第3話 「守り手なき導き手」
作り直しです。
感想やアドバイスいただけるとありがたいです。
窓の外から射す朝の光が、薄布のカーテンを透かして部屋を染めていた。
微かに揺れる布の影。石造りの街を包む鳥のさえずりと、人々のざわめきが重なり、夜を追い払うように広がっていく。
リアンはゆっくりとまぶたを開け、乾いた息を吐き出した。
(……珍しいな。昨夜は“あの夢”を見なかった)
脳裏に焼き付く女の姿――炎の髪、紅の瞳、不死鳥の紋章を背負う女。
いつもなら胸を焦がすように甦る光景が、今朝はなぜか訪れなかった。
「……静かな朝なんて、何日ぶりだろうな」
独り言は木の天井に吸い込まれ、すぐに溶けていく。
寝台を降りると、冷えた床石が足裏に触れた。水差しの冷水で顔を洗い、革の鞄を整える。最低限の道具と紋章書を収め、肩に掛けると、その重みが背中を現実に引き戻した。
包帯を巻き直す指先が一瞬止まる。鏡に映る己の顔は、まだ少年の面影を残していた。
「……導き手の顔には、見えないな」
自嘲めいた声を吐き、すぐに結び目を固く締め直す。
階段を降りると、宿の一階はすでに人の渦だった。
冒険者がパンをかじりながら戦いの話に笑い、商人は荷を背負って足早に去っていく。
漂う油とパンの匂い、ざわめく声――街が一斉に動き始める音がそこにあった。
帳場の老人に鍵を返すと、リアンは軽く会釈する。
「世話になった。……また泊まることになるかもしれない」
老人はにやりと口を歪め、しわだらけの手をひらひらと振った。
「無事に帰ってきな。命より先に財布が空になる街だからな」
冗談めかした言葉に、リアンはわずかに口元を緩める。
扉を押し開けると、眩しい陽光と石畳を踏み鳴らす無数の足音が彼を迎えた。
昨夜の闇を押し退けた街並みは、喧騒と光で別の顔をしている。
「――さて」
一歩を踏み出し、吐息と共に小さく呟いた。
「教会支部に、行くか」
――紋章教会〈ヴェルダ・クローネ支部〉。
導き手としての自分を、この街に刻むための場所へ。
街の喧騒を抜け、大通りを真っ直ぐ進む。
人と荷馬車の往来が途切れた先――灰と銀の壁に囲まれた巨大な建物がそびえ立っていた。
――紋章教会〈ヴェルダ・クローネ支部〉。
高く掲げられた門上の《聖環の印章》。白銀の光輪に、記録を象徴する白羽・守りの赤羽・加護の金羽が刻まれている。陽光を受けるたび、淡い光を返し、まるで人々の信仰心を呼び起こすように輝いていた。
通りを行く者たちは、無意識に歩を緩め、立ち止まって見上げる。威圧でもあり、同時に守護の象徴でもあった。
リアンは深く息を吸い込み、両手を握り直す。
――そして、重厚な扉を押し開けた。
ひんやりとした空気が頬を撫で、背後の喧騒が切り離される。
石造りの広間は整然と整えられ、磨かれた床には光が映り込み、外とは別世界の静けさが支配していた。
壁際には紋章盤と書架が並び、淡い光を帯びた刻印が静かに脈打っている。
正面の受付に立つのは、まだ若い紋章官だった。
青い外套の袖口に落ち着かない指先。慣れない手つきで帳簿を整理していたが、リアンの姿に気づくとぱちりと瞬きをした。
「……冒険者の方でしょうか? 依頼の確認でしたら、隣の窓口へ――」
リアンは無言で右手を掲げた。
その甲に刻まれた紋章が、淡い光を帯びて静かに脈動する。
「……導き手だ」
低く、だが確かな響きをもって放たれた一言。
受付の少女の顔色が一瞬で変わり、慌てて立ち上がった。帳簿を取り落としかけ、声を震わせる。
「し、失礼しました! 導き手の方とは知らず……!」
