第81話 「風を掴む者」
谷の縁に立ち、リアンは身を乗り出すようにして眼下を覗き込んだ。
切り立つ岩肌は、まるで大地そのものが裂けたかのように深く刻まれており、底は乳白の靄に覆われてほとんど見えない。だが、目を凝らせば壁面に点々と規則正しい影が並んでいるのがわかった。
「……杭だな」
リアンは低く呟いた。
「谷の壁に打ち込んで、階段みたいに降りてるんだ。冒険者たちは、こうして下まで行こうとしたんだろう」
風が唸りをあげて吹き抜け、衣の裾を荒々しく翻す。
サラは銀の髪を手で押さえながら谷を覗き込み、感心したように目を細めた。
「……そこまでやるなんて、すごい根性ね」
そう言いながら、口元を緩め、わざと軽口を叩く。
「でもさ、落ちたら一瞬で着くのに」
「えっ、落ちるって……!」
リアンは思わず振り返り、目を見開いた。
サラは楽しげに肩をすくめ、谷の底を指差す。
「だって、見なさいよ」
リアンは目を細め、指の先を追った。靄の向こう――谷の中腹を、黒い影がゆらりと漂っている。広げた翼は人の背丈ほどもあり、音もなく旋回している。飛行系の魔物だとすぐに分かった。
「……なるほど」
リアンは低く唸るように呟いた。
「でしょ?」
サラは片眉を上げ、勝ち誇ったように笑った。
「あんな足場のないところで襲われたら、落ちるに決まってるじゃない。だったら最初から落ちた方が早いのよ」
「いや、落ちたら死ぬから!」
リアンは慌てて突っ込むが、サラは微塵も動じない。
「大丈夫よ。リアンだって風の紋章を持ってるんだから。落下を制御して速度を殺せばいいじゃない」
さらりと言い放つその口調は、まるで当たり前のことを告げるようだった。
「そんなの、まだ使いこなせてないよ……」
リアンは額に手を当て、呻くように答える。
サラはふっと肩を落とし、わざとらしく大きなため息をついた。
「仕方ないわねぇ」
けれど、その横顔には明らかに楽しげな光が宿っていた。
「待て、待てサラ。段取りを――」
「はい段取り。私が横、あんたが前。落ちたら飛ぶ。以上」
「雑すぎる!」
「命綱は私。」
谷の縁に立つ二人を、強い風が容赦なく煽っている。岩壁の底から吹き上がる風は、深淵の呻きのように低く唸り、二人の体を押し出すように揺らした。
「……補助してあげるから。行くわよ」
サラがそう告げた瞬間、空気が震え、二羽の幻鳥がふわりと姿を現した。
一羽は銀に輝くツバメ。もう一羽は炎のように紅い鳥。
どちらも現実の鳥ではなく、光を宿した幻影のように揺らめき、二人の周囲を円を描くように舞い始めた。
「ちょ、ちょっと本気で行くのか!?」
リアンが言葉を発するより早く、サラは彼の手をぎゅっと握り、にこっと無邪気に笑みを浮かべる。
その笑顔に、嫌な予感が背筋を走った。
「まさか……!」
気づいた時にはもう遅かった。
サラはためらいもなく身を躍らせ、リアンを巻き込むようにして谷底へと飛び込んでいた。
世界が逆さに翻り、足場が一瞬で遠ざかる。
頭から真っ逆さまに落ちていく二人を、銀と紅の幻鳥が取り巻き、風切り音が耳を裂いていく。
「う、うわあああっ!!」
胃が浮き上がり、心臓が喉を突き破りそうな感覚。恐怖に視界が滲み、頬を一筋の涙が伝った。
「楽しいでしょ?」
風に髪をなびかせながら、サラは笑う。
「楽しくないってば!!」
必死の叫びは風にかき消され、幻鳥の羽ばたきに飲み込まれていった。
「リアン、風の紋章に意識を集中して。……星を映す湖のこと、覚えてる?」
サラは横目に彼を見て、声を少しだけ落とす。
「夜、湖面の上に――私がいたこと」
胸の奥がどくんと脈打つ。
夜の湖面に立つサラの姿。水面を渡ったあの風の記憶。――確かに、あの時、サラは風を纏っていた。
「風を全身に纏わせて、流れを読むのよ。重心の下から風を噴き上げて、環を結ぶイメージで!」
「い、イメージって言われても――!」
「大丈夫。できる。私が手を離さない」
耳を裂くような風音の渦の中で、リアンは必死に意識を研ぎ澄ませていた。
身体を飲み込もうとする落下の圧力に抗いながら、胸の奥でひたすら風の感触を探る。足元を駆け抜ける空気の奔流――その流れをどうにか掴もうと、心臓の鼓動と重ねるように紋章の輝きを呼び覚ます。
「……風よ……!」
左手の甲に刻まれた紋章が淡く光を帯び、肌を撫でていた空気の質が変わる。
ただ通り過ぎていた風が絡み合い、渦を巻くように身体の周囲を巡り始めた。落下の速度はまだ速い――だが、それでも確かに応じてくれる気配があった。
「そう、それよ!」
隣で同じく落下しているサラが、唇を弾けさせるように叫んだ。
「もっと全身に纏わせなさい! 下へ押さえ込むんじゃなくて、流れを作るの。……循環させるイメージよ!」
声は風に削がれながらも、真っ直ぐに胸へ突き刺さった。
(循環……風を……繋げろ……!)
