第117話 《星明りの天幕で》
――炎が消えた。
赤い残光も、黒羽の嵐も、すべて夜風に流されていく。
荒れ果てた大地の真ん中に残ったのは、息を荒げる二人の影だけだった。
リアンは膝をつき、サラの肩を必死に支えていた。
「サラ……! 大丈夫か? まだ痛むのか……?」
返ってきた声は、まるで擦れた糸のように細い。
「……あたま……まだ……ズキズキ……する……」
額を押さえるサラの指が小刻みに震えていた。
普段、平然と化け物じみた炎を振るう彼女が――こんなに弱い声を出す。
それを見ただけで、リアンの胸は締め付けられた。
「ごめん……俺が、もっと早く……もっとちゃんと助けていれば……!」
悔しさの塊が喉に詰まり、掠れた声になる。
サラはゆっくり顔を上げ、弱いけど、ちゃんと笑ってみせた。
「何言ってんのよ……あんた……
十分すぎるくらい戦ったじゃない……。
それに……ほら……間に合ったでしょ……? 私、ここにいるもの……」
「でも――!」
「しつこいっての……。
後でまとめて怒るから……覚悟してなさい……」
強がりのはずなのに、指先の震えは止まらない。
その小さな震えが、リアンには刺すように痛かった。
⸻
その時、霧を裂くように足音が近づく。
「リアンくん――!」
柔らかい声。
金色の風をまとったセラフィナが駆け寄ってきた。
すぐ後ろには、腕にルディアを抱えたユリオ。
「セラフィナさん……!」
振り返ったリアンを見て、彼女の表情が緊張に変わる。
「リアンくん、大丈夫ですか? どこか怪我を――」
「俺は平気! でも、サラが……!」
リアンの声の焦りに、ユリオが眉を上げた。
「サラが……? 怪我なのか?」
「違う……外傷じゃないんだ……!
赤髪の女に触れられてから、急に……!」
セラフィナは迷いなくサラのそばへ膝をつき、額に指先をそっと当てた。
その瞬間、淡い光がゆらりと揺れる。
表情がわずかに陰る。
「……外傷はありません。ですが……これは……」
静かな呼吸を置き――確信するように告げる。
「――おそらく、不死鳥の紋章の力に逆らったことで起きた“精神負荷”です。」
「精神……負荷……?」
「はい。
あの炎は魂に触れます。焼かれるのではなく――“魂を揺らす火”です。
サラさんはそれを、力づくで弾き返したのでしょう。」
リアンの胸が冷たくなる。
「サラが……そんな危ないこと……!」
握った手に力が入りすぎて震える。
サラはその震えに気づいて、小さく肩を揺らした。
「おおげさ……よ……生きてる……ってば……
ただ……ちょっと……頭が……ぐらんぐらんするけど……」
「“だけ”じゃないよ! こんなに……苦しそうなのに……!」
リアンの声が震えると、サラは弱く眉を上げ――少しだけ照れたように目を逸らした。
「……そんな顔しないでよ……
心配になったら……私が困るじゃない……」
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ユリオが抱えていたルディアは、まだ気を失ったまま。
胸はゆっくり上下しているが、顔色はまだ青い。
「ルディアは……どうなんだ?」
リアンの問いに、ユリオが低く答える。
「精神疲労が限界を越えている。
セラフィナ様が意識安定を施したが……まだ深い眠りが必要だ。」
「……そんな……」
リアンが歯を噛むと、セラフィナが優しく言った。
「心配しなくて大丈夫です。
ルディアさんは――よく耐えました。
あとは休息だけが必要です。」
彼女は風の匂いを読み、一度だけ振り返る。
「……この場は危険です。
ラザンは退いたようですが、戻らない保証はありません。」
淡い光が霧となって広がり、冷たい風を押し返す。
「少し先に、紋章教会の簡易野営地があります。
今日はそこへ移動して休みましょう。」
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リアンは頷くと、サラをそっと抱き上げた。
「ちょっ……リアン!? 本当に歩けるって……!」
「嘘だろ。立てなかったじゃん。今は休んでろ。」
「……くっ……!