その瞬間、奥の廊下から重い靴音が響いた。
姿を現したのは、中年の紋章官。深緑の外套に身を包み、刻まれた皺の間から鋭い眼光を覗かせる。長年、数多の記録を見届けてきた者の目だった。
「騒がしくするな」
低く重い声が、広間全体に響き渡る。
少女が顔を青ざめさせる中、男は一歩前に進み、深く頭を垂れた。
「失礼しました、リアン・アルステッド殿。《箱舟の紋章》を持つ導き手――本部から通達を受けています」
名を呼ばれ、リアンはわずかに肩を強張らせたが、小さく頷いた。
「……俺の外見が、冒険者に見えるのはわかってる。守り手がいない導き手なんて、普通は想定されないからな」
言葉の刃は鋭く、しかし声は淡々としていた。
男の目が細まり、探るように彼を見つめる。
「承知しております。ですが、守り手は――」
「……必要ない」
リアンは遮るように言い放った。
「俺が一人でいることは、教会も記録しているはずだ」
短い沈黙。やがて男は深く頷いた。
「……確かに。導き手の歩みは、我ら教会が全て記録する。あなたの選択もまた、その一部です」
その声音には、敬意と記録者としての冷徹さが混じっていた。
リアンは表情を動かさず、ただ前を見据える。
「支部長がお待ちです。どうかこちらへ」
石の床に、靴音が硬く響いた。
導き手としての歩みが、この都市でも刻まれ始めようとしていた。
石造りの廊下を進むリアンの背中が、重厚な扉の向こうへ消えていった。
広間に残されたのは、わずかな靴音の残響と、息を潜めた静けさ。
若い紋章官の少女は小さく肩をすくめ、慌てて落とした帳簿を拾い上げる。震える指先で紙を整えながら、俯いたまま声を漏らした。
「……す、すみません。私……全然気づけなくて」
その隣に立つベテランの紋章官は、深く息を吐き出した。
その眼差しは厳しさを帯びつつも、叱責というよりは諭すような響きを伴っている。
「無理もない。あの青年は――“冒険者の顔”をしているからな」
少女は顔を上げ、戸惑いの色を隠せないまま問い返す。
「でも……導き手は必ず守り手と一緒に行動するはずじゃ……? 浄化のときは無防備になると、研修で――」
男は静かに頷き、視線を扉の奥へと向けた。
まるで過去の記録を思い出すように、低く言葉を続ける。
「本来ならそうだ。導き手は浄化の最中、完全に身を晒す。だからこそ教会は必ず守り手を付け、監視と記録を欠かさない。それが“理”だ」
その瞳に、わずかに陰が差した。
「だが――リアン・アルステッドは例外だ」
少女の目が見開かれる。
「例外……?」
男の声は重く、石の壁に低く響いた。
「……かつて、彼の守り手は任務の最中に命を落とした。魂を導くはずの浄化の、その只中で、な」
少女は息を呑み、手にした帳簿を握り締める。
返す言葉は浮かばず、ただ沈黙が落ちた。
男は目を細め、淡々と、しかし悼むように続ける。
「その喪失以来、彼は誰も隣に置こうとしない。守り手を失った導き手――本来なら許されぬ在り方だ。だが……」
そこで言葉を切り、扉の奥をもう一度見やる。
「それでも、彼は歩き続けている。魂を導くという、その意思ひとつで」
少女の喉が小さく鳴った。
やがて絞り出すように呟く。
「……そんな人が、本当に存在するんですね」
男はゆっくりと頷き、帳簿を閉じた。
「導き手とは――常に記録の対象だ。だが同時に、我らにとって“理を繋ぐ者”でもある」
その言葉には、重責を知る者の響きと、わずかな敬意が込められていた。
「忘れるな」
少女は深く頭を下げ、胸に刻むように頷いた。
静けさの中、再びペンの音だけが広間に満ちていった。




