第二話 ──還るべき場所──
森を抜けた瞬間、空気が変わった。
肌にまとわりつくような湿り気を帯びた風が、リアンの頬をなでて通り過ぎる。
土の匂いの奥に、鋭く鼻を突くものがあった。鉄のような、灰のような、血と火が混ざり合った残り香――
それは、かつて人が命を奪い合った場所にだけ漂う、戦場の匂いだった。
足元の草は踏み荒らされ、生命の気配が希薄だった。
周囲の木々には斬撃の痕が斜めに走り、倒れた枝には焦げの跡が残る。
風すら息をひそめたような沈黙の中で、死と争いの残滓だけが、土と空に漂っていた。
(……ここで、何があった)
リアンは無言で歩を進めながら、丘を緩やかに登った。
そして、眼下に広がったその光景に、思わず息を呑む。
そこには、かつて「村」だったものの名残があった。
砕けた石垣。焼け焦げた柱。崩れ落ちた屋根。
人の営みの名残は確かにある。だが、そこにはもう、“今”を生きる者の姿はなかった。
あるのはただ、時の止まった景色と、そこに横たわる魂の残滓だけ。
風が吹き、リアンのマントが揺れた。
彼はゆっくりと右手を持ち上げ、手の甲に刻まれた紋章に意識を集中する。
――《箱舟の紋章》。
それは、古の伝承に語られる紋章。
滅びの時に選ばれし魂を舟に乗せ、安らぎと救済の地へ導いたという、伝説の“魂還し”の意匠。
魂を見つけ、迎え入れ、還す力。
それこそが、《魂の導き手》たる彼に与えられた責務だった。
「――来たれ、さまよえる者たちよ」
小さな声だったが、確かな意志を孕んでいた。
紋章が淡い光を放ち始める。
その輝きに導かれるように、村の残骸の中から、ひとつ、またひとつと、小さな魂の光が浮かび上がる。
──火に包まれた家の中、祈るように抱き合っていた母と子。
──剣を抜いたまま、うつ伏せに倒れている兵士。
──声にならない叫びをあげたまま、崩れ落ちた子ども。
名もなき、姿もあいまいな魂たち。
けれど、確かにそこに“在った”人々の記憶が、今もなお、この地に縫いとめられていた。
リアンはゆっくりと膝をつき、最も近くに漂っていた、小さな魂の光へと右手を差し出した。
「……行こう。君からだ」
そっと、手を伸ばし、魂に触れる。
瞬間――
脈動とともに、紋章が光を放ち、リアンの意識に、焼けつくような記憶が流れ込んできた。
──赤い炎。崩れ落ちる屋根。
──母の叫び声。
「お願い……せめてこの子だけは……!」
──瓦礫と煙と、絶望の中で、すべてが崩れ落ちる。
リアンは胸の奥が灼かれるような痛みに、思わず歯を食いしばった。
だが、それを拒絶せず、しっかりと受け止め、小さくうなずく。
「……大丈夫。舟は、ここにある」
彼の背後に、光の幻影が現れる。
形なき《箱舟》。
それはこの世には存在しないが、魂にとっては確かな“帰る場所”だった。
魂は小さく揺れ、舟へと向かって歩み、静かに乗り込んでいく。
次に、剣を手にした青年の魂が近づいてきた。
「……君の痛みも、受け取る」
リアンは右手を再び差し出し、魂に触れる。
──血の匂い。振るわれる剣。
──足元に転がる、仲間の死体。
「くそっ……! どうして、こんな……!」
──怒り。悔恨。絶望。届かなかった祈り。
リアンは目を閉じて、全てをその胸に刻む。
舟を指さすと、魂は小さく頭を垂れ、静かに乗り込んでいった。
またひとつ、またひとつ。
魂の影に歩み寄り、右手で触れ、彼らの記憶と感情を受け取っていく。
恐怖。怒り。後悔。孤独。そして、祈り。
そのすべてがリアンの中に流れ込み、魂の重みとして積もっていく。
次第に彼の膝が震え始め、呼吸が浅くなる。
胸の奥に溜まった痛みは、もはや言葉にできない。
それでも――彼は逃げない。
「……全部、受け止める」
それは、紋章師としてではない。
《魂の導き手》としての覚悟。
魂が遺した最後の感情、最後の想い――その全てを、この手で受け取り、確かに還していく。
やがて《箱舟》は静かに満ちていき、乗り込んだ魂たちは、淡い光となって空へ昇っていく。
夜空を翔ける鳥のように、静かに、やさしく。
リアンは手帳のような《紋章書》を取り出し、舟に乗った魂たちの名前を、想いを、丁寧に記していく。
「……これが、“還す者”の務めか」
そのとき――風が変わった。
空気が止まり、背筋に冷たいものが走る。
リアンはハッとして振り返る。
そこに、“彼女”がいた。
燃えるような赤い髪。
哀しみに濡れた深紅の瞳。
夢で何度も見た、あの面影とまったく同じ姿で。
少女は何も言わず、リアンの右手――《箱舟の紋章》を、静かに指し示す。
次の瞬間。
少女の背に、仄かに金色の光が揺らめいた。
それは、まぎれもなく――不死鳥の紋章。
だが、その光は完全なものではなかった。
輪郭は曖昧で、揺らぐ火のように不安定。
まるで、未完成のまま魂に刻まれているかのような在り様だった。
少女は、かすかに微笑んだ。
その微笑みには、悲しみとも、安堵ともつかない、壊れそうな優しさが滲んでいた。
そして、風と光に紛れるようにして、姿を消した。
リアンはしばらく動けなかった。
胸に焼けついた光景が、言葉を奪っていた。
けれど、やがて静かに拳を握る。
右手の《箱舟の紋章》が、じんわりと熱を帯びていた。
「……お前が何者なのか、僕は――知りたい」
それは祈りではない。
誓いだった。
遠く、東の空で、ひとすじの雷光が夜を裂いた。