↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『魂を導く紋章師』  作者: nukoto


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/309

第91話 「魂が還る場所」

 ――谷底の血と煙の匂いが、遠ざかっていく。

 竜の亡骸を背に、二人は崩れた大地の層を踏みしめながら歩き始めていた。


 サラは黙って前を行く。

 戦いを終えた直後とは思えぬほど、その背は揺るぎなく、歩幅は迷いを許さない。

 銀髪がかすかに揺れるたび、炎の残滓のような光が淡く煌めいては消えた。


 リアンはただ、その背を追った。

 足裏に伝わる硬い岩の感触が、まだ戦いの余熱を宿しているように思える。

 息を吐くたびに肺に残るのは血と煤の匂い。それが、先ほどまでの光景を否応なく思い出させた。


(……あそこまで縛りついた魂は、初めてだった)


 怒りと憎しみに呑まれた英雄。

 その叫びに、己さえも飲み込まれそうになった。

 もしサラの声が届かなければ、自分はあの魂と同じ闇に堕ちていたかもしれない。


 ――それでも、導けた。

 最後には舟へ送り出せた。

 その事実だけが胸の奥に灯をともす。


 リアンは深く息を吸い込み、吐いた。

 胸を締めつけていた熱が静かにほどけ、安堵が波のように広がっていく。

 重く沈んだ谷底の風でさえ、今はどこか優しく感じられた。


 それでも――サラは終始、何も言わなかった。

 振り返りもせず、ただ大地を踏みしめ、黙々と歩き続ける。

 その沈黙が、リアンには戦いよりも重く思えた。


(……サラも、何かを背負っている……)


 問いかけたい思いが喉まで上った。だが、声にはならなかった。

 今はただ、この沈黙を共有することが、自分にできる唯一の答えのように思えた。


 サラの力を借り、リアンは崩れた谷をよじ登った。

 吹きすさぶ風が、血と煤の匂いを少しずつ薄めていく。

 振り返れば、竜の亡骸がなお大地に横たわり、英雄の墓標のように谷底を覆っていた。

 二人はその光景を背に、静かに歩みを進めた。


 戻ってきたのは、鉄と火の音に包まれた「武器の町」。

 昼夜を問わず打ち鳴らされる鍛冶槌の響きが、路地の奥まで絶え間なく響いている。

 町は変わらず生の営みを続けていたが、リアンの胸に残るのは戦いの余熱と、導いた魂の記憶だった。


 煤けた店先に立つと、老いたドワーフの職人が顔を上げる。

 サラは一言も発さず、懐から砕けた剣を取り出し、静かに差し出した。


 刃は無惨に折れ、煤に黒く染まり、もはや戦いに使えるものではない。

 だが――それはひとりの男がすべてを懸けて振るい、最後に燃え尽きた証。英雄の最期を刻む残滓だった。


 ドワーフは沈黙のまま剣を受け取った。

 掌に伝わる重みを確かめるように視線を落とし、言葉の代わりに短く息を吐く。

 その眼差しには、口にするよりも多くのものが宿っていた。


 リアンとサラは何も言わず、防具屋を後にする。

 背後には、鉄の匂いと鍛冶槌の音だけが残った。


 町の喧騒の中にいても、二人の胸に響いているのは――英雄の記憶の余韻だった。


 


 ――町を抜ける石畳の道を歩いていたときだった。


 ふと、香ばしい匂いが風に乗って鼻をかすめ、リアンの足が自然と止まった。

 横に目を向けると、小さな食堂があった。煤けた木の看板が吊るされ、窓の向こうには柔らかな明かりが揺れている。

 扉の隙間から漏れる湯気と共に、賑やかな笑い声が夜気を震わせていた。


 胸が、不意に強く締めつけられる。

(……ここは……)


 英雄の記憶で見た光景。

 ひょろひょろの身体で女傭兵に手を引かれ、恐る恐る腰かけた木の椅子。

初めて口にした温かな飯の味。

 母を失い、飢えと孤独に渇いた心に沁みこんだ、あの「満ちる」という感覚――。


 忘れられるはずのない他人の記憶が、自分のものだったかのように胸の奥で疼く。

 懐かしさと痛みが入り混じり、息が浅くなる。


 そのとき、サラがくるりと振り返った。

 金の瞳が灯火を映して柔らかく揺れ、楽しげに細められる。


「……お腹すいた。ご飯、食べようか?」


 リアンは小さく目を瞬かせ、胸に溜めていた息をゆっくりと吐き出す。

「……あぁ、そうだな」


 