思考と同時に、全身を撫でる空気が渦を描き、下方から押し上げるような抵抗が生まれる。
胃を突き上げていた浮遊感がわずかに和らぎ、身体がふっと軽く支えられるような錯覚に包まれた。
「……っ!」
リアンの目が大きく見開かれる。速度が――確かに、緩んでいる。
周囲を、銀のツバメと紅い鳥の幻影が舞う。光を孕んだ羽ばたきは風の流れを導き、二人の落下を包み込むように軌道を整えていく。渦が強まり、暴力的な落下は滑らかな滑降へと姿を変えた。
サラが振り返り、風に髪をなびかせながらにかっと笑った。
「できたじゃない! その調子よ!」
「……くっ……まだ……安定しない……!」
「大丈夫。私がいる」
サラは強く握ったリアンの手にさらに力を込め、声を風へ叩きつけるように響かせた。
「落ちるんじゃない――飛ぶのよ!」
その一言が胸の奥に突き刺さった瞬間、風は応えるように強さを増す。
リアンの身体を包む渦が膨らみ、落下は確かな制御のもと、滑らかに緩んでいった。
轟音は遠ざかり、衣のざわめきだけが残る。制御は――効いている。
リアンは荒い呼吸を押し殺し、必死に紋章を操りながら、ちらと周囲を見渡した。
紅い鳥が先導するように前方を翔け、身そのものが炎の灯火のように輝いて闇を切り裂いていた。その光が岩肌を舐めるように走り、谷の壁面に刻まれた深い傷跡や削れ跡を浮かび上がらせる。冷えた石の影は長く引き延ばされ、谷そのものが巨大な墓標のように思えてならなかった。
銀のツバメは二人の周囲を縦横に駆け抜ける。羽ばたきに伴い、鋭い閃光が刃のように広がり、黒い霧の中から迫る影を次々と切り裂いていった。甲高い悲鳴を上げた魔物たちは霧に飲み込まれるように消え去る。
――護られている。サラの横顔へ視線が戻る。恐怖に圧されていた心に、かすかな余裕が差し込んだ。
だが、その視線の先に映った光景が、再び胸を締めつけた。
岩壁に打ち込まれた無数の杭。その一本一本に、命尽きた者たちが無惨に引っかかっている。鎧の破片が無造作にぶら下がり、白骨化した腕が虚空を掴むように突き出ている。かつては仲間と共に挑んだ者たち――だが今はただ、谷が呑み込んだ犠牲として晒されていた。
「……やっぱり、帰ってこられなかった人がいる」
リアンの喉が乾いた音を立てる。
「ここで、終わったんだ……」
「目を逸らさない」
サラは短く言い、視線だけを彼に寄越す。
「見るの。受け取って、それでも進む。――導き手でしょ?」
リアンの胸がひやりと凍りつく。それでも、風の循環は崩さないように牙を食いしばる。
「……どう? 落ち着いた?」
風を裂く音の中で、サラの声が響いた。金の瞳が闇を貫くようにリアンを見据え、その口元には淡い笑みが浮かんでいる。
「人はね、いろんな出来事に巻き込まれると、すぐに周りが見えなくなるの。……だからこそ、慣れないとダメ。戻るのが遅ければ、それだけで命取りになるんだから」
「戻る……」
「うん。恐怖から、興奮から、自分へ。戻る練習」
その言葉は淡々としているのに、不思議と冷たさではなく確かな現実味を帯びていた。
リアンは唇を噛み、必死に風の循環を保ちながら小さく頷いた。
「……わかったよ」
「いい子。――そのまま、靄の層に入るわ。呼吸、細く」
「了解」
落下はまだ終わらない。谷の深淵はなお底を見せず、靄の奥へと誘い込む。
だが恐怖に呑まれるばかりだった視界に、今は確かに周囲の景色が映り始めていた。
銀と紅の幻鳥が先へ導き、二人の影は靄に溶け、さらに深く――谷の心臓へと滑り込んでいく。
靄の層が音を奪い、色だけが濃くなる。




