第1話 魂を導く者
夜が深まる森の中。
焚き火の赤が、ゆらゆらと闇を押し返していた。
吹き抜ける風は冷たく、木々のざわめきも途絶えている。まるで世界そのものが息を潜め、彼一人を取り残したかのようだった。
「……また、だ」
男は身を起こした。
額を伝う汗が頬を濡らし、呼吸は浅く速い。心臓の鼓動が耳に響き、胸の奥を打ち破ろうとしていた。
夢だ。だが、いつもの夢。
赤い髪。炎のように揺れる長い髪。
紅の瞳。
そして背に――金色の、不死鳥の紋章。
「……不死鳥の紋章なんて、聞いたこともない」
「なのに、どうして俺に……」
問いかけても、答えは返らない。
ただ、沈黙に押し返されるばかりだった。
それでも胸の奥で、微かな疼きが確かに走る。
夜風が止み、森の奥でわずかに光が瞬いた。
リアンは顔を上げ、微かな違和感に眉を寄せる。
――空気の流れが変わった。
冷たいはずの風の中に、温度を持たない“何か”が混じっている。
「……いるな」
彼は静かに膝をつき、右手を見つめた。
指先がわずかに震え、刻まれた《箱舟の紋章》が淡く脈打つ。
魂の呼び声が、皮膚の下を伝って胸の奥を叩いていた。
「……舟は、ここにある。――行こう」
次の瞬間、彼の背後に形なき《箱舟》が揺らめく幻影となって浮かび上がる。
右手に刻まれた《箱舟の紋章》が淡く脈動し、光を帯び始めた。
瘴気を押し返すように清浄な波紋が広がり、淀んでいた空気にかすかな澄明が戻っていく。
足元の草がそよぎ、亡骸の周りに淡い光が集まった。
それは人の形を保たぬまま、儚く震える魂の残滓。
リアンはそっと手を伸ばし、その光に触れる。
「もう……大丈夫だ。怖くない」
まぶたの裏で、断片的な記憶が流れ込んでくる。
炎に包まれた家、泣き声、叫び、絶望――
すべてが胸の奥に突き刺さる。
彼は歯を食いしばり、逃げるように目を閉じた。
だが、すぐに顔を上げる。
導き手として、その痛みを拒むことはできなかった。
「……最後まで、見届けるよ」
光が彼の掌から流れ込み、舟の幻影へと溶けていく。
穏やかな風が吹き抜け、森のざわめきが戻った。
魂は一筋の光となり、夜空の彼方へと昇っていった。
「……安らかに」
リアンは小さく息を吐き、右手を胸に当てた。
その指先は、まだ微かに震えている。
彼の眼差しは静かだったが――その奥には、確かに痛みが残っていた。
静寂が戻る。だが――風が変わった。
鉄の臭気、腐敗の匂い。肺を突き刺す瘴気。
不快な気配が森を蝕んでいる。
「……来る」
警告を吐き捨てるように呟いた瞬間、茂みを裂いて影が飛び出した。
煤けた毛並み。濁った眼。
牙は異様に伸び、体毛の隙間から黒い瘴気が滴り落ちる。
生き物でありながら、既に獣ではない。瘴気に蝕まれた影獣。
男は短剣を抜き、左手を掲げる。
紋章が光り、刃に風が宿った。冷たい夜風が刃の周りで唸りを上げる。
「行くぞ!」
斬撃。
風が走り、影を裂く。瘴気が煙のように弾け飛び、空気を汚す。
「……一体じゃないな」
林の奥から、さらに五、六体。
濁った眼が同時にぎらつき、獲物を見据えた。
「……数が多い」
横合いから飛びかかる影。
「ちっ!」
身を沈め、風に滑るように回避。すれ違いざまに首筋を断ち切る。
「次!」
正面から突進してきた影に、逆手の短剣を叩きつける。
「止まれッ!」
風が刃を押し広げ、獣の体を地面に縫い付けた。呻き声が途絶える。
「怨嗟か……」
「なら……俺が終わらせる!」
刃を握り直し、踏み込む。
だが数に押され、肩をかすめた爪が肉を裂いた。温かな血がじわりとにじむ。
「くっ……!」
呼吸は荒く、肺が軋む。
脚は重く、動きが鈍っていく。
(まずい……!)
