伊勢新九郎異聞~関東王へ~
(鎌倉か)小説的には、新九郎盛時の感傷を描きたい。
(勝幡院殿〈足利政知〉の夢に、わしが近づいておるわい)
執権北条氏後裔を名乗り、関東を統治する。それは、新九郎の案だったという。実際に、伊勢氏綱が北条姓に改めるのは、新九郎の死後だが、もしかすると、鎌倉が視野に入った時点で、このことをかんがえついたのかもしれない。
いかにも、有識の伊勢氏らしいアイデアだ。ーー伊勢氏なら、八幡始めや武権神授説についても、心得ていただろう。
(関東の王として、大神姓北条氏の後裔を名乗るのが相応しい)
そのくらいの覇望を後年抱いていてもおかしくない。もともと、伊勢氏は維衡流平氏である。北条時政もこの姓に仮冒を働いていて、両者は系図では同族なのだ。
しかし、南伊豆に逃れた茶々丸も、しぶとかった。関戸氏や狩野氏(工藤氏より発する)伊東氏(同じく工藤氏流)といった伊豆の有力者、山内上杉氏、甲斐の武田氏、これらの後援を得て、新九郎に対抗する。
関戸氏には武蔵に発祥する藤原北家山陰流と大和に発する大神氏流がある。距離的に武蔵の山陰流かとかんがえたが
北条得宗家がそもそも伊豆の豪族で、大神氏ではないか。茶々丸に味方した関戸氏は、大神氏流であろう。
茶々丸は、足利家ながら、日野氏娘を母親に持つわけでもない。伊豆の後戸の客は冷淡かと思ったが、そうでもないらしい。
新九郎の発想からすれば、伊豆は是非に抑えたく、これは、義澄弟の仇を取る義戦であり、おのれが北条家末裔として伊豆を領する必要条件でもある。
新九郎は、韮山城を拠点とし「韮山殿」「豆州殿」と呼ばれるようになった。伊豆の国人を味方につけながら、じょじょに茶々丸を追い込んでいく。
そんな彼に、試練が降りかかった。
明応七年(一四九八)八月二十五日
明応の大地震だ。
これは今なにかと話題の南海トラフを震源とした地震で、紀伊から房総にかけての沿岸に大津波が押し寄せ、伊豆も大被害をこうむった。「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」(『後法興院記』)
これは新九郎にとっても痛手になった。だが、伊豆での覇権を失うことをおそれた新九郎は、賭に出た。
動員できる限りの少人数で、伊豆深根城(静岡県下田市)にいる茶々丸を襲撃し、見事、討ち取ったのだ。
(五年・・長かったわい!!)
感無量であろう。もともと食い詰めて駿河の姉上を頼って下向してから、おのれに寄る勢力と、おのれが寄る勢力との間で、交渉をくり返してきた。
伊豆一国を切り取り、今や、歴とした戦国大名である。
伊豆打入が明応二年(一四九三)閏四月から九月であり、明応四年(一四九五)二月の文書では
「早雲庵宗瑞」
法名になっている。茶々丸を追う戦いのなかで、出家したのだ。明応四年には満三十九歳、数え年で四十・・ーーー
(官界は捨てた)そう思い切ってもいい年頃だろう。(なにやら、義材との戦いも収まらぬ。京都は焼け野原で、百鬼夜行じゃ
(こなたで、富士を眺めながら春秋を重ねるのも一興)
そううそぶきつつ、堀越公方になる予定だった潤童子の仇を討ち、堀越御所のある豆州を領している。
(わしが、堀越公方の後継者だ)
その思いは赤々としていて、自然、政知が執着していた関東征伐の再開が、早雲庵宗瑞の頭にはあった。
官界から解き放たれ、在野へ。
関東平野へ。
北条早雲は、堀越公方の継承者として臨んだのだ。




