第31話 「ただいまを、もう一度」
目の前には、鎧をまとったあの騎士が静かに立ち、
その隣には――温かな笑顔の家族が揃っていた。
娘は駆け寄るように手を振り、
妻は優しく微笑みながら、騎士とリアンを交互に見つめている。
騎士の瞳は穏やかで、戦場での厳しさは影を潜めていた。
それは“戦いの後”ではなく、“帰還の光景”そのものだった。
やがて家族が、ゆっくりとリアンの方を向く。
娘の瞳が、きらりと光を宿して。
妻がそっと頷く。つづいて、三人の唇から同時に言葉がこぼれた。
「――ありがとう」
それは、確かな声だった。
静かで、けれど胸の奥にまっすぐ届く“生きた言葉”。
感謝と安堵が、波のようにリアンの胸を満たしていく。
彼は息を止めたまま、ただ見つめていた。
誰のためでもなく、誰よりも“生きたかった人たち”の微笑みを。
やがて――騎士の身体から、淡い光が立ちのぼった。
その光は家族を包み込みながら、舟へと融けていく。
その瞬間、リアンはほんの少しだけ、手を伸ばした。
「……よかった。あなたの願いを、思いを――還せて」
声が震えていた。
けれどそれは悲しみではない。
ただ、ひとつの祈りが形になった証の震えだった。
光が消え、幻は音もなく解けた。旧市街には、ふたたび静寂が戻る。
騎士とその家族の姿はもうどこにもなかった。
けれどそこにいた三人は、確かに感じていた。
“何かが残った”――と。
ぽつり、とサラがつぶやく。
「……待ってたんだね。家族は、ずっと」
風が抜ける。
朽ちた玄関先をなでるように吹き抜け、
埃がひとすじ、光の中で揺れた。
サラはその光を見つめながら、
どこか、遠いものを思い出すように目を細める。
「いつ帰るかも……ほんとうに帰ってくるのかも、わからなかったはずなのに」
一拍、言葉を止める。
小さく息を吸い込み、静かに続けた。
「それでも、“おかえり”を言う準備をして。
あの扉を開けて、笑って迎えようとしてたんだね……」
それは、誰にも届かないほど小さな声だった。
けれど、風が確かにその言葉を運んでいく。
レイナは黙って聞いていたが、
やがて静かに、ひとつ息を吐いて言った。
「……家族。戦争で失っても、帰りたいと思える場所。
けれど――」
彼女の視線が崩れた石垣や地面に落ちる。
「残った家族も、もういなかったのね。
あの騎士が最後に命を懸けて守った通路の先……」
一度目を伏せ、そしてもう一度、前を見た。
「でも……思いは消えなかった。願いは、確かにあったのよ」
リアンは何も言わなかった。
ただ、風に揺れる草の向こう――かつて“家”があった場所を見つめ続けた。
沈黙の中、レイナの声がもう一度重なる。
「家紋は……消えてなんかいなかったのね。
“家”も、“帰る”って想いも。
誰かがそれを守ろうとして、そして今、あなたがそれに触れた」
リアンの掌に、まだかすかに《箱舟の紋章》のぬくもりが残っていた。
それはまるで、消えたはずの記憶が“受け継がれるために”再び目を覚ましたようだった。
サラがそっと微笑む。
その笑顔は、どこか涙を含んでいた。
「だからこそ……ここまで来た意味があったんだね。
……彼の“ただいま”は、たしかにここで届いてた」
リアンは小さく頷く。
言葉を探すように、ゆっくりと口を開く。
「“ありがとう”って……あの人たち、言ってくれた」
「ええ」
サラが頷く。
「……あれは、きっと本当の声だった」
レイナは少しだけ目を細めて微笑んだ。
「それが、“家紋が生きている”ってこと……なのかもしれないわね」
リアンはその言葉を、胸の奥で反芻する。
“生きている家紋”――
それは、誰かの記録であり、願いであり、還るための道標。
そこにあったのは、ただの幻ではない。
記憶と願いと、そして“帰ると誓った魂”の温もり。
それが、確かにいま、彼らの目の前に息づいていた。
風が静かに通り過ぎていく。
空には、わずかに雲が流れていた。
旧市街の静けさは変わらない。
けれど三人の胸の中には、確かな灯がともっていた。
言葉ではない――紋章という“意志のかたち”。
それは、あの騎士が選び、命を懸けてまで守ろうとした“帰還の証”。
背中に吹く風が、確かに“誰かの想い”を運んでいた。
そして、その先には――まだ導かれるべき魂がいる。
夕暮れに染まる街へと歩き出した。
燃えるような西陽が石畳を黄金色に染め、風の音だけが耳に残る。
街の中心部まで来たところで、レイナがふと足を止めた。
振り返ったその横顔は、柔らかな光を受けて凛としていた。
