第六話 守り手の約束
朝霧が宿の窓硝子を曇らせていた。
《銀のともし火亭》の一室、リアンは静かに目を開ける。
全身にじんわりと残る温もりと、何か胸に引っかかるような違和感。
それは、夢のせいだった。
――赤い髪の少女が、こちらを見ていた。
琥珀色の瞳、口元に浮かぶ笑み、誰かを探していたような表情。
それなのに、その顔は徐々にずれ、歪み、やがて引き裂かれるように崩れ去った。
最後に浮かんだのは、まるで“サラ”のような顔だった。けれど違う。髪も瞳も違っていた。
リアンは寝台の縁に腰掛け、深く息を吐いた。
「……なんなんだ、あの夢」
夢の中に滲む“誰かの記憶”に似た感触が、彼をしばらく動かせなかった。
◆
街の空には薄雲がたなびき、夏の熱気が石畳に残る午後。リアンは一人、市街の東にある《紋章素材市》へと向かっていた。
目指すは、先の魔物討伐で損耗した素材の補填、そして新たな紋章構築の可能性を模索するための素材探しだ。
「……さて、どこから見ていくか」
石造りのアーチをくぐると、風の通り道のように長く続く路地には、色とりどりの布で彩られた屋台が並び、人々の声と匂いと魔力が混ざり合っていた。
《紋章素材市》──魔物の鱗や角、古代遺跡から発掘された金属片、元素の結晶、さらには希少種の骨や霊木の枝まで、あらゆる素材が露店に無造作に積まれている。
「……風属性の欠片、これは使えるか?」
リアンが目を留めたのは、ほのかに淡青色の光を放つ枝の一片だった。
「お兄さん、そっちは霊風樹の枝から削った高純度のやつだよ。ちょい高いけど、間違いないって!」
店主らしき中年の男が、得意げに素材の説明を始める。
「霊風樹は風精霊が好んで住み着くって言われててね。この枝は、今朝届いたばっかの極上品さ。風属性の同調率は抜群。紋章の導線にも向いてるよ」
「……ふむ、確かに魂の流れが滑らかだ」
リアンは手に取って確かめ、数秒ほど霊的共鳴を確認してから購入を決めた。値は張ったが、その価値はあると判断できた。
さらに歩みを進め、火属性の礫状結晶や、小型魔獣の爪、水晶化した瘴気花の花弁など、数点の素材を吟味して買い集める。
そして、道の脇に腰を下ろし、旅装の中から《紋章書》を取り出した。
その古風な装丁の書物は、彼の「記録」であり「工房」でもある。
「さて……」
静かにページを開く。素材登録専用のページへと指を滑らせると、微かな魔力が滲み出し、収納結界が淡く光を灯した。
リアンは購入した素材を一つずつ、霊的な固定結晶の上に置いてゆく。
火の結晶は赤い光を、霊風樹の枝は風の流れを視覚的に表現しながら、ページへと吸い込まれるように記録された。
収納と同時に、自動的に意匠構成の基本情報が整理され、隣接ページに描写されていく。精度・霊力・属性反応値──すべてが、紋章構築の“地図”となる。
「これで次の意匠構築の幅が広がるな……」
ひと通りの買い物と登録作業を終えたリアンは、街の喧騒を後にし、《銀のともし火亭》へと戻った。
翌日、ギルドの掲示板前に立つリアン。
街周辺で瘴気獣の目撃情報が相次ぎ、掃討依頼がいくつか貼り出されていた。
素材収集のついでに、と一件に目を留めた時だった。
「……また出るのかい?」
振り向けば、銀髪の少女――サラがいた。陽差しを背に受けて、金の瞳が冴えている。
「……また付き合うのか?」
「うん。面白そうだしね。あと、君ひとりだとちょっと心配だから」
おどけた調子の中に、どこか真剣な響きがあった。
リアンは、微笑みながらうなずいた。
その時だった。
ギルドの奥から、教会の使者たちが現れる。
白を基調とした装束に、金銀の刺繍。間違いなく紋章教会所属の者たちだ。
そして、その中に見慣れた顔が並んでいた。
《白翼の導き手》セラフィナ・ユール。
《暁鐘の祈り手》マリア・セフィリカ。
《灰眼の鎮魂者》イオ・クローヴ。
そして――燃えるような赤髪、琥珀の瞳の少女。
「……!」
リアンは、夢の中の少女と目の前の人物を重ねていた。
「ルディア・フェルシア。導き手のひとりよ」
マリアが彼に微笑みかける。
ルディアは元気な声で、「よっ」と手を振った。
彼らの周囲には、それぞれの守り手たちも控えていた。
「街に来てたんだ? あたしらは今から南にある瘴気の多い戦跡に向かうんだ」
リアンが言葉を返そうとしたその時――
「君が……例の、単独行動の浄化者か?」
イオがやや冷たい口調で口を開いた。
「……リアン。紋章師で、魂の導き手でもある」
名乗ると、イオは眉をひそめる。
「導き手を名乗るなら、せめて集団行動に従ってほしいものだ。浄化は単独では範囲も足りない。足手まといになる」
その言葉に、周囲が微かにざわめいた。セラフィナやルディアが宥めるような視線を向けるが、イオは視線を逸らさない。
リアンが何か返そうとしたとき、横から声が割って入った。
「──あんた、ちょっと言いすぎじゃない?」
金色の瞳が鋭く輝く。サラだった。
「足手まといとか言う前に、まず話を聞いたら? あんたが魂を鎮めるのは立派だと思うよ。でも、魂に触れる力って、そんなに一面的なもんじゃないでしょ」
イオが静かに睨み返す。「君は……?」
「サラ=レイヴェル。通り名は……まあ、知ってる人は知ってるよ。『死を運ぶ鳥』ってやつ」
一瞬、空気が凍った。
その名は、この時代の戦場で名を馳せる、傭兵であり剣士。その存在自体がある種の伝説になっていた。
「このリアンの守り手だよ」
そう、あっさりと彼女は言った。
「えっ──」リアンは思わず声を上げた。「ちょっと待て、それは……」
「……違うの?」
いたずらっぽく、けれどどこか寂しげな笑みが浮かぶ。
リアンは言葉を失った。
かつて、自分には守り手がいた。もういない。自分のせいで失った。だからこそ、紋章師としての力をさらに高め、一人で歩こうと決めたのに──
「彼に必要なのは、力じゃない。背中を預けられる誰かだと思うんだよね。で、私がそうなる。文句ある?」
「……強引だな、本当に」
呆れたように、しかし心のどこかが温かくなるのを感じながら、リアンは息をついた。
「……もう、言っちゃったなら、仕方ないか」
笑いが漏れる。ルディアが小さく拍手をするように笑い、セラフィナは静かに頷き、マリアは微笑んだ。
その日から、サラ=レイヴェルは正式にリアンの守り手として登録されることとなった。
それから数日後。
教会支社の奥、浄化任務の準備室にて。
導き手たちが向かうのは、南部に広がる旧戦争跡地。かつて激しい戦が繰り広げられ、多くの魂が彷徨う地。
「サラの戦闘能力は記録にも残っている。同行に異議はない」セラフィナがそう言い、リアンの目を見つめる。
「君も、来るか?」
リアンは迷ったが──その時、隣で大剣を背にしたサラが笑っていた。
「どうせ断ってもついて行くしね?」
「……わかった。行くよ」
覚悟を決めた。魂の導き手として、そして、守り手と共に歩むという決意を胸に──。