群れが一斉に飛びかかる。獰猛な影の波が押し寄せる――その時。
轟、と炎が咲いた。
火柱が闇を裂き、火の粉が夜を昼に変える。
獣たちはまとめて炎に呑まれ、断末魔の声を上げて崩れ落ちた。
「……なっ!」
炎の向こうに、人影が浮かび上がる。
銀の髪。金の瞳。
大剣を担ぎ、赤い火を纏った女。
「やれやれ……子どもが夜遊びには向かないでしょ」
男は荒い息を吐き、睨み返す。
「助けてくれたことには礼を言う。でも……子どもじゃない」
女は片眉を上げ、唇の端をわずかに吊り上げる。
「なら聞くわ。――あんたは誰?」
「……リアン、導き手だ」
女の瞳が細められる。
「導き手? 普通は“守り手”が一緒にいるはずでしょ」
リアンは黙る。
「……ああ、言いたくないこともあるか」
女は大剣を背に戻し、ひらりと肩をすくめる。
そして少し遅れて、軽く顎をしゃくる。
「私はサラ。通り名は――“死を運ぶ鳥”。」
夜風が吹き抜け、炎に照らされた銀髪を揺らす。
「ここは危険だし、街まで行きましょ」
そして、ニヤリと笑う。
「――助けてあげたんだから、ご飯くらい奢りなさいよ」
リアンはため息を吐き、肩を落とした。
「……命の借りが、飯一杯で足りるなら安いもんだ」
サラは楽しげに肩を揺らす。
「そうそう。女の胃袋を甘く見るんじゃないわよ」
リアンは小さく息を呑み、苦笑を浮かべる。
「……奢りで破産しなきゃいいけどな」
森を渡る風が二人の間を抜けていく。
魂の歌は、まだどこかで響いていた。
夜風は湿り気を帯び、月明かりが梢の隙間からこぼれ落ちていた。
炎に焼かれた獣の死骸はまだ燻り、鼻をつく焦げた匂いを残している。
サラは肩の大剣を軽く担ぎ直し、何でもない調子で口を開いた。
「で、あんた……本当に一人でこんなとこ歩いてたの?」
リアンは血に濡れた肩を押さえながら、視線をまっすぐ前へ向ける。
その横顔には痛みを隠す張り詰めた色があった。
「……ああ」
サラは鼻で笑う。
「正気? 瘴気獣の群れに囲まれて死ぬ未来が見えなかった?」
リアンの返答は迷いなく、短い。
「死ぬつもりはなかった」
「強がり」
サラはちらりと彼の肩へ視線を流し、唇の端を吊り上げる。
「さっき、かすめられてたじゃない」
リアンは少し眉をひそめ、低く返した。
「……見てたのか」
「全部ね」
サラの声は軽いが、その眼差しは真剣さを帯びている。
「死に急ぎの坊やかと思ったけど、案外しぶとい」
リアンは淡々と返す。
「坊やじゃない」
その即答に、サラは小さく吹き出した。
「ふふ、むきになると余計にそう見えるわよ」
二人の足音が、落ち葉を踏みしめるたび乾いた音を残す。
森の中の静けさに、言葉はやけに際立って響いた。
やがてリアンが低く口を開いた。
「導くことは……死に急ぐようなものだ」
その声音には、覚悟と諦観が入り混じっていた。
サラは横目で彼を一瞥する。
「ふーん。自覚あるんだ」
リアンは揺らがず、まっすぐに言葉を続けた。
「でも、誰かがやらなきゃ……魂は縛られたままだ」
その真面目さに、サラは鼻を鳴らした。
「真面目ね」
そして、にやりと笑う。
「嫌いじゃないけど、長生きはできなそう」
短い沈黙が二人を包んだ。
夜風が梢を渡り、枝葉を揺らす。
その音は、わずかに冷たさを増して二人の間を吹き抜けていった。
やがてサラが肩をすくめ、軽く言う。
「で、守り手はいないってこと?」
リアンは言葉を選ぶように間を置いた。
「……ああ」
「喧嘩でもした? それとも……最初からいない?」
サラの声は探るようでいて、どこかからかう響きを含んでいる。
リアンは目を伏せ、短く答えた。
「……言いたくないこともある」
サラはにやりと笑い、深く追及することはしなかった。
「やっぱりね。まぁいいわ。余計なお世話だし」
彼女の軽口が、重たい空気を少しだけ和らげた。
夜の森を抜ける二人の影は、月明かりに長く伸びて重なっていた。
森を抜けると、遠くに高い石壁が月光を受けて冷たく光っていた。
戦乱に晒された大地のただ中で、そこだけが要塞のようにそびえている。
リアン「……あれが街か」
サラ「ヴェルダ・クローネ。瘴気の海に浮かぶ島みたいなもんよ。……初めて?」
リアン「ああ」
サラ「なら目を丸くするわね。門の前は人と荷馬車でぎゅうぎゅうよ」
近づくにつれ、喧騒が耳を満たした。
荷馬車の車輪が軋み、商人が怒鳴り、祈りを捧げる巡礼者が列を作る。
鎧を鳴らす冒険者たちが笑い声を響かせ、瘴気の大地とは正反対の熱気がそこにあった。
リアン「……本当に……こんな場所で人が暮らしてるのか」
サラ「生きるためなら人はどこでもしぶといわよ。ほら、行くわよ」
門番がサラに目を留める。
兵士「……“死を運ぶ鳥”。お前か。通れ」
サラ「ありがと。ついでに後ろの坊やも」
リアン「坊やじゃない」
サラ「うるさい。一緒に通すでしょ」
二人はざわめきの中を抜け、石壁の門をくぐった。
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街の中――。
石畳を埋める人、人、人。
露店からは香辛料や肉の匂いが漂い、どこかで鐘が鳴っている。
瘴気に覆われた外とは打って変わって、ここには確かな生の匂いがあった。
リアン「……こんなにも活気が……」
サラ「死人だらけの森と比べたら、そりゃ生きてる実感も強いでしょ」
リアン「……確かに」
サラは振り返り、にやりと笑った。
「さ、約束どおり。ご飯ね」
リアン「……やっぱり、それ本気だったのか」
サラ「当然。女に恥をかかせる気?」
リアン「……わかったよ」
(小さくため息)「命より重い飯代にならなければいいな」
サラ「ふふ。せいぜい稼ぎなさい、“導き手”さん」
リアンは苦笑を浮かべた。
「……奢りで破産しなきゃいいけどな」
リアンは苦笑を浮かべながらも――この銀髪の女に振り回される未来を、もう予感していた。