「――ここで私は行くわ。少し調べたいこともあるの」
リアンとサラが同時に足を止める。
レイナは二人を見つめ、微笑んだ。
「……また、何かあったら言ってね。わたしにできることがあるなら、協力するから」
リアンは素直に頷き、短く言葉を返す。
「ありがとう、レイナ。あなたがいたから、ここまで来られた」
「またね」
サラも笑う。
その笑顔にレイナも少し照れくさそうに肩をすくめた。
「……ふふ、やっぱりあなたたち、いいコンビね」
軽く手を振り、分かれ道を下っていく。
背筋を伸ばしたその後ろ姿は、もうすっかり《家紋師》としての誇りと意思を帯びていた。
リアンとサラは、彼女の姿が通りの角に消えるまで黙って見送った。
やがてサラが、ぽつりと呟く。
「……ねえ、リアン。お腹すかない?」
思わずリアンの肩から力が抜ける。
ふっと笑いがこぼれた。
「……やっぱり、それ言うと思った」
「だって、もう夕方だよ? さっきからずっと歩きっぱなしだし。
それに、あの家……ちょっと緊張してたんだもん。お腹鳴らないように必死だったの」
サラがどこか得意げに胸を張る。
リアンは小さく首を振って笑った。
「じゃあ、行こう。どこか静かで落ち着ける場所がいいな」
二人は並んで、街の喧騒を離れた通りを歩いた。
陽が沈み、家々の灯りが次々と灯っていく。
ほどなく見つけた小さな食堂。
木の看板と、窓からこぼれる橙の光。
中に入ると、香ばしいスープの匂いが二人を迎えた。
テーブルに座り、温かな料理が運ばれる。
湯気の立つ皿を前に、サラがスプーンを手に取った。
「いただきます」
ふう、と息を吹きかけて口に運ぶ。
そして、思わずほっとしたように呟いた。
「はー……生き返るー……」
リアンは静かに笑いながら、その横顔を見つめていた。
サラはスープを飲み干しながら、ふと真顔に戻り、問いかける。
「ねえ、リアン。……あの騎士の紋章、使えたりしないの?」
「え?」
リアンは少し目を見開く。
スプーンを置き、手の甲に視線を落とした。
「いや……どうだろう。意識してみたことはないけど」
《箱舟の紋章》の縁に組み込まれた《選魂の紋章》が、静かに淡い光を湛えている。
リアンはそっと目を閉じ、意識を集中させた。
――しかし、何も起こらない。
力の流れも、意志の接続も感じられなかった。
「……ダメだ。使える気配はない。まるで……鍵がかかってるみたいな感じだ」
リアンがそう言うと、サラは少しだけ肩を落とした。
「そっか……少し期待しちゃったのに」
けれど、その表情はどこか複雑で。
残念そうでもあり、少し安心したようでもあった。
リアンは静かに言葉を続ける。
「……でも、たぶん、あれは“誰かのために在り続ける紋章”なんだと思う。
力としてじゃなく、願いの形として」
サラはその言葉を噛みしめるように頷いた。
「……うん。あの人の意志は、ただの“力”にするには惜しいよね」
湯気が立ち上る器の向こうで、二人の視線が重なった。
夕暮れの光が窓から差し込み、柔らかな明かりが二人を包み込む。
――いつもの宿。
微かな灯りの中、リアンはゆっくりと扉を開けた。
木の床がかすかに軋み、暖炉の火が壁を照らす。
足を踏み入れようとしたそのとき、背後からサラの気配を感じる。
振り返ると、彼女が静かに微笑んでいた。
そっと、リアンの肩に手を置く。
「……おかえり」
その一言に、リアンの胸が熱くなる。
驚きと戸惑いが一瞬混ざり、目がわずかに見開かれる。
だが次の瞬間、視線がやわらかく細まり、微かな笑みが浮かんだ。
「……ただいま」
声は静かで、かすかに震えていた。
その震えが、胸の奥に染み入る。
暖炉の灯がゆらめき、二人の影をそっと重ね合わせる。
外では夜風が窓辺を撫で、かすかな音を残していった。
まるで、世界が静かに息をしているかのように。
リアンは小さく息を吐き、肩の力を解いた。
そして――ゆっくりと、一歩、部屋の中へと踏み出す。
足音が、木の床に柔らかく響く。
遠かった戦いの日々が、暖かな空気の中で溶けていく。
張り詰めていたものがほどけ、胸の奥に“生の温度”が戻っていくのを感じた。
サラはその場に立ち、黙ってリアンの横顔を見つめていた。
その表情に、ようやく帰ってきた人を見守るような――やわらかな微笑みが浮かぶ。
やがて、彼女も静かに一歩を踏み出した。
その足音は、リアンのあとをなぞるように、灯の中へと溶けていく。
――その夜、宿の灯りは、遅くまで優しく揺れていた。
まるで、ふたりの“帰還”を見届けるように。




