第40話 捕食者の静寂
サラは手すりを握りしめ、息を呑んでいた。
リアンの動きは必死で、ブラムの血が砂を赤く染める。
観客席のざわめきが波のように広がり、悲鳴と歓声が入り混じる。
そのたびに、胸の奥が締めつけられた。
「……サラ、もう限界じゃない?」
隣のレイナの声が震える。
「このままじゃ、本当に……リアンが……!」
しかしサラは答えなかった。
その金の瞳はただ、戦場を真っすぐに見つめていた。
瞳の奥には恐れも迷いもない――ただ確信だけが宿る。
「リアンは……負けない」
静かな声が風に溶けた。
「だって――私が信じてるから」
その瞬間、空気が微かに震えた。
彼女の指先に、誰も気づかないほどの熱の粒が生まれる。
風が熱を帯び、砂煙が揺らめいた。
「でも……これ以上は、見ていられない」
サラが一歩、踏み出した。
足元の板が軋む。空気が弾け、観客席にざわめきが走る。
――銀髪の女が動く。その予兆に、誰もが息を呑んだ。
⸻
砂煙の中。
リアンは必死に足を動かしていた。
砂の杭をかわすたび、頬を裂く痛みが走り、息を吸うたびに血の味がした。
ブラムは片膝をつき、巨斧を支える腕が震えている。
肩から滴る血が、地面に赤い模様を描いていた。
――背中の守りが、もうない。
足元の砂が遠く感じる。
空気が重く沈み、音が遠のいていく。
「くそっ……くそぉ……!」
短剣を握る手が震える。
砂と血の嵐が視界を埋め尽くす中で、リアンはそれでも前を見た。
ノエルの深紅の瞳が、まるで処刑人のように冷たく光る。
「もう逃がさない……あなたの魂、ここで“記録”するわ」
血の糸が蠢き、彼の喉元を狙った――
その瞬間、空気が爆ぜた。
⸻
砂煙を裂き、銀髪の女が現れた。
熱を帯びた風が渦を巻き、舞い上がった砂粒が光を反射する。
その中心で、金色の瞳がまっすぐ敵を射抜く。
「……誰が、触れていいと言った?」
低く、澄んだ声。
その一言だけで、戦場に響いていた音がすべて止まった。
リアンは息を呑んだ。
それはただの声ではない。心臓を鷲づかみにされたような圧。
この場にいる全員が――**“捕食者が来た”**と本能で悟った。
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ザイルが舌打ちし、砂を操ろうと指を動かす。
しかし――
「……ッ!? 動かねぇ……だと!?」
砂が動かない。
熱風に炙られた砂は乾ききり、握ろうとしても指の間から崩れ落ちる。
砂の大地そのものが、彼の支配を拒んでいた。
「チッ……こいつ……!」
ノエルが血を操り、無数の赤い糸を広げる。
螺旋を描くその軌跡は花弁のように美しく――だが死を孕んでいた。
唇が愉悦に歪む。
「ならば、血で燃やし尽くすまでよ」
サラの片手が、静かに横へ払われた。
「……散れ」
風が走る。
烈火を孕んだ突風が砂と血を巻き込み、螺旋を描いて空へと吹き上がった。
ノエルの血刃は触れた瞬間に蒸発し、光の粒になって消える。
まるでこの戦場の支配権が切り替わったようだった。
「っ……!」
ノエルが初めて、言葉を失った。
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観客席から、押し殺した悲鳴が漏れた。
銀髪の女がただ“動く”だけで、戦場の温度と風が変わる。
誰もがその異質さに息を呑んだ。
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サラはゆっくりと歩を進める。
一歩ごとに砂が焦げ、熱が地面を割る。
リアンの目には、その背中が途方もなく大きく、そして絶対的に頼もしく映った。
「……大丈夫、リアン」
振り返らずに放たれた声が、不思議なほど鮮明に届く。
「ここからは――私が護る」
その声音だけで、胸の奥に火が灯った。
「サラ……!」
リアンの喉が震えた。
恐怖で止まっていた足が、わずかに前へと動く。
――再び、立ち上がるために。
⸻
ザイルが歯噛みする。
「チィ……調子に乗るなよ、化け物が!」
その怒号と同時に、残った砂が一斉に動く。
杭、鎖、槍――すべてをまとめてぶつける本気の一撃。
砂の大蛇のような奔流がサラへ向かって唸りを上げた。
「……遅い」
サラの右手が軽く振られる。
炎が弧を描き、風がそれを抱き込む。
瞬間、炎の鞭が空を裂いた。
轟音。
砂は触れた瞬間に焼け、砕け、蒸発する。
熱風が戦場を駆け抜け、観客席の端まで砂埃を押しやった。
視界が晴れたとき――
そこに残っていたのは、蒼白になったコレクターの二人と、悠然と立つサラだけだった。
⸻
「……化け物、ね」
