第一話 『魂の歌を追う者 ~紋章師リアンの記憶を巡る旅~』
夜が深まる森の中、すべてを覆うような静寂を裂いて、ひとつの歌声がこだました。
それは人の言葉ではなかった。
風の語らいでもなければ、獣の鳴き声でもない。
魂がそのまま旋律になったような、透き通る音の連なり。微かな震えを帯びたその歌は、聞く者の胸の奥に直接触れてくるようだった。
現の音ではない。だが、それは確かに、この世界に響いていた。
「……また、だ」
ぼんやりと目を開けたリアンは、焚き火のはぜる音と揺れる赤い光に包まれていた。
焚き火はまだ消えていなかった。だが、それは現実へと戻ったことを意味しているのか、まだ夢の中にいるのか、曖昧だった。
火の粉が小さく空に舞い、暗い夜の帳に消えていく。
そのたびに赤い残光が、彼の頬を淡く照らした。
夢――そう思った。けれど、目覚めてもなお、耳の奥には旋律の余韻が残っていた。
いや、それどころか、まだ森の奥で誰かが歌い続けているのではないかと錯覚するほどに、生々しかった。
リアン・アルステッド。
十九歳の青年にして、若き紋章師。
同時に、魂と紋章の深奥に触れることのできる異能者――《魂の導き手》でもある。
今、彼はノルト=ベリア辺境領の瘴気残留地帯を巡りながら、各地の遺跡や霊災跡地で失われた紋章素材を探す旅の途中だった。
旅の目的は二つ。
ひとつは、《不明紋章》の構造解明と収集。
もうひとつは――
自分という存在の“答え”を見つけるため。
だが、ここ数日、彼を悩ませているものがある。
それは一夜の幻では済まされない、繰り返される夢の中の“光景”だった。
夢に現れるのは、ひとりの少女。
赤い髪。
それも、ただの赤ではない。炎のように揺れる長い髪は、燃え上がる命の残滓のようだった。
瞳もまた深紅。血を思わせるほど濃く、けれど、どこか悲しげだった。
彼女はいつも、泣き出しそうな顔でこちらを見ている。
言葉をかけようとするが、その唇は動かず、声は決して届かない。
ただ――その背に刻まれた紋章だけが、圧倒的な存在感をもって、リアンの目に焼きつく。
金色の不死鳥。
羽ばたくその意匠は、光そのもののようだった。
だが、その輝きはリアンの胸に、炎にも似た激しい痛みをもたらす。
まるで、それは――
彼の魂が、かつてそれを**“知っていた”**と叫んでいるかのように。
(……不死鳥の紋章なんて、聞いたことがない)
リアンは思い返す。
《紋章書》――すべての紋章師にとって根幹となる記録書。
紋章教会が数百年をかけて編纂した、既知のすべての紋章を網羅する法典だ。
そこには、素材・効果・構造分類まで詳細に記されており、登録されていない紋章は、基本的に“存在してはならないもの”とみなされる。
だが、その“記録”のどこにも、不死鳥の名はなかった。
(それでも、俺は何度も見ている。何度も……)
思考が巡る中、リアンはそっと立ち上がり、焚き火に薪を一本足した。
炎がぱちりと音を立て、あたりに再び柔らかな光が満ちる。
彼は胸元に手を当て、静かに目を閉じた。
左手の甲に、小さな淡い青色の紋章が浮かんでいる。
探知紋。
これは紋章素材や霊素の流れを“感じ取る”ための基礎紋章。だが今は、別の目的で使う。
――魂の奥へ、潜れ。
それは《魂の導き手》の技法。
魂という“生きた記録”の表層をなぞり、奥へ、さらに深く、過去と記憶へと沈み込む術だ。
死者の想いも、生者の痛みも、魂はすべてを覚えている。
リアンは深く息を吸い込み、世界から感覚を切り離した。
焚き火の音が遠ざかり、視界が閉じていく。
そして――
彼の前に、また“彼女”が現れた。
赤い髪が宙を泳ぎ、金色の輝きがゆらりと揺れる。
その目がリアンを見つめ、伸ばされた手が、何かを訴えるように揺れる。
けれど、やはり声は届かない。
だが、今回は違った。
彼女の唇が、わずかに動いたのだ。
音にならない囁き。
けれど、それは確かに、“言葉”だった。
意味を超えて、魂に響く震えとなって、リアンの中に流れ込む。
金色の紋章が、彼女の背でふいに広がる。
まるで炎そのもののような、光の翼。
それは紛れもなく、《蘇り》の象徴――不死鳥の紋章。
眩い光が視界を覆い、夢は弾けるようにして消えた。
リアンは息を吐き、目を開けた。
静かな夜。森はまだ闇に沈み、焚き火だけが、現世との繋がりを灯していた。
ふと、自分の手のひらを見つめる。
「……あれは、誰だ。なぜ、僕に見せる」
自分の魂が彼女を呼んでいるのか。
それとも、彼女の魂が、自分を呼んでいるのか。
どちらでもいい。
――だが、それを確かめずにはいられない。
魂が歌い、紋章が訴えているのなら、それを“記録”するのが紋章師であり、
“読み解く”のが、導き手の役目なのだから。
リアンはゆっくりと荷をまとめ、旅装を背負い直した。
そして、焚き火に水をかけ、静かに立ち上がる。
その瞬間――
森の奥から、かすかな旋律が、再び耳をくすぐった。
風ではない。
鳥の声でもない。
魂の歌。
リアンは迷いなく、その歌を追うように、深い森の闇へと足を踏み出した。