第5話 「月下の邂逅」
街道を北へ戻る足を進めていたリアンは、ふいに立ち止まった。
――冷たい風に混じって、かすかな気配が胸を掠めたのだ。
(……またか。魂の声)
視線を巡らせる。崩れた石垣の影、折れた槍が突き刺さる草原。荒れ果てた戦の残滓の中に、淡い光の揺らめきが漂っていた。
人影のようで、人影ではない。けれど確かに「助けを求めている」ことが伝わってくる。
リアンは唇を引き結び、ゆるりと歩み寄った。
(やはり、瘴気の影響……。還れずに彷徨う魂が増えている)
足を止め、耳を澄ます。
風の流れは穏やか。草を渡る虫の音が途切れず続く。――重い気配はない。魔物の影も見えない。
短く息を吐き、心を決める。
「……見過ごすわけにはいかない」
岩壁を背に取り、退路を確保する。短剣を左に置き、右手を静かに掲げる。
――《箱舟の紋章》が淡く光り、夜明けの残滓のようなひと筋の輝きが広がった。
寄り集まる灯。
叫び、呻き、絶望、懺悔。
生きた証が、胸に雪崩れ込んでくる。
喉を焼く血の味。
振り下ろす刃の重み。
誰かの名を呼ぶ声は途切れ、ただ泥に沈んでいく。
(……これが、この人の最後……)
リアンの背筋を戦慄が走る。心臓が握り潰されるように痛む。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
「……この痛みも、恐怖も、すべて“生きた証”だ。
忘れない。俺が導く限り、誰一人として――無駄にはしない」
言葉に呼応するように、魂は安らぎの光となり、舟の中へと吸い込まれていった。
――その時だった。
空気が裂けた。
鋭い瘴気の匂いが、肺を焼くように広がる。
影が飛びかかる。朽ちた鎧の残骸をまとい、四肢だけが獣と化した魔物――戦で斃れた兵が歪んだ姿のまま蘇ったような化け物が、視界を覆った。
「――っ!」
反応が遅れる。右手はまだ光に塞がれている。逃げ場は――ない。
瞬間。
銀光が奔った。
羽音すらなく、夜気を切り裂く閃光。
魔物の巨体が断ち割られ、瘴気の塵となって四散した。
リアンの瞳に映ったのは――翼。
月光を纏うように現れた一羽のツバメ。
銀糸のような羽根を広げ、残滓を切り刻みながら舞う。
幻想的なその姿は、まるで現実と夢の境界から零れ落ちた存在のようだった。
「……銀の、ツバメ……?」
リアンは息を呑む。
ツバメはただ一度、空を旋回し、瘴気を払うように羽ばたくと――静かに消えていった。
足もとに落ちた銀の羽根が、光の粒となって霧散する。
彼はしばしその場に立ち尽くし、震えの残る右手を見下ろした。
(……銀のツバメ。あれは――何だったんだ)
風が揺れる。
その中に、異質な足音が混じった。草を踏みしめる確かな重み。ためらいのない歩調。
リアンが顔を上げると、月明かりを背に一つの影が立っていた。
銀糸のような髪が風にほどけ、炎を閉じ込めたような金の瞳が、まっすぐ彼を射抜く。
「……危なっかしいわね、あんた」
低く、しかしよく通る声。
肩に担がれた大剣が月を反射し、刃に冷たい光を宿していた。
その女――サラは、わずかに口元を歪めて笑みを浮かべた。
リアンは息を呑む。足もとでは、残り香のように銀の羽根が舞い、夜気へ溶けていった。
「魂を導くのは立派よ。でも――」
サラは一歩近づき、大剣の切っ先を地に突き立てる。硬い音が静寂を破り、緊張を張り詰めた。
「導き手が死んだら、誰があんたを還してやるの?」
その声音には皮肉が混じっていたが、瞳に宿る光は揺るがない強さだった。
リアンは静かに吐息を落とし、サラを正面から見据える。
「……なんで、ここにいる」
問いかけは低く抑えられていたが、その声音には戸惑いと苛立ちが混じっていた。
サラは片眉を上げ、肩をすくめる。
「それはこっちのセリフよ。昨日だって危なっかしいとこ助けたばかりじゃない」
鋭い金の瞳が、真っ直ぐにリアンを射抜く。
「なのに……また一人で危ない真似して。守り手がいない導き手が、こんな場所で何してるの?」
リアンは言葉を失い、拳を強く握りしめた。
沈黙を見て取ったサラは、溜息混じりに首を振る。
「まぁ、詳しく聞くつもりはないけど……せめて冒険者ぐらい雇いなさいよ。そうすれば、あんたが死にかけることも少しは減るでしょ」
彼女の声音は皮肉めいていたが、その奥底には確かな憂慮が滲んでいた。
リアンは目を伏せ、小さく呟く。
「……いらない。俺は、一人でやる」
その即答に、サラの口元が冷ややかに歪んだ。
「ほんと、頑固。強がりもここまできたら病気ね」
夜風が吹き抜け、二人の間にわずかな沈黙が落ちる。
しかしその沈黙は、剣よりも鋭い緊張を孕んでいた。
サラは肩に担いだ大剣を軽く叩き、空を見上げた。
「……そんなに一人で抱え込んで、どこまで持つつもりなの」
声は淡々としていたが、月光に照らされた横顔には、ほんの一瞬だけ影が走った。
胸の奥にあるのは、呆れでも嘲りでもなく――放っておけば本当に消えてしまいそうな導き手を前にした、言葉にならない苛立ちと不安。
サラは小さく首を振り、再び彼を見据える。
「まぁいいわ。あんたがそう言うなら勝手にしなさい。ただし――」
金の瞳が細められ、鋭さを帯びる。
「次に死にかけたら、今度は飯じゃ済まないからね」
リアンは短く息を吐き、視線を街道の先へ戻した。
「……もう戻る。魂の声も、今は収まった」
その声音には疲労と決意が混じっていた。
サラは肩をすくめ、大剣を担ぎ直す。
「へえ。じゃあ、あたしもついでに街まで行くわ」
リアンは振り返り、淡々と返す。
「……好きにしろ」
「最初からそのつもり」
サラはあっけらかんと答え、靴音も軽やかに彼の隣へ歩みを揃えた。
街道を進む二人の頭上に、月が冷たく光を落とす。
踏みしめる土の音と、風に混じる虫の声――静かな夜気の中に、張り詰めた沈黙が漂っていた。
その空気を破ったのは、隣を歩く女の軽やかな声だった。
「それと――助けてあげたんだから、ご飯くらい奢りなさいよ」
にやりと月明かりに照らされた口元が歪む。金の瞳には、半ば冗談めいた光が揺れている。
リアンは一瞬だけ彼女を見やり、静かに吐息をこぼした。
「……またそれか」
だが声には苛立ちではなく、かすかな諦めと――わずかな温もりが滲んでいた。
「わかったよ。どうせ一人で食べるよりは、誰かと分けた方が……少しはましだからな」
サラは愉快そうに肩を揺らし、笑みを深める。
「ふふ、そうこなくちゃ。期待してるわよ、“導き手さん”」
軽口の裏に潜む緊張は消えてはいない。
それでも夜道を並んで歩く二人の影は、月光の下で重なり合い、静かに街へと延びていった。
やがて遠くに浮かび上がる、灰色の石壁。
ヴェルダ・クローネ――瘴気のただ中で人が暮らす街。
その存在は、人々にとって避けられぬ場所だった。




