短いやり取り。
だが、その軽さだけで胸に残っていた重苦しい余韻が少し薄れていく。
風が、二人の間の沈黙をさらっていった。
⸻
そのとき、前方から別の馬車が近づいてきた。
行商人らしき男が片手を挙げ、馬車をゆっくり進めながら声を張る。
「おはようさん! 王都へ向かうのかい?」
リアンが軽く手を振り返すと、男は通り過ぎざまに声を投げた。
「気をつけな! 最近は王都の周りが物騒だって噂だ。夜は特に警戒しろよ!」
土煙を上げて去っていく馬車。
風が一陣、街道を吹き抜けた。サラの銀髪が舞い、陽光を反射してきらめく。
「……物騒、ね」
「気になるか?」
「まぁね。噂ってやつは、大抵、根があるもの」
「だったら――なおさら、油断はできないな」
リアンは真っ直ぐ前を見据えた。
手綱の革が掌に食い込む。近づくほどに、指先だけが落ち着いた。
(……王都か)
英雄の記憶に焼きついた町並みが、ふと脳裏をかすめる。だが、これから自分の目で見る王都は、それとは違う――新たな現実の光景。
「リアン」
サラが金の瞳を向けてくる。
その眼差しは焚き火の夜を思い出させるように鋭く、確かだった。
「気を抜かないこと。昨日も言ったけど、紋章はいつでも使えるようにしておきなさい」
「わかってる」
リアンは短く息を吐き、左手の紋章に視線を落とす。
胸の奥に浮かべたのは、風の精霊の姿。森を駆け抜け、草原を撫で、谷を越えて舞う清らかな気配。
街道はまだ遠くへと続いている。
けれどその先――霞む空気の向こうに、白い城壁の輪郭がわずかに覗き始めていた。
⸻
――街道は次第に広がり、往来の気配が濃くなっていった。
荷を山のように積んだ馬車、背に武器を背負った旅人、王都を目指す商人や農民たち。人々の声、車輪の軋む音、馬の嘶きが折り重なり、街道そのものがひとつの生き物のようにざわめいていた。
「すごい数ね……」
サラが通りすがる商隊を目で追いながら呟く。
「戦の匂いはしないけど……人の動きが多すぎる」
「それだけ、何かが“起きてる”ってことだ」
リアンは手綱を操りながら、その流れを静かに見渡す。
(……人が集まる場所には、必ず魂の残響がある)
英雄の記憶には存在しなかった規模の「都市」。
自分の眼で確かめるべき場所が、確実に近づいていた。
「あぁ。……王都が近い証拠だな」
やがて、遠くの地平に大地を断ち切るような白い影が浮かび上がった。
最初は霞んだ線に過ぎなかったそれが、進むごとに輪郭を明らかにしていく。
――城壁。
陽を受けて白く輝く巨壁は、山脈のように連なり、圧倒的な高さを誇っていた。まるで人の手で造られたとは思えぬほどの存在感。大地そのものが姿を変え、都市を護る壁になったかのようだった。
リアンは思わず息を呑む。
「……でかいな」
その声は、わずかに震えていた。
「ふぅん……人間って、これほど巨大なものを造れるのね」
「守るためにな」
「守るため、ね。どこも同じよ。結局は“見せるため”の壁。中に閉じこもるための理由づけ」
近づくにつれ、街道の両脇には検問を待つ列が伸びていた。
荷車を押す農夫、背中に荷を積んだ旅人、楽器を抱えた旅芸人たち。人それぞれの営みと目的が、その門へと集まり、ひとつの流れとなっていた。
列の先に、巨大な門がゆっくりと姿を現す。
鉄で補強された扉は半ば開き、陽光を鋭く跳ね返す槍を手にした衛兵たちが立ち並んでいる。その影は道を横切る者すべてに重く落ち、近づくほどに緊張感を強めた。
リアンは手綱を引き、深く息を吐く。
「――いよいよ、王都か」
サラは横目で彼を見て、口元に小さな笑みを浮かべた。
「顔が固いわよ、リアン。そんなに緊張してどうするの」
「……してないさ。ただ、少し身構えただけだ」
「ふふ。ならいいわ。導き手が一番怖い顔してたら、魂が逃げちゃうもの」
リアンは苦笑し、サラの言葉に小さく頷いた。
「そうだな……ちゃんと、前を見よう」
車輪の影が長く伸び、馬車の軌跡が王都の門へとまっすぐ繋がっていく。
その向こうに待つものを、まだ誰も導けてはいなかった。