覚えてなさいよ……! 後で絶対怒るから……!」
「うん。いくらでも怒っていいよ。」
サラは顔を真っ赤にしながらも、腕の中で力を抜いた。
さっきより呼吸が落ち着き――安心するようにゆっくり目を閉じる。
その姿を見て、セラフィナは微笑む。
「……行きましょう。
夜明けまでに、あなたたちに“休息”を。」
ユリオがルディアを抱え直し、強い足取りで前へ出る。
「前方は私が護る。
リアン、サラ殿をしっかり支えていけ。」
「わかってる……!」
四人は夜の冷気を背に、
戦場の炎跡を離れ、静かな野営地へと歩き出した。
――冷たく乾いた夜風の中を歩くたび、靴裏に乗る砂の音がやけに大きく響いた。
ようやく、闇の向こうに淡い光が揺れる。
簡易野営地。
薄布の天幕が三つ。
その周囲には、〈紋章教会〉の白銀の紋を刻んだ灯火が、弱く、でも確かに夜を照らしていた。
「……あれが」
リアンは息を吐き、腕の中のサラを抱え直した。
彼女の体温は、さっきよりずっと落ち着いている。
そのわずかな変化だけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
布を揺らして入ると、冷えた空気が一段やわらぎ、ほんの微かな暖気が頬に触れた。
「ここで休ませてやるといい。」
ユリオが言い、ルディアをそっと敷き寝台に横たえた。
彼女の顔色は青いままだが、呼吸だけはゆったりしている。
「ルディア……よく……あんな状況で……」
ユリオは拳を握りしめ、一拍だけ目を閉じた。
その仕草に、深い安堵と仲間への敬意が滲んでいた。
リアンはサラを抱えたまま、ゆっくりと膝をつく。
そっと寝具へ横たえ、崩れた銀髪を整える。
「……サラ」
眠る顔は、戦場で見た“炎”の気迫とは別人のように柔らかかった。
「……よかった……。本当に……よかった……」
頬の赤みが戻り、寝息も穏やか。
温かい指がリアンの手の中でかすかに動く。
「……寝てろよ。今くらい……俺に、勝手をさせてくれ……」
誰に聞かせるでもない小さな声だった。
しかし不思議と、サラは指を弱く折り返して応えた。
それだけの仕草で、胸の緊張がほどけていく。
ユリオが立ち上がり、天幕の入口へ向かう。
「ユリオさん、どこへ?」
「見張りだ。……外の風が、まだ落ち着いていない。」
「そんな……疲れてるはずなのに……」
「私は大丈夫だ。」
振り返ったユリオの声は淡々としている。
だがその目には、仲間ふたりを守り抜いた誇りが宿っていた。
「サラも、ルディアも……無事とは言えんが、生きている。
それだけで、十分に心が動く。疲れなど問題ではない。」
リアンは言葉を失い、ただ頷いた。
ユリオは静かに出て行き、夜の冷たい風の中に姿を消す。
「……リアンくん」
残された天幕の中で、セラフィナが声を落として呼んだ。
「はい……」
「サラさんを守れて……本当によかったですね。」
その言葉は、責めでも慰めでもない。
ただ、導き手としての温度だけを含んだ静かな声だった。
リアンの胸が少しだけ軽くなる。
しかし――次の言葉の前に、セラフィナの雰囲気が変わる。
「……不死鳥の紋章が、動き始めました。」
「えっ……!」
リアンの心臓が跳ねる。
「赤髪の女があなたに執着している理由はわかりませんが……あなたの《箱舟の紋章》が反応していました。」
「……あれは……何なんですか……?」
セラフィナはゆっくり目を伏せ、言葉を整えるように息を吸った。
「不死鳥の紋章は……導き手の“始祖”の紋章です。
魂と世界を正すために作られた……意思ある紋章です。」
「意思……?」
「はい。」
柔らかい声なのに、その響きは深く重い。
「昔……とても昔。紋章は一度、粉々に砕け、世界へ散りました。
その欠片――それが……導き手の紋章です。」
「……そんな……」
「導き手の紋章は、魂と深く繋がり……世界の瘴気を浄化します。
本来、その力は……一つの存在だったのです。」
リアンの胸に、言葉の重みが沈んでいく。
「不死鳥は今……散らばった欠片を集めようとしているのです。」
「……もし、集まったら……?」
「世界中の魂が浄化され……すべて《理》へ戻ると言われています。」
セラフィナは静かに続ける。
「そして……導き手は全員、死にます。」
天幕の外の風の音が、一瞬で消えたように感じた。
リアンは呼吸を忘れた。
「……そんな……そんなの……」
「酷い話です。
でも……導き手として生まれたということは……そういう摂理なのかもしれません。」
セラフィナはほんの少し、寂しげに微笑んだ。
「人はいつか死にます。
導き手も……例外ではありません。
なら……導き手として死にたいと、私は思っています。」
その穏やかさが逆に刺さる。
「皆……優しい人ばかりなのです。
苦しみや悲しみや怒りを見ても……なお、魂を救いたいと願う人たち。」
視線が細く揺れた。
「だからこそ……“導く者”へ堕ちてしまう人もいます。」
リアンは拳を握る。
「……でも、どうか責めないであげてくださいね。
誰よりも優しい心を持っていた人たちですから。」
リアンは言葉を失い、ただセラフィナの声を聞くしかなかった。
彼女は静かに付け加える。
「生きている限り、人は足掻きます。
私も、あなたも。
だから……今日は休んでください。考えるのは……明日でいい。」
「……セラフィナさん……」
「続きは紋章教会本部でお話しします。
今は、あなたが倒れたら……誰も守れませんから。」
その微笑みは、導き手としての優しさそのものだった。
「――おやすみなさい、リアンくん。」
天幕の布が揺れ、夜の冷気が彼女の後ろ姿をさらう。
(……導き手が……全部……死ぬ……?
俺も……?)
胃の奥がひっくり返るような感覚。
でも――
眠るサラの寝息が、静かに胸に響く。
(……守りたい。
どんな未来が来ても……俺は……)
外の風の音だけが、夜を満たしていた。




