秦王
河内源氏の祖・源頼信、二代頼義、三代八幡太郎義家。
このあたりで、武権神授説は成立した。ーーまず頼信の代に、平忠常の乱が起こった。房総平氏の忠常は、母親が平将門娘だ。上総、下総、常陸に広大な領地をもつ忠常は、朝廷に反旗を翻し国府を占領、一回目の討伐軍である中原成道と平直方を退ける。
二回目の討伐軍に源頼信が派遣され、見事平忠常を降服させ、斬首する。これによって、河内源氏は関東に勢力を拡げる。
そして、坂東平氏・平直方との縁もできた。二代目頼義は、直方娘をもらい受け、関東の地盤を手に入れる。ーー房総平氏の忠常は、千葉氏や上総氏が有力な良文流である。平良文流は傍流に藤原為憲流があり、半後戸の客である。その上、平将門を討伐した藤原秀郷流の勢力があり、秀郷流は利仁流との縁組みで関東の地盤を譲られている。
関東は、秦氏の淵叢(エンソウ、物事のおおく集まる場所)だった。
しかも、将門、忠常と二回、大きな反乱が起こっている治まらない土地だ。
(よほど、準備をせねばならぬ)
このとき、頼義の頭に武権神授説の祖型があった。発案者は分からないが、関東の秦氏を治めるために、秦氏の神を奉じる。ーーその一族と縁組みした上で、関東に入部する!! 真事、キリスト教に改宗して同教徒の領民を慰撫する昔のヨーロッパ領主に似ている。
頼義は、関東の地盤とともに直方から譲り受けた鎌倉に、鶴岡八幡宮を建てた。石清水八幡宮を勧請し、八秦神を源氏の氏神とする。この動きに、どういう契機か、真夏流が乗っかり、藤原有綱娘が義家に嫁ぐ。
ーー息長氏など、奈良朝に入るころにはほとんど見られなくなった稀少な氏姓だ。だが、河内のあたりには、近世まで残っていたという説がある。
頼義は河内国壺井に壺井八幡宮を建て、こちらにも石清水八幡宮を勧請している。
このあたりで、息長氏の人脈にかかり、真夏流が動くことになったのだろう。
右の経緯をハイライトするために「八幡始め」という用語を加えたい。実際、用語でまとめた方がいい程度にこみ入っている。鎌倉は、八幡始めの聖都であり、後戸の客が神聖視する由縁になった。ーーというより、河内源氏がこだわることになったのだろう。八幡始めは三代の偉業だ。
宗教を基軸にした、関東スクロールアウト同盟、それが初期の武権神授説だ。
さて、盛大に話が脱線している。
そんな、地下と堂上のけなげな連合が武権神授説とスクロールアウト同盟であり、在野の勢力としては目を瞠るものがあるものの、その中心にいる日野氏は、たかがと言っては悪いが、たかが「名家」なのだ。
下から二番目の階層である。
ーー本願寺証如と顕如は「摂家」九条流の猶子なのだ!! この縁組みは、本願寺のさらなる飛躍の前段となる。
本願寺は、摂関家を二代出している(猶子になっている)ことを根拠に、自分たちが「門跡」になる資格があると、訴え出たのだ。
門跡、というのは
早く言えば、朝廷御用寺院だ。ーー皇族や公家を住持として迎え、特別の礼遇や特権を授かる。
国家第一級の寺格を得る、ということだ。
門跡寺院には
興福寺一条院
本願寺の属する青蓮院
東叡山輪王寺(寛永寺)
日光輪王寺
天台宗寺門派(総本山圓城寺、三井寺)
聖護院
嵯峨山真言宗大覚派大本山大覚寺(大覚寺統発祥、太秦に近い)
真言宗醍醐派総本山醍醐寺三宝院
真言宗山科派大本山勧修寺(カジュウジ、藤原北家勧修寺流発祥)
東大寺東南院
浄土宗総本山知恩院
日蓮宗本山瑞龍寺
などがある。
そうそうたる寺号である。門跡は、具体的に皇族や公家が住持となる建物を指すため、つまり、門跡寺院を持つ宗派は、それだけで特別視される。興福寺一条院は興福寺の塔頭でもっとも高い格式を誇る。聖護院は修験道で有名だが、門跡を擁することで、その0(ナル、聖)の威光を帯び、山伏らの神聖さの根拠となるのだろう。
日本の仏教は皇室の神聖さと不可分一体である。
新興、というには歴史があるが、まあ、蓮如から台頭し始めた本願寺が、これらに並ぶ、伸るか反るかの請願である。
永禄二年(一五五九)百六代正親町天皇(おおぎまち天皇)より、門跡昇格の宣下を賜る。あわせて、青蓮院から独立。
彼らは、殿上の人々を迎える朝廷御用寺院となった。
ーーもう少し、日野家と本願寺の関係をつづけたい。なんというのか、あざなえる縄の如しであり、禍福のように表裏なのだ。
と、言うのは、四代宗主・善如上人(一三三三─一三八九)のあたりから、室町幕府が成立し、日野家がいわば闇将軍とも言うべき位置につくわけだが、前後の本願寺宗主は、こうなる。
