第四話 導き手と“死を運ぶ鳥”
薄明の光が高級宿《銀のともし火亭》の窓辺を染めていた。
リアンは静かに目を覚まし、天井を見上げた。癒し草と香浴の香りがまだ微かに残っている。温かい布団の感触、結界の静寂──すべてが、昨夜の現実を肯定するようだった。
身を起こし、風の紋章に触れる。淡く揺らめいた光は、今日も確かに彼に寄り添っていた。
準備を整え、受付へ。ヴェイルガードの名を出すと、彼らは朝早くに《灰銀の矛》へ向かったと告げられる。感謝を伝えたい思いが、足を自然と街へ向かわせた。
朝のヴェルダ・クローネは賑わいを見せていた。風渡りの露店街では商人たちが声を張り、焼き果実や香草茶の香りが漂っている。石畳を歩く足取りは軽く、旅人たちの笑い声が街の活気を後押ししていた。
中央広場の「大狼の像」を過ぎたあたりで、リアンの足が不意に止まる。
──赤。
鮮烈な赤髪、血のような瞳。すれ違いざま、視界の端に映った女の姿に、胸がざわついた。だが彼女の存在は風のようにすれ違い、リアンは振り返らなかった。
女は立ち止まり、小さく呟く。
「見つけた……ようやく、ね」
その声は誰にも届かぬほどに微かで、しかし確かに確信を帯びていた。
そしてその様子を、屋根の上から見下ろす影があった。古びた鐘楼の上。漆黒の外套を翻し、無言で街とリアンを見つめる仮面の人物。風が吹き、影だけがそこに残った。
冒険者ギルド《灰銀の矛》。石造りの堂々たる本部の中、ヴェイルガードの面々がそれぞれの準備に取りかかっていた。
「……リアン!」ニコが最初に気づいて手を振る。
「疲れは取れたか?」ブラムが頷き、リアンの肩を軽く叩く。
「ええ。皆さんには、本当に感謝しています」
リアンは深く頭を下げた。
「君たちがいなければ、俺は──風の中に消えていたかもしれない」
「礼なんていいっての」カイが肩をすくめる。「放っておけないだけさ」
「でもシチューと麦酒分くらいは返してもらうけどね」リゼが笑い、ミーナもそれに続くように微笑む。
「これからどうするの?」とミーナが尋ねると、リアンは頷いた。
「紋章教会で、紋章書の更新と素材の申請を。その後、指定された魔物の素材回収を」
「教会支社は聖印広場の向かいだ。手続きの前に、街を回るといいわ。案外、心を整えるには向いてるから」
仲間の温かさを背に、リアンは再び街へと出た。
紋章教会ヴェルダ・クローネ支社は、大理石と魔術刻印で構成された威厳ある建物だった。
受付にて、リアンは新たな紋章素材──「風晶片」と「ミストコア」の組み合わせによる感知型風紋章の申請を提出する。教会職員が淡々と手続きを進め、やがて新規意匠として紋章書へ記録される。
「確認:魂の揺らぎ、なし。魔術構成、安定。更新完了。認定は灰銀の矛に報告されます」
リアンは一礼し、報告書を受け取った。そのまま、素材回収依頼の通知を確認する。北東の丘陵地帯で瘴気を帯びた魔物の出現──その個体の素材と魂の浄化が目的と記されていた。
ギルドに戻ると、入口付近で突然声をかけられる。
「おーい、風紋章の兄さん。ちょっといい?」
銀髪に金の瞳。重い大剣を背負った女が、気さくに笑いかけてきた。小柄な体躯ながら、その空気はただ者ではない。
「……あなたは?」
「サラ=レイヴェル。通り名は──ま、知ってる奴は知ってる。“死を運ぶ鳥”だ」
その名に、受付がざわめく。
「本物だ……銀の鳥紋章に火の紋章、戦場の鳥だ……」
「どうして俺に声を?」
「なんとなく。興味が湧いたのさ。風の匂いが違ったからね、あんたのは」
おどけたように笑い、二人分の申請書をひょいと受付に出す。
「同行してもいいだろ? 私も退屈してたんだ」
断る理由もなく、リアンは頷いた。
丘陵地帯には瘴気がうっすらと漂い、空気が淀んでいた。
姿を現したのは、瘴気に覆われた三眼の魔獣。牙が唸り、黒い斑紋が体表を走る。
「下がってな、風くん!」
サラが地を蹴る。風の紋章が発動、身体が跳ねるように滑空し、火の鳥の意匠が紅蓮の軌跡を描いた。
風の加速と炎の衝撃が重なり、魔物は反応すらできず斬り裂かれる。
「……やるな」リアンが呟く間に、戦闘は終わっていた。
リアンは残骸に近づき、瘴気の残滓へ手をかざす。
「風よ、魂を浄め、大地に還せ」
紋章が輝き、黒い瘴気が浄化されると共に、透明な魂の粒子が空へと昇っていく。
サラはじっとその光景を見ていた。
「……やっぱり。あんた、“魂の導き手”だね?」
リアンが息をのむと、サラは静かに微笑んだ。
「噂じゃ聞いてた。けど、現物を見るのは初めてさ」
リアンの腕に触れ、紋章に指を添える。
「……懐かしい光だ。なるほど、導き手の素質、納得だよ」
数秒の沈黙。
「私、探してたものがあるんだ。けど……それが何かは、まだ言えない。けどあんたとどこかで会った気がする。……そんな気がするんだ」
そう言って、サラは背を向ける。
「またね、風紋章の兄さん」
銀髪が風にたなびき、サラはそのまま街の方へと歩いていった。
夕暮れが街を紅く染める。
リアンは《銀のともし火亭》へと戻る。背中には新たな素材と、導きのような出会いの記憶が残っていた。
部屋に入ると、風の紋章が静かに揺れている。その光は、どこか温かく──未来を告げていた。