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『魂を導く紋章師、死者の誓いを継いで世界を救う』  作者: nukoto


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第4話 「魂に安らぎを」


 重厚な扉が閉まると同時に、石造りの廊下のざわめきが遠ざかり、空気はさらに重たく沈んだ。

 リアンの靴音だけが、無機質な空間に響く。壁には紋章教会の象徴《聖環の印章》が刻まれた旗が並び、その下には記録用の石板が規則正しく設えられている。

 どれもが「記録する者」の意志を映すように、ひどく冷ややかに見えた。


 案内の紋章官に導かれ、リアンはひとつの部屋の前で足を止めた。

「――支部長がお待ちです」

 そう告げて扉が開かれる。 


 中は広間というより執務室だった。

 書架が壁を埋め尽くし、巻物や石板が幾重にも積み重ねられている。奥の机には一人の老人が座っていた。深灰の外套に白い髭。長い年月、記録を積み上げてきた者だけが持つ、落ち着きと威圧を纏っている。


「……導き手、リアン・アルステッド」

 支部長の声は低く、しかしはっきりと響いた。

 リアンは一歩進み出て、胸の前で拳を握る。

「……導き手として、この街に来た」


 支部長は深く息を吐き、鋭い目でリアンを見据えた。

「知っている。本部からの通達にも記されている。だが――」

 机に置かれた手が、静かに音を立てた。

「守り手を伴わぬ導き手など、本来あり得ぬことだ」


 その言葉に、リアンの眉がかすかに揺れる。だが声は崩れなかった。

「……必要ない。俺は一人でやれる」


 支部長の眼差しは鋭く、しかし怒気ではなく探るような色を帯びていた。

「若いな。だが忘れるな、導き手とは――浄化の最中、死者の記憶をその身に刻む存在だ。守り手は、ただ護るためだけではない。記録と観測の証人として、必ず寄り添う。それが教会の“理”だ」


 リアンは沈黙した。胸の奥に蘇るのは、かつて隣にいた人影。――血に染まり、倒れていった守り手の姿。

 握りしめた拳が震える。

「……それでも。俺は、もう誰も隣に置かない」


 その短い言葉に、支部長の瞳がわずかに陰った。

 やがて、深い皺の奥から低い声が漏れる。

「頑なだな。……だが、それもまた記録されるべき意思だろう」


 支部長は立ち上がり、机越しに歩み寄った。近くで見るその姿は、ただの老人ではなく、記録を武器に街を守ってきた者の重みをまとっていた。

「導き手リアン。お前がこの街で魂を導くのならば、我らは全てを記録する。それが務めだ。お前の歩み、選択、失敗、そして――結果までも」


 リアンは目を伏せ、一度だけ深く息を吐いた。

「……記録されるのは、構わない。だが――」

 顔を上げ、真っ直ぐに支部長を見返す。

「俺が導くのは、記録のためじゃない。縛られた魂を還すためだ。それだけは、忘れないでくれ」


 支部長はしばし黙し、その瞳に映る少年を見つめた。やがて小さく頷き、重々しく口を開く。

「いいだろう。その言葉もまた、ここに刻もう。……ならば、我らが見届けよう。導き手が、己ひとりで歩むというその道を」


 その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。重苦しい圧は消えぬまま、しかしどこか承認を含んだ空気が流れた。


 リアンはわずかに息を整え、支部長に一礼した。

(……また一歩だ。俺は、俺のやり方で歩く)


 石の扉が閉まるとき、支部長の声が背に落ちてきた。

「――魂に安らぎを」


 その言葉は、紋章教会の使者たちが常に口にする祈りだった。

 リアンは足を止めず、ただ静かに呟いた。

「……魂に、安らぎを」


 声は石壁に吸い込まれ、やがて朝の喧騒へと溶けていった。


 支部長との面会を終え、石造りの廊下を歩くリアンの足音が響く。

 重厚な扉を背にした今も、胸の奥に支部長の言葉が重く残っていた。


(……記録のためじゃない。俺は、縛られた魂を還すために歩く)


 その思いを繰り返しながら、彼は再び広間へ戻ってきた。


 受付の少女が、慌てて立ち上がり頭を下げる。

「お、お帰りなさいませ。……何か、ご用件でしょうか」


 リアンは短く息を整え、まっすぐに告げた。

「……依頼はあるか」


 少女は帳簿を開き、指先で慣れない様子ながらも頁をめくる。

 視線を走らせ、やがて小さく首を振った。

「……現在、特に導き手の方への個別依頼は届いておりません」


 リアンは眉を寄せる。

「そうか」


 言葉を切ろうとしたその時、少女は少し逡巡したのち、控えめに付け加えた。

「……ただ、近く……南部戦争跡地で定期の浄化任務が予定されています。瘴気の流れが不安定になっていて……」

 そこで言葉を止め、ちらりとリアンの姿を見やった。


 その視線に、リアンの胸がざらりと揺れる。

(……やはり、守り手のことか)