『二代如信上人(親鸞の孫)三代覚如上人(親鸞の曾孫)四代善如上人(覚如の孫、日野俊光猶子、室町幕府成立)五代綽如上人(善如の子、日野時光猶子)六代巧如上人(綽如の第二子、日野資康猶子)七代存如上人(巧如の長男、日野氏分家広橋氏兼宜猶子)八代蓮如上人(存如の子、日野氏分家広橋氏兼郷猶子)』
じつにわかりやすい。
つまり、日野家が闇将軍になった時点から、猶子縁組みを開始している。
ーーつくづく彼らは親戚である。
と、いうことは、本願寺と日野家の縁は、日野家の闇将軍としての権力を当て込んだものだったということが分かる。これはもちろん、逆もまた然りだろう。
九代実如上人(蓮如の子、日野勝光猶子)のあたりまでは、まだまだ、幕府は健在であり、日野家と結ぶ意味があった。だが
十代証如上人(九条尚経猶子)
十一代顕如上人(九条稙通猶子)
であり、要するに
(日野家と結ぶのもここまでよ)
という気分がハッキリと見て取れる。
この一族は・・ーーーー
というより、室町幕府の闇将軍が日野家なら、その血筋であり、武権神授説の条件そのもの、かつ全国に教勢を誇る本願寺は
戦国時代の闇将軍
そう呼べる位置にいる。
ーー信長は、既存史観で捉えられている以上のとんでもないものを敵に回していたのだ!!
信長は、特に日野家に接近した様子がないが、それはそうだろう。
生涯最大の敵対勢力が、日野一族と不可分の宗教勢力だったのだ。
(ーーあんな化物と結べるか!!)そういう心情が濃厚にあり、これは、彼の後継者となった豊臣や徳川政権にも継承されることになる。
明の朱元璋が、白蓮教の僧侶だった巨大な例がある。
本願寺が天下統一を成し遂げる可能性は、かなり濃厚だったのだ。出家した上皇を法皇と呼ぶように、日本に「法将軍」が出現していたかもしれない。あるいは、弓削道鏡以外就いた例のない「太政大臣禅師」「法王」かもしれない。
ここまで上り詰めた本願寺は、もはや、日野家の後援を必要としない。
特に、九条家と猶子関係になってからは、日野家以上の家格と付き合う方が肝要となった。東西の本願寺と分かれてからは、それぞれの宗主が代々九条家、近衛家といった「摂家」級と縁組みし、親王とも縁組みしている。
明治後は、名字を名乗る必要があり、この本願寺一族は「大谷」姓となり、日野家庶流に数えられている。
大谷一族というべきだろうか、本願寺と、宗家・日野家との決別を匂わせるエピソードがある。元亀天正年間に日野家当主だった輝資が、慶長七年(一六〇二)よせばいいのに「摂家」従一位関白・近衛信伊を相手に口論し、嫡子・資勝ともども、朝廷への出仕を禁じられ、さらに京都から追放された。このとき近衛信伊は「日野家は九条家の家来である」と発言し、これに輝助が反論して論争になった。
まさに大谷一族が、その九条家に、日野家を見限ったように猶子に入ったのだ。
これを関白に公言されてしまってはたまらない。日野家は、藤原有国(九四三─一〇一一)の代以来、摂関家の家司を輩出し、鎌倉時代に摂関家が五摂家に分裂すると、九条家に接近して立場を保った。ーーしかし、摂関家の家司とは、またコンプレックスを刺激しそうな立場である。本願寺も、この前段があるからこそ、日野家経由で九条家に猶子縁組みしたのだろう。
その九条家に系譜をつなげた本願寺が、さらに門跡となり、名家でしかない日野家よりよほど上位に立った形である。「日野家は九条家の家人でしかない」といわれてしまっては、立つ瀬がないのだ。
しかも、輝資自身、苦しい立場だ。彼は日野家を継いだが、もともとは分家の広橋家の生まれであり
七代存如上人(巧如の長男、日野氏分家広橋氏兼宜猶子)
八代蓮如上人(存如の子、日野氏分家広橋氏兼郷猶子)
とつづいた広橋家と本願寺の縁故を意識しての家督相続なのは明らかだ。それほど、本願寺と、大谷一族と立場逆転してしまっているのに、九条家の家人扱いされては、完全敗北を認めさせられるようなものだった。
こうして、関白と論争になった輝資は京都を追われ、家康に取りなされてまた戻った
そして、輝資の後も、代々彼の系譜が、つまり、広橋家の系譜が日野家当主となるのだ。ーーつまり、蓮如以降の本願寺を無視しては成り立たなくなった。
ーーこれらの哀しさ、コンプレックス、その反発、権謀、露骨な固め打ち・・
日野家は、なんだかんだで秦の盟主たる一族である。




