↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『魂を導く紋章師』  作者: nukoto


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/309

第51話 「光を映さぬ水面で」

 朝の光はまだ淡く、村の屋根を越えるほどには昇っていなかった。


しんと静まった空気の中、ひとり、サラが宿の前庭に立っていた。

霞のかかった空を背景に、銀の髪が微かに揺れ、陽の兆しを柔らかく受け止めている。

両腕をゆるく組み、遠く山の端を見つめるその横顔には、言葉にできない想いがゆっくりと溶けていた。


(……あのときも、こんな朝だった気がする)


まだ、この地が“村”と呼ばれる前。

名前も境界も曖昧な、開拓途上の地だった頃。

草を刈り、粗末な柵を立て、焚き火の煙にむせびながら、

それでも笑い合っていた、小さな家族がいた。


グレン。

その隣に寄り添う妻。

無邪気な笑顔を振りまいていた、あの子ども。

そしてその傍らに立ち、ただ剣を携えて見守っていた、自分。


(……あの頃は、私は何も背負ってなかった)


命令ではなく、責任でもなく。

ただ、守ると決めたから剣を抜き、何かを与えるでもなく、ただ傍にいた。

今とはまるで違う、軽さ。

けれどその時間は、確かに自分の中に残っている。


草を踏む小さな音が、後ろから近づく。

振り返るより先に、柔らかな声が届いた。


「……おはよう、サラ」


リアンだった。寝起きの前髪を手で整えながら、小さな荷袋を提げて立っている。


「もう起きてたんだね」


サラは小さく笑って、空へ視線を戻す。

「……ええ。なんとなく、ね。今日は、ちゃんと見ておきたい気がしたのよ」


「湖を?」


「うん。あの人たちが……大切にしてた場所だから」


リアンは彼女の隣に立ち、同じ方角を見る。

冷えた朝露の匂いが肺に落ちて、胸の中のざわめきを静かに撫でていった。


「……その人たちに、何か伝えたいことがあるの?」


ぽつりとした問い。

サラはわずかに目を伏せ、吐息を細くした。


「さあ。……伝えるべき言葉があるのかどうかも、正直わからないの。ただ……会えたらいいなって」


「会えるよ。……絆って、そう簡単には消えないから」


導き手としての言葉。けれどそれは、リアン自身の“願い”にも似ていた。

サラは頬を緩める。


「ふふ、導き手ってより……あんた自身の願いみたいね」


「……たぶん、そうかもしれない。

 導くたびに、俺自身も誰かに会いたくなるから」


「……その気持ち、忘れないで。導くたびにね」


サラの声は穏やかで、どこか祈りにも似ていた。


ふたりの影が、地面に細く伸び始める。

朝日が屋根越しにこぼれて、村の端を金色に染めた。


「……そろそろ、行こうか」


「うん」


言葉はそれだけで足りた。

並んだ背中が、村の外れへとゆっくり歩き出す。


向かう先には、まだ見ぬ湖――

かつて満天の星を水面に映したとされる場所が、静かに彼らを待っていた。


 


森道へ入ると、土はじっとりと湿り、息を吸うたび肺の奥に澱が触れるようだった。

葉の天蓋に遮られて朝は届かず、洩れる光さえくすんで見える。

言葉は少ない。けれど、歩幅と呼吸は揃っている。


――緊張。


剣を抜く直前の、張りつくような静けさ。

(……いる)