 食堂の扉を押し開けた瞬間、温かな空気が二人を包んだ。

 鉄と火の匂いに満ちた町の喧騒とは違う、煮込み料理の香りと人々の笑い声。

 ざわめきの合間に混じる木の椅子の軋みや、食器の触れ合う澄んだ音が、不思議な安心感を運んでくる。


 リアンは思わず足を止めた。

(……ここだ……間違いない……)


 英雄の記憶で見た光景が、そのまま目前に広がっていた。

 小さな自分――いや、かつての“彼”が座ったあの椅子。

 煤けた壁際の、少し欠けた木の机。


「ほら、座る」

 サラは窓際の席に腰を下ろし、顎で向かいを示す。

「今日は、ちゃんと食べときなさい。少し痩せたわよ」


「……そう見えるか?」

「見えるわ。少し、無理してる」


 リアンは苦笑し、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 木の背凭れが背中を押した瞬間、胸の奥で記憶と現実が重なり合う。

 かつて“英雄”が感じた安堵を、今の自分も確かに感じている――。


 やがて店主らしき女が、湯気を立てた皿を運んできた。

「熱いから気をつけてね」

 香ばしく焼かれた肉、柔らかく煮込まれた豆と野菜。

 湯気と共に立ちのぼる香りが、空腹を刺激すると同時に、記憶の奥に刻まれた温もりを呼び覚ます。


 ひと匙を口に運んだ瞬間、リアンの胸が震えた。

(……同じだ……あのときと……)


 あの日、飢えを満たした温かさ。

 孤独に凍えていた心を静かに溶かした味。

 そのすべてが舌に広がり、胸の奥へ沁みこんでいく。

 目の奥が熱くなり、涙がにじみそうになる。


 サラは向かいで、何事もなかったかのように食事を進めていた。

「……味、どう?」

「うまい。ちゃんと……あったかい」

「なら、よし」


 その声は短く、それでいて不思議と胸の奥を満たす。


 温かな食堂の中で、二人は向かい合っていた。

 笑い声と食器の音が響く賑やかな空間にあって――しかし、テーブルを挟んだリアンとサラの間には、言葉がひとつもなかった。


 けれど、その沈黙は気まずさではなく、どこか穏やかだった。

 互いに背負うものを知る者だけが分かち合える、静かな呼吸のような時間。


(……魂は、憎しみだけじゃない。温もりも刻む……)


 そう心の奥で呟きながら、リアンは湯気の向こうのサラを見つめた。

 彼女の金の瞳には、灯火の揺らぎが映っていた。

 それはまるで――闇の中の道標のように。


 


 ――夜。

 食堂を後にした二人は、言葉少なに宿へと戻った。

 通りにはまだ鍛冶場の余熱が漂い、鉄と火の匂いが肌にまとわりつく。

 昼間の喧騒は落ち着いていたが、町そのものが放つ重苦しい熱気は消えていなかった。


 宿の部屋に入ると、サラは無言で荷を下ろし、大剣を壁際に立てかける。

「……明日も早い。休みなさい」

 短くそう告げると、彼女は灯りを落とし、闇に沈む寝台へと身を横たえた。


 ――やがて、部屋には深い静寂が満ちる。


 リアンは窓際に腰を下ろした。

 月明かりが硝子越しに差し込み、銀色の光が彼の横顔を照らす。

 吐き出した息は重く、胸の奥に絡みつく熱を吐き出すには足りなかった。


 英雄の最期の記憶。

 怒りに呑まれ、裏切られ、絶望に沈みながらも――最後に母を求めた声。

 その全てが、なお鮮烈に自身の内に刻まれている。


(……人の魂って……矛盾してるんだな)

 憎悪と絶望の淵に沈みながら、同じ心の奥底で、確かに愛を抱いていた。

 母を想い、守ろうとしていた。

 その想いが、あの人を最後に導けたのだと、リアンは拳を握りながら理解した。


(だから……俺は導けた。最後に、“愛”へと還すことができたんだ……)


 窓の外で夜風が枝葉を揺らす。

 さざめく音が、熱に焼かれていた胸の奥を少しずつ冷ましていく。


 ふと振り返ると、寝台のサラが月明かりに照らされていた。

 その横顔は静かで、何も語らずとも全てを知っているように思える。

 彼女の瞳は閉じられていたが――リアンはわかっていた。

 サラには、自分の揺れる心も、決意も、きっと伝わっていると。


 リアンは静かに目を閉じる。

 導き手として背負うべきもの。

 そして、どんな魂であっても最後に“愛”へと還せるように――忘れないと誓ったこと。


 その夜、静かな決意が、彼の胸に深く刻まれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。