 広間の奥から、再び重い靴音が近づいた。

 現れたのは、先ほども顔を合わせたベテランの紋章官だった。深緑の外套を揺らし、厳しい眼差しを向ける。


「――南部戦跡の件なら、あなた様には関わりはありません」

 低い声が広間に落ちた。


 リアンは静かに目を向ける。

「理由を、聞いてもいいか」


 男は一歩進み、少女の前に立つ。

「守り手のいない導き手を、戦場に立たせることはできぬ。それが教会の理だ」


 その言葉には非難ではなく、冷徹な現実が込められていた。

「定期浄化は、瘴気が渦巻く危険地帯だ。導き手は浄化の最中、必ず無防備になる。……守り手を伴わぬあなた様には、依頼は届かぬ」


 リアンは小さく息を吐いた。

「……結局、そうなるか」


 男の瞳がわずかに揺れた。

「誤解するな。拒んでいるのではない。……我らは“記録する者”だ。あなたの歩みも、その選択も、全てを記録する」


 リアンは唇を結び、視線を落とす。

(記録……か。だが、俺が欲しいのはそれじゃない。導くべき魂があるなら――俺は行く)


広間の空気がわずかにざわめいた。

 リアンは受付の前で足を止め、短く言い置く。


「……依頼が無いなら、それでいい。俺は――好きにさせてもらう」


 少女が慌てて身を乗り出す。「お待ちくだ……」

 だが彼は振り返らない。横からベテランの紋章官が手を上げ、静かに制した。


「引き止めるな。……記録しておけ」


 重い扉が開き、光が差す。リアンはそのまま外へ出た。


 陽は高い。灰色の城壁を背に、南へ伸びる街道は白く乾いている。

 門の兵に通行の確認を受け、彼は一礼だけ残して歩き出した。


 ――南部戦争跡地。


 街を離れるほど、風に混じる匂いが変わる。焼けた鉄、古い血、乾いた土。

 時折、折れた槍や崩れた車輪が、草に呑まれきれずに顔を出していた。


(……場所は悪くない。けれど、まずは“今”を確かめる)


 リアンは足を止め、周囲を円を描くように回り込む。

 小高い土塁に登り、地形の切れ目と風の筋を読む。耳に集まる音――草を擦る虫の声、遠い鳥の鳴き交わし。重い獣の気配はない。


 地面に膝をつき、掌で土を撫でる。新しい爪痕や、瘴気が滲んだ黒ずみは……見当たらない。

 風を深く吸い込み、喉奥に刺さるような腐れの匂いがないことも確かめる。


(今は“いない”。来ても、斜面と岩で接近路は限られる)


 彼は背後を岩壁にとり、左右を草むらと崩れた石積みで塞ぐ位置に腰を下ろした。

 抜いた短剣を右ではなく左に置く。右手はこれから塞がる――浄化の間、彼は完全に無防備だ。


 静かに息を整える。


「……来い」


 右手の《箱舟の紋章》が淡く脈動し、光がひと筋、空へほどける。

 風に散っていた微かな灯が、ひとつ、またひとつと寄ってきた。破れた旗の影から、砕けた兜の縁から、見えない手に導かれるように。


 光が胸に触れた瞬間――世界が裏返る。


 熱。喉を焼く煙。泥にまみれた叫び。

 肩を叩く手のぬくもりが次の瞬間、指先ごと血に変わる。

 「まだだ、立て」と誰かが怒鳴る。足は震え、視界は白くはぜる。

 倒れた友の背嚢から覗く、小さな布切れ。乾いた草の匂いが、なぜか強く記憶に刺さる。


(逃げるな。最後まで見る)


 痛みは鋭い。恐怖は重い。

 だが、どちらも――生きていた証だ。


「……この痛みも、恐怖も、すべて“生きた証”だ。

 忘れない。俺が導く限り、誰一人として――無駄にはしない」


 言葉は掠れていたが、灯は静かに頷くように揺れた。

 光が《箱舟》に吸い込まれ、ひとつ、またひとつと穏やかに解けていく。

 やがて風だけが残り、世界は現実の色を取り戻した。


 額の汗を拭う。掌はまだ微かに震えている。

 耳を澄ませ――何も来ない。草が擦れ、遠くで烏が鳴くだけだ。


(……よし。今日は、ここまでだ)


 立ち上がると、肩の包帯が軋んだ。昨夜の傷が鈍く疼く。

 短剣を収め、もう一度だけ周囲を見渡す。風向き、空の色、影の長さ。異常なし。


 リアンは街道の方へ体を向けた。

 背後で草がそよぎ、導かれた灯が最後の別れを告げるように微かに瞬いた。


「魂に、安らぎを」


 低く落とした祈りは、乾いた風に溶けて消えた。

 彼はひとり、灰の都市へ戻る足を踏み出した。次の声が、また自分を呼ぶその時まで。

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