ふたりは同時に、まだ見えない“何か”の位置を意識で指差した。


その気配は、湖まであと少しという地点で、形になる。


「来るよ――!」


サラの声が風を裂いた瞬間、木陰から四つ脚の魔物が飛び出す。

毛並みは黒ずみ、皮膚の上に黒紫の靄が膜のようにまとわり、脈打つたび震えていた。

だが――その目だけは、まだ完全には濁りきっていない。怯えと本能、暴走と理性の狭間の光。


 風が渦を巻いた。

リアンの右手に刻まれた紋章が淡く光り、虚空を切り裂くように放たれた一閃が、瘴気を纏う魔物を貫いた。

 裂け目を走る風の軌跡が、音もなく世界を断ち――その体は霧散していく。


 残されたのは、地に伏したひとつの亡骸だけだった。


 リアンは静かに息を吐き、右手を下ろした。

 「……瘴気に取り込まれてた。負の感情に縛られて、また誰かを汚す側になってた」


 サラはわずかに目を細め、肩越しに地面を見つめる。

 「……生きても、死んでも、縛られるなんてね。――やるせないわ」


 風がまだ、名残のように頬を撫でる。

 リアンは右手の紋章に視線を落とし、掌を胸の前に重ねた。

 「だから、導かなきゃ。終わらせなきゃ、この“輪”は切れない」


 サラはその横顔を見つめた。

 刃を収めた直後の静けさ――けれど、その瞳にはまだ戦いの余熱と祈りが同居していた。


 やがて風が通り抜け、瘴気の残り香を攫っていく。

 陽光が差し込み、亡骸の影がゆっくりと淡く溶けていった。


 ――負の連鎖に呑まれる前に、誰かが手を伸ばさなければ。

 そう思うほどに、リアンの瞳は澄み、静かに燃えていた。




進むほどに、喉の奥へ小さな苦味が貼りつく。

鳥声は途絶え、風も止む。


――そして、木々の隙間が開いた瞬間、世界は一変した。


それが、“星を映す湖”の今の姿だった。


一面に広がる水面は、空を映していない。

濁りきった灰が、陽をも拒み、沈黙のまま動かない。

まるで夜そのものが湖に沈んだような、光なき色。


サラは足を止め、見据える。

「……信じられないでしょ」


かすかに震える声。押さえ込んだ悲しみが、言葉の縁から滲む。

「昔は、こんなんじゃなかったの。……本当にね、とても、とても、綺麗な場所だったのよ」


リアンは黙って隣に立ち、続きを待つ。

サラは遠い夜を見た。


「夜になると、空が全部、湖に降りてきて。

星がね、水面でゆらゆら揺れるの。……グレンたちは『宝物にする』って言ってた。

“みんなに見せたい”って、笑ってたのよ」


風――かつて風だったものが、サラの髪をそっと撫でて過ぎる。


ぐう、と地の底から軋む音。

水面は揺れない。泡も立たない。

だが、空気が――“割れた”。


湖の中央、視界の奥。黒紫の瘴気が濃く凝り、塊を成す。

そこに浮く、幾つもの“顔”の影。叫んでいるのか、泣いているのか、呪っているのか。

全てが渦になり、存在そのものが悲鳴だ。


「……魂が縛られてる」


リアンの声は、押し出すように低い。

未練も怒りも、“誰のものか”わからぬまま、ただそこに囚われ続けている。


「――来る!」


塊がうねり、一部が腕のように変じて地を叩く。

サラは即応、反転の回転蹴りで迎撃。

リアンは後方から風を通し、走る。


「リアン、行くわよ!」


「いこう!」


静謐だった湖畔が、怨念と風と炎の交差する戦場へ変わる。


瘴気の奥から、かすれた声が零れた。


《……まも……る……こども……》


一瞬、世界が凪ぐ。

湿った空気が止まり、木々のざわめきが遠ざかった。


《……みたくない……》


泣き声のような濁りが、耳ではなく肌の内側へ沈み込む。

拒絶と苦しみが混ざった、かすかな震え。


《……やめて……》


懇願に反して、塊はためらわない。

黒紫が収束し、腕の突起が伸びる。泥をえぐる衝撃、鉄と土の匂い。


「……容赦ないわね」


サラは片目を細め、肩越しにリアンへ。

「いい機会よ。あんたの“ちょうどいい練習”になる」


