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『魂を導く紋章師、死者の誓いを継いで世界を救う』  作者: nukoto


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第30話 『約束の朝』

 ――風が止んでいた。


 世界が息をひそめたような静寂の中、

 リアンの足元だけが淡く光を帯びている。


 時間の流れが凍りついたかのように、

 騎士も、家も、少女の笑顔も、そのままの姿で静止していた。


 


 サラが息を呑む。

 「……止まった?」


 レイナがゆっくり首を振る。

 「いいえ……まだ続いてる。これは“終わり”じゃない」


 


 リアンは、前に立つ騎士の背を見つめていた。

 その姿はもう、輪郭を保てずに淡く揺れている。

 まるで、消えたくないと抗っているかのように。


 


 (――帰りたかったんだ)


 彼の胸に残ったのは、戦場の誓いでも、栄光でもなく。

 ただ、あの家の灯りの記憶。


 家族の声、笑い声、食卓の匂い。

 それだけが、この魂を繋ぎとめていた。


 


 リアンの指先が、かすかに震える。

 右手の紋章が光を宿し始めた。


 「……もう、大丈夫」


 その言葉は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに届いた。


 


 騎士の姿がゆっくりと振り返る。

 その瞳の奥には、長い戦いを終えた安堵があった。


 サラが小さく囁く。

 「リアン……」


 リアンは、静かに頷く。


 


 「舟は――ここにある。……行こう」


 


 右手が、淡く光に包まれる。

 次の瞬間、彼の背後に、形なき《箱舟》が浮かび上がった。


 風も音も、すべてが静止する。

 光だけが、穏やかに流れていく。


 その舟は、世界の境を渡るように――

 騎士の魂を、優しく包み込んでいった。


 


 レイナがそっと呟く。

 「……これが、“導き”」


 サラは瞼を閉じて、かすかに微笑む。

 「帰れるのね。ようやく……」


 


 リアンの胸元で、共鳴のペンダントが淡く鳴った。

 銀と紅の光が交差し、風の音が再び流れ出す。


 “導き”の儀が、静かに始まっていた。


リアンが魂に触れると騎士の記憶が流れてくる。


――朝の光が、木枠の窓からゆっくりと差し込んでいた。


斜めに伸びた柔らかな光は、静かに床をなでるように戸棚の縁や椅子の背をほんのり照らしている。

部屋に漂うのは、香ばしい焼きたてのパンの匂い。

その香りが、胸の奥までじんわりと染み込み、「帰ってきたんだ」と優しく告げていた。


小さなスプーンが器の中でカチャリと音を立てる。


 


「……おとうさん、バターのところ、ちょっとちぎってもいい?」


パン屑を口に残したまま、小さな娘の手がそっとテーブルに伸びる。

先にちぎっていたのは娘のほうだったのに、騎士は自然と微笑みをこぼした。


「少しだけ、だぞ」


「……うん!」


その満面の笑顔に、何度でも命を懸けられると、彼は心から思った。


 


戸の向こうからは、井戸端で水を汲む音が聞こえる。

街路を掃く箒のかすれた音。

まだ眠そうな空に遠くから響く行商の声。


静かで、あたたかい。

どこにでもある、ありふれた朝のはずなのに、心は満たされていた。


 


「ねえ、コートが裏返しよ」


背後から優しい声がして、振り返ると湯気の立つカップを手にした妻が肩をすくめて微笑んでいた。


「ああ……すまん、寝ぼけてたらしい」


そう言いながら肩に手を伸ばすと、彼女はくすりと笑いながらコートの裏返しを直してくれた。

その何気ない仕草が、胸の奥にじんわりと温かな灯をともす。


 


「今日は長くなりそう?」


「わからん。でも……できるだけ早く帰るつもりだ」


妻は黙って頷く。

それ以上は問わず、信じていると伝わるまなざしで彼を見つめていた。


 


そのとき、娘が椅子の上で立ち上がって、


「じゃあ! わたし、いい子にして待ってるって“約束”するから!」


まだパンの欠片を口に残しながら、右手をぴしっと額に当てて誇らしげに敬礼をした。

その堂々とした姿に、騎士は笑いをこらえきれなかった。


だが、彼は真剣に頷き返す。


「うん。父さんも……絶対帰ってくると約束する」


まだ指切りはできない幼さでも、言葉だけで十分だった。

その言葉に込められた想いはすべて、確かに心へ届いていた。


 


支度を終え、鎧の紐を結び直す。

戸口に立ち、ふと振り返る。


朝の陽が家の中を優しく満たし、パンの香りと湯気、小さな笑い声がそこにあった。

それは、どんな戦功や勲章よりも尊く、かけがえのない光景だった。


 