サラは小さく笑い、金色の瞳で二人を射抜く。
その一瞥は刃より鋭く、逃げ場を与えない。
「じゃあ、見せてあげる。――“護る者”が何をするのかを」
リアンはその背中を見つめた。
胸の奥で熱が膨れ上がる。
それは恐怖でも絶望でもない。
――希望と、反撃の炎だった。
砂煙が晴れ、沈黙が場を覆っていた。
風は止み、音が消えたかのような静けさが支配する。
戦場の中心に立つ銀髪の女は、まるで時を止めたかのように、微動だにしない。
その背には、熱と風が重なり、見えない渦を成していた。
燃えるような気配と、刺すような冷気が同時に漂う――
その矛盾が、見ているだけで背筋を凍らせた。
誰も、近づけない。
息を飲む観客のざわめきすら、遠くに霞んでいく。
対峙するザイルは、額を伝う汗が頬に落ちることにも気づかない。
金の瞳を見つめるだけで、喉が乾いていく。
指先がかすかに震え、砂を操るはずの手に嫌な湿り気がまとわりつく。
――わかっていた。これは、狩る側と狩られる側の距離だ。
「……おい」
ザイルは喉を鳴らす。
「なんで黙ってんだよ」
掠れた声。
聞こえた瞬間、自分の声じゃないように感じた。
サラは答えない。
ただ静かに、静かに、刃を研ぐように視線だけを向けている。
金の瞳がわずかに細まり、光を呑んだ。
「なに、怖気づいたの?」
柔らかく紡がれた声。
それは笑っているようで――笑っていなかった。
優しさの欠片もない、ただの事実の提示。
ザイルの心臓が、ひとつ跳ねた。
胸の奥で冷たい音が響く。
たった一言。
なのに皮膚の下まで冷たく侵入してくる。
それは風でも炎でもなく、“捕食者の視線”そのものだった。
「それとも、逃げる準備? ……まだ間に合うかもしれないよ、ほら」
軽く肩を傾ける仕草。
まるで、逃がしてやると言わんばかりの余裕。
――その瞬間、自分が一歩、後ずさっていたことに気づいた。
「……っ」
くす、と笑うサラ。
唇の端がわずかに上がった。
それだけで、背筋を氷が這い上がる。
「なっ……」
喉の奥が鳴った。
自分の口から、こんな情けない音が出るとは思わなかった。
「おい……冗談だろ。おれが、こんな女一人に……!」
焦り混じりの叫び。
声が裏返る。
誇りが砕ける音が、頭の奥で鳴った。
サラは一歩も動かない。
ただ、微かに首を傾げただけ。
「どうしたの? その手は、震えてるけど」
「黙れッ!」
怒鳴り声が響く。
怒りという名の仮面で、恐怖を押し隠すように。
ザイルは手を振り上げ、砂を操ろうと指を動かす。
――いつものように、地が応えるはずだった。
だが。
熱風が吹き抜けた瞬間、砂は煙のように崩れ落ちた。
「……は?」
掌を見下ろす。
何も起きない。力が、抜け落ちたように感じた。
サラが静かに言う。
「無理だよ。今、この場を“動かせる”のは――私だけ」
「くそっ、ふざけんな……ふざけんなよっ!」
焦燥が怒声に変わる。
恐怖に押し潰されるのを認めたくなくて、怒りを絞り出すようにして叫ぶ。
「てめぇみたいな怪物が! 怖いわけねぇだろうがぁッ!!」
砂の槍を無理やり作り出し、一歩踏み出す。
歯を食いしばり、叫びながら。
もう止まれない。止まったら、崩れるから。
だが――
「じゃあ、逃げないの?」
その言葉が、耳の奥で囁かれた瞬間。
世界が、歪んだ。
「……っ!」
あまりにも速かった。
音もなく、風もなく。
気づけば、サラは目の前にいた。
「自分より弱い相手にしか、強気になれないくせに」
その声と同時に、胸元に熱が走る。
否――熱というより、“灼きつく”痛みだった。
炎を纏った掌が、何の抵抗もなく肉を貫いた。
内側から焼き尽くされる。
「が……あ、ああ……!」
腹が膨れ、肺にまで焦げた煙が満ちる。
喉が焼け、声が濁る。
「まあ、あんたみたいなのがほとんどだけどね」
サラの声は淡々としていた。
目の前で焼け崩れていく男を見ても、表情は変わらない。
「でも……リアンの成長には、ちょっとは貢献したよ。ありがと」
最後に見たのは、微笑むサラの顔だった。
それは慈悲でも哀れみでもなく、ただの礼。
その手が静かに引き抜かれると同時に、ザイルの体は内側から火に呑まれた。
火が骨の芯まで侵食し、肉が音もなく崩れていく。
砂の上に残ったのは、灰と――焼けた鉄の匂いだけ。
⸻
風が、再び吹いた。
沈黙が戻り、熱の名残だけが砂上に漂う。
サラは振り返らない。
ただ、ゆっくりと指先の炎を払う。
残った熱が風に乗り、遠くで煌めいて消えた。
観客の誰も、声を出せなかった。
リアンだけが、その背中を見つめていた。
――“導き手”の前に立つ“守り手”。
それは、誰よりも静かで、誰よりも恐ろしい“祈り”の姿だった。