「……分かった。やってみる」


リアンは左手の《風の紋章》へ意識を沈め、淡い緑光が手の甲に滲む。

サラは死角へ回り込み、背を護りつつ機を待つ。


左右から襲いかかる腕。

リアンは腰を落として身を捻り、横一文字に切り払う。

風刃が表層を裂き、黒い靄が飛ぶ。

同時に背後からサラの蹴り。重く、芯を叩く音。塊がわずかによろめく。


「……悪くない動きね」


短い評価が、緊張を割って落ちる。

リアンは息を整えず、続けて踏み込む――


その刹那、黒の狭間で、微かな光が瞬いた。

リアンの視線が止まる。


渦の深み、濁りに沈みながら、それでも線を結ぶもの。

紋章。

星のきらめきを封じたような意匠。波間の光のように揺れ、今にも闇に呑まれそうだ。


(……まだ、消えてはいない)


リアンは柄を握り直し、再び前へ。

打ち合いの反動で間合いを切り、荒くなりかけた呼吸を押し戻す。


「サラ……あの紋章、心当たりはあるか?」


声は平静。だが瞳の底に、急く焦りが灯る。

サラは敵から目を離さず、短く首を振った。


「……いいえ。見覚えはないわ」


直後、薙ぎ払う黒腕。

リアンは身をひねって軌道を外すも、肩をかすめる痛みが走る。


「しっかりしなさい!」


鋭い叱声。だが奥には、確かな支えの熱。

リアンは奥歯を噛み、構え直す――その時。


視界の縁が波打ち、輪郭がぼやける。

胸の奥へ、見知らぬ――いや、どこか知っている感情が押し寄せた。

水底へ引かれるような圧迫。鼓動だけが大きく響く。


――流れ込む。


草を刈る音。

陽に焼けた土の匂い。

粗末な柵のざらつきが掌に残る。

焚き火の煙にむせながら、それでも笑う声。


小さな家族。

汗を光らせ働く男。

隣で穏やかに寄り添う女。

両腕を伸ばし、笑う子ども。


確かにあった温もり。

だが、光景の端から黒紫の影がじわじわ侵し、引き裂こうとする。


「――リアン!」


現実へ引き戻す刃のような声。

黒い腕が覆いかぶさる。足が、地面に縫い付けられたみたいに重い。


熱風が頬を撫で、炎の弧が黒腕をはじく。土が爆ぜ、湿った泥と鉄の匂いが鼻腔を満たした。


「……目を覚ましなさい!」


サラだ。踏み込みの勢いを殺さず牽制し、リアンとの間に最小の距離を作る。

その顔に苛立ちの影、しかし底には隠しきれない心配がある。


「今のあんた、完全に隙だらけよ!」


言葉が胸に突き刺さる。リアンは息を呑み、震える指を握り直す――


その瞬間。

胸元で、小さな脈動が生まれた。

二人の首元で揺れる“共鳴紋章”のペンダント。

銀と紅の翼が小舟を包む意匠が、淡く、確かな光を放つ。


光は一度、脈打つように強まり――

視界を、薄く柔らかく染めていった。


 


――サラの目の奥へ、映像が差し込む。


草原を渡る風。頬を撫でる温度。

焚き火の煙の匂いが胸を満たす。

遠くで笑う声、応える穏やかな声。

額に汗を光らせる男。寄り添う女。

惜しげなく笑顔を振りまく、小さな子ども。


一瞬。なのに、指先で触れられるほど鮮烈な温度。

同時に、画面の端を黒紫の影が静かに侵していく。


サラは息を呑み、リアンを見る。

彼の瞳もまた驚きと困惑に揺れ、唇がわずかに開いたまま、息を忘れていた。


湖畔の空気はなお重く、瘴気の塊は再び蠢く。

――けれど、ふたりの間には刹那、戦場とは別の時間が確かに流れた。


「……見えたわね」

サラが低く、確かめるように囁く。


「うん。……“誰かの”記憶だ。まだ、湖の底に残ってる」


「なら――取り戻すわよ」


サラは顎を引き、前を見据える。

リアンは短く頷いた。呼吸が揃う。足もとに力が戻る。


「行こう、サラ」


「ええ。――守るわ」


ふたりは、同時に踏み出した。


――その瞬間、景色が“反転”した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。