騎士はゆっくりと扉に手をかける。


外には、また戦場が待っている。

しかし、彼の背中には確かなものがあった。

「帰るべき場所」が、そこに確かに存在している。


 


ただ一つ、強い想いを胸に。


 


――「今日も、生きて帰ってくれてありがとう」と、もう一度言われるために。


 


扉の外で風が吹いた。

騎士はマントをなびかせ、静かに歩き出す。


それが、彼の一番強い瞬間だった。


 


陽はまだ高く傾ききらず、家の前に長い影を落としていた。

扉が静かに閉まる音を、彼ははっきりと覚えている。


あの時、もう一度振り返ればよかったのかもしれない。

だが、振り返らなくても、あの温もりは確かに背中にあった。


 


街路の石畳はいつもより乾いていた。

朝に掃かれた塵が、陽の角度に淡く光を帯びる。


肩にかけたマントが風に揺れ、鎧の留め具がわずかに鳴る。

額に刻まれた紋章は熱を帯びていた。


恐れではない。

“帰る理由”を知る者だけが抱く、誓いの熱。


 


俺は誓った。


戦い抜くことでも、勝ち残ることでもない。

“帰る”ことを何よりも強く、誰よりも深く誓った。


 


生きて帰る。

それが俺が剣を振るう理由だ。


 


あの朝のパンの香り。

娘の敬礼。

妻の「裏返しよ」という笑みと湯気の立つ手。

それが、俺の盾だった。


 

《楯帰》――

この家紋は、騎士である俺が、

“帰るために戦う”と選んだ、唯一の証。



 


名も残さず、勲功もなくていい。

「ああ、おかえり」ともう一度言ってもらえるなら――

その一言で何度でも剣を取り、立ち上がれる。


 


だから、俺は行く。


この誓いを胸に。

ただ、またあの扉を開くために。


 


足音が遠ざかり、陽はゆっくりと影を伸ばしていった。


 


 


戦場は激しく轟いていた。

部下が駆け寄り、息を切らして叫ぶ。


「隊長! 地下通路が敵に襲われています! 街への侵入を阻止しなければなりません!」


 


騎士団の長として、戦場を離れることは許されない。

だが、地下通路の先にある街と、家族、帰る場所が危機に晒されていた。


 


「騎士団はここで戦え。俺は一人、地下通路へ向かう」

そう告げて、騎士は背を向けた。

戦場に残る仲間たちへ、最後の視線を送って。


 


孤独な決断を胸に、騎士は地下通路へ急ぐ。

その先にある街は、命を懸けて守るべき、唯一の“帰る場所”だった。


 


地下の空気はひんやりと重く、外の戦場の喧騒とは違う、静かな緊張が満ちていた。

騎士は剣を握り締め、額の《選魂》の紋章が淡く光るのを感じながら、長い石の通路を足早に進む。


 


通路の先から、かすかな足音と息遣いが交錯する。

敵の気配は確実に迫っていた。


騎士は深く息を吸い込み、剣を地面に突き立てる。


 


「ここで、立つ。」


 


額の紋章が柔らかな光を放ち、背中の《聖剣と光輪》が静かに輝き始める。

霧の中から淡い灰色の光の輪が現れ、ゆっくりと幻影の戦士たちが形を成し、彼の周囲を囲んだ。


 


かつて共に戦った部下たちの魂。

無言ながらも確かな意志を持ち、戦闘態勢を整えている。


 


敵が通路の入口に踏み込むと、騎士は言葉なく幻影たちと呼吸を合わせる。

剣の刃は曇りつつも、誓いと魂の強さを映し出すように静かに輝いた。


 


第一波の敵が踏み込んだ瞬間、幻影たちは風のように連携し、迎撃を開始する。

斬撃と盾の音が地下に響き渡り、火花が散った。


 


騎士は微動だにせず、その場に立ち尽くす。

剣は大地に突き立てられ、魂は己の誓いの灯火となった。


 


「ここは通さぬ……我が誓いの場所だ。」


 


静かな声が闇に溶けていく。

敵の波は徐々に削られていった。


 


背中の紋章は守護の盾のように輝き、訪れる死者たちの魂は彼のもとに集い、戦い続ける。


 


だが、それは永遠ではない。

紋章と共鳴するたび、騎士の生気は少しずつ削られていく。


 


それでも彼は動かず、守り抜くことを選んだ。


 


《灰誓の衛士》は沈黙のまま立ち続ける。

今は誰にも知られぬ裏道で、愛する者を守るために。


 


 


リアンの視界が揺らぎ、戦いの記憶からふっと現実に引き戻される。

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