第2話 灰の都市《ヴェルダ・クローネ》
作り直しです。
感想やアドバイスいただけるとありがたいです。
石畳を抜け、露店が並ぶ通りを歩き続ける。
香辛料と焼けた肉の匂いが夜気に混ざり、漂ってくる。灯火がともる路地は人であふれ、まるで瘴気に閉ざされた外の世界など存在しないかのようだった。
サラは人混みを軽々とすり抜けながら、振り返る。
「ほら、あそこ。匂いにつられてる連中が多いってことは、悪い店じゃない証拠よ」
指差した先には、軒を張り出した食堂があった。
窓からは明かりと笑い声が漏れ、酒と油の匂いが漂ってくる。
リアンは足を止め、眉を寄せる。
「……混んでるな」
「賑やかなほうが安全ってもんよ」
サラは扉を乱暴に押し開け、迷いなく中に入っていく。
店内は熱気と騒音で満ちていた。
長椅子に並んだ冒険者たちが大声で戦果を語り、給仕の少女が大皿を抱えて行き来している。酒瓶の音と笑い声、皿が割れる音まで混じっているのに、不思議と活気に溢れていた。
サラは空いていた席に腰を下ろし、大剣を壁に立てかける。
「ほら、あんたも座りなさい。……で、注文は任せていい?」
リアンは椅子を引きながら、苦い顔をした。
「……最初からそのつもりだっただろ」
サラはにやりと笑い、手を挙げて店員を呼ぶ。
「肉の盛り合わせとスープ、それに酒! 一番強いの!」
「……酒は遠慮する」
リアンは小さく首を振る。
「坊やはミルクでも飲んでなさい」
サラの軽口に、リアンはむっとする。
「……坊やじゃない」
その即答に、サラは愉快そうに肩を揺らした。
「ふふ、ほんとにむきになるのね。からかい甲斐があるわ」
⸻
料理が運ばれてくる。
香ばしい匂いが鼻を刺し、鉄板の上で肉がじゅうじゅう音を立てている。皿の縁から溢れるほどの量に、リアンは思わず息を呑んだ。
「……これ、一体何人前だ」
「女の胃袋を甘く見るなって言ったでしょ?」
サラは肉を切り分け、豪快に口へ放り込む。
「んー! やっぱり戦った後はこれよ!」
リアンは呆れ混じりに溜息をつき、慎重にスープを口に運ぶ。
温かな出汁の味が喉を通り、じわりと疲労がほぐれていく。
「……悪くないな」
「ほらね。街の食堂を舐めちゃだめよ」
サラは酒をあおり、豪快に笑う。
「ここは瘴気のただ中だけど、だからこそ、生きてる実感をこうやって噛みしめるの」
リアンはしばし黙り、肉の皿に視線を落とした。
生の匂い、死の影と背中合わせの街で、それでも笑いが絶えない。
(……強いな。俺には、まだこうは振る舞えない)
彼は無言で肉を口に運ぶ。
熱と塩気が広がり、少しだけ胸の重みが和らいでいった。
サラはそれを横目で見て、また唇の端を吊り上げる。
「いい顔になったじゃない。やっぱり導き手も、飯食ってる時が一番マシね」
リアンは小さくため息をついた。
「……命の借りが、飯一杯で済むなら、安いもんだ」
サラはグラスを掲げて笑う。
「乾杯! 導き手に、そして私の胃袋に!」
サラはグラスを豪快にあおり、口元を袖でぬぐった。
「ぷはぁ……やっぱりこれだわ。生きて帰ってきた実感ってやつ」
彼女の笑い声が周囲の喧騒に溶け込み、油と酒の匂いと一緒に店の空気をさらに熱くした。
リアンはまだ半分ほど残ったスープを見つめ、静かに息を吐く。
「……命を賭けるたびに、飯がうまくなるのか」
サラは肉を切り分けながらにやりと笑う。
「そういうこと」
そして、鋭い視線を向ける。
「で――あんた、どこから来たの?」
唐突な問いに、リアンの手が止まった。
