ヴェルテからの旅行者
「スティーブンスさん、スティーブンスさん、気が付かれましたか?」
瞼が重い。体が重い。
さっきから聞こえてくる声はヴェルテ語を一生懸命話している。
なぜヴェルテ語なのかわからないが、懐かしい声のような気がする。
思い切って目を薄く開ける。
心配そうにのぞき込む女性の顔が朧気に見えて来た。
は、はうえ?
掠れた声だ。自分