第8話 霧の先、祈りの地へ
荷馬車の隊列は、霧の街道を南へと進んでいた。
馬の蹄がぬかるむ土を踏みしめ、車輪が軋む音が途切れなく続く。
淡い朝霧の向こうには、かつて戦があったという荒野が広がり、ところどころに焦げた石壁や折れた槍が、過去の傷跡のように突き立っていた。
リアンは窓越しにその景色を見つめていた。
風に混じるのは草と鉄の匂い。遠くにあるはずの戦場の気配が、もう肌にまで触れてくる気がした。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
対面の席で、サラは背中に大剣を預け、退屈そうにため息をつく。
「ねえ、まだ着かないの?」
軽く顎を引きながら、金の瞳を外へ向ける。朝光に銀髪がきらりと揺れた。
マリアが柔らかく微笑み、両手を膝の上でそっと重ねた。
「もうそろそろですよ。あと少しで、先遣隊と合流できるはずです」
「ふうん……暇ってやつはやっぱり性に合わないわね」
サラは肩をすくめ、靴のつま先で床を軽く叩く。その仕草には、じっとしていることへの苛立ちと、戦場を前にした落ち着かなさが入り混じっていた。
やがて彼女は、ふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば――なんであたしだけ、導き手の皆さんと同じ馬車なの?」
その問いに答えたのは、祈りの手を解いたセラフィナだった。
白布に覆われた背の翼が、わずかに光を反射する。
「あなたの戦闘記録は教会にも残っています。以前にも言いましたが――導き手全員を守るには、あなたが最も適任だと判断しました」
サラはわずかに目を細め、視線を窓へと戻す。
「つまり、あたしは便利屋ってわけね」
マリアが柔らかな声で首を振った。
「違います。あなたがいるだけで、皆が安心できるんです。特に……リアンくんは」
「……そうなのか?」
不意に名前を出されたリアンは、少し驚いたようにサラを見た。
「サラはそんなにすごいのか? 確かに強いとは思うけど……俺は世間に疎いからな」
セラフィナが静かに微笑む。
「“死を運ぶ鳥”――その名を知らない人のほうが珍しいですよ。
戦場であなたの名を聞けば、誰もが道を譲る。
そんな人が守り手になるなんて……この先も安心ですね」
「……褒め言葉として受け取っておくわ」
サラは淡々と返しながらも、わずかに頬を染め、視線を逸らした。
窓の外の霧に目を向ける横顔には、ほんのかすかに照れの色が滲んでいる。
リアンはそんな彼女を見つめ、ふと口元に小さな笑みを浮かべた。
短い時間の中で、確かに少しずつ――距離が縮まっているのを感じた。
マリアが窓の外を覗き込み、やわらかく声を上げる。
「――そろそろ着きますよ」
霧の向こうに、黒ずんだ地平が見え始める。
崩れた砦の残骸、焼け焦げた槍、沈んだ旗。
かつて数えきれぬ命が散った戦場――今も瘴気の漂う、南部旧戦争跡地がそこにあった。
荷馬車は軋みを上げながら、静かにその地へと踏み入っていく。
車輪がひときわ深く沈むたび、空気は重く、冷たく変わっていった。
馬車の車輪が軋みを上げて止まった。
南部旧戦跡――瘴気が立ちこめる大地の入口。
朝霧の奥で、黒ずんだ土の上に立つ先遣隊の旗が、風に揺れている。
地面には無数の足跡と、灰を残した焚火の跡。
先に討伐を終えた冒険者たちが武具を磨き、疲れを滲ませた顔で導き手たちを振り返った。
その視線には、敬意と緊張が混じっている。
セラフィナが馬車の扉を開け、淡く光を帯びた瞳で辺りを見渡す。
「ここが合流地点。――全員、降りなさい」
リアンたちも次々と地へ降り立つ。
土と瘴気の匂いが鼻を刺し、肺の奥まで冷たさが染みこんでいく。
草は黒く枯れ、風は低く唸る。生者が踏み入るには、あまりに静かすぎる場所だった。
導き手たちは、それぞれの守り手を伴っていた。
セラフィナと〈白刃の衛士〉ユリオ。
マリアと〈静謐の盾〉テオ。
イオと〈沈黙の牙〉アレッサ。
ルディアと〈暁星の槍〉カロル。
そして、リアンの傍らには――炎と風、二つの紋章を宿す女、サラ=レイヴェルがいた。
右手には炎の紋章、左手には風の紋章。
その両の掌から、赤と蒼の光が淡く交差し、空気が一瞬だけ震える。
“死を運ぶ鳥”――そう呼ばれた名は伊達ではない。
周囲の冒険者たちが本能的に一歩退くほど、彼女の存在そのものが戦場の匂いを纏っていた。
やがて、先遣隊の隊長がセラフィナの前に進み出た。
鎧の継ぎ目からは戦いの煤がのぞき、声には疲労と緊張が滲んでいる。
「討伐はほぼ完了しました。瘴気の濃い区域は残り三つ。境界の安定化も確認済みです」
セラフィナは短く頷き、導き手たちのほうを向いた。
その瞳に宿るのは、光ではなく覚悟だった。
「これより、各導き手に護衛の冒険者チームを配属します。
守り手と連携し、導き手は浄化に専念を。瘴気はまだ深い――油断しないで」
隊長が手を挙げると、待機していた五つの小隊が整列する。
鎧の擦れる音、武具の鳴る音。
その一つひとつが、これから向かう地の厳しさを物語っていた。
魔法士、斥候、重戦士、神官――それぞれが己の役割を背負う顔つきをしている。
セラフィナは手元の地図を開き、淡々と指示を告げた。
「セラフィナ隊は北東帯。マリア隊は中央。イオ隊は南西、ルディア隊は東部。
そしてリアン隊――あなたとサラ、それに第三班が南域を担当します。
瘴気の流れが最も濃い区域です」
リアンは静かに頷き、隣のサラへと目を向けた。
「……了解しました」
サラは肩を軽く回し、退屈そうに息をつく。
「ようやく動けるのね。待たされすぎて、体が鈍りそうだったわ」
その言葉にルディアが笑いをこぼす。
「さすが“死を運ぶ鳥”。でも気をつけてね、南域って一番ヤバいって噂だよ?」
サラは片手をひらひらと振り、「平気よ」とだけ返した。
右手の炎紋がわずかに閃き、周囲の空気が熱を帯びる。
彼女の瞳の奥には、静かな闘志が宿っていた。
セラフィナは全員を見渡し、両手を胸の前で組む。
祈りの声が、瘴気を裂くように澄み渡った。
「――魂に、安らぎを」
その言葉に、導き手も、守り手も、冒険者も、静かに頭を垂れた。
祈りが風に溶け、光が霧の中に散っていく。
リアンはその光を見つめながら、深く息を吐いた。
その胸の奥で、またひとつ覚悟が結ばれる。
導き手、守り手、そして冒険者たち。
それぞれの使命を胸に、五組の光が霧の大地へと散っていった――。