匙を皿に置き、しばし逡巡ののちに言葉を吐き出す。
「……眠りの森から」
「眠りの森?」
サラの瞳がわずかに細まる。金の光の奥で、何かを計るような色が揺れる。
「禁域みたいに言われてるあの森? 普通は帰ってこられない場所よ」
声の調子は軽やかだが、真剣さが滲んでいた。
店内の喧騒の中でも、その問いだけは妙に重く響いた。
リアンは視線を落とし、低く告げる。
「……師匠が、途中まで送ってくれた」
サラは数秒間黙し、彼を観察するように目を細めた。
酒杯を軽く揺らし、やがて小さく口角を吊り上げる。
「……なるほどね。まぁいいわ」
何でもないことのように言い、杯を指で弄ぶ。
「聞いたところで、今さら道が変わるわけでもないし」
リアンは小さく息を吐き、再びスープを口に運んだ。
熱が喉を滑り落ちると同時に、張り詰めた鼓動がわずかに緩む。
サラは肉を噛み砕き、顎を軽く拭いながら笑う。
「大事なのは、あんたが“ここにいる”ってこと。……それだけで十分でしょ」
リアンはわずかに目を上げ、その金の瞳を一瞬だけ見返す。
すぐに逸らし、黙って皿の肉を口へ運んだ。
(……軽口みたいに言うけど、そうやって生き抜いてきたんだろう、この人は)
周囲では冒険者たちが酒を打ち鳴らし、笑い、叫び、歌っている。
外の世界は瘴気に覆われている――。
だが、この喧騒と灯火の中だけは、確かに「生」が息づいていた。
店内の喧騒の中、最後の杯を飲み干したサラは椅子から立ち上がった。
大剣を肩に担ぎ直し、背筋を伸ばす。
「よし、腹も満たされたし……今日はここまでね」
リアンも席を立ち、軽く頭を下げる。
「助けてくれた礼を――」
言いかけたところで、サラが振り返りざまに片手をひらりと振った。
皮肉めいた笑みが口元に浮かぶ。
「礼ならもう済んでるでしょ。……飯でチャラ、そういう約束だったはず」
リアンはため息を吐き、肩を落とす。
「……安すぎるな」
「ふふ、次は気をつけなよ。命まで何度も安売りできると思わないこと」
今度の声にはからかいではなく、わずかな真剣さが滲んでいた。
リアンは短く頷き、彼女の背を見送る。
銀の髪が人波に揺れ、夜の雑踏へと消えていった。
――残された静けさの中、リアンは宿へ向かった。
石畳を踏みしめるたびに、全身にこびりついた疲労が鈍く疼き、足取りを重くする。人々の笑い声や明かりに満ちた街並みも、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
古びた宿の扉を押し開けると、油の匂いと温かな灯火が彼を迎える。
帳場で小さな鍵を受け取り、軋む階段を上がる。その一段ごとに、体の重さが増していくようだった。
二階の小部屋。木の机と寝台がひとつ、壁には小さな窓。質素そのものの空間。
けれど――森の闇で背を預けるしかなかった夜に比べれば、この狭ささえ安らぎに思える。
荷を下ろすと、緊張の糸が切れたように体から力が抜けた。
寝台に腰を落とした瞬間、肩の痛みと全身の疲労が一気に押し寄せる。
「……今日は、疲れた」
ぽつりと漏れた声は、誰に届くでもなく、闇に吸い込まれていった。
まぶたが重く閉じていく中、リアンはかろうじて言葉を繋ぐ。
「……明日、教会支部に行くか」
その呟きは決意というより、願いに近かった。
導き手として歩み続けるために――自分の居場所を確かめるために。
次の瞬間、眠りが全てを攫っていった。
部屋には彼の浅い寝息と、灯火の揺らめきだけが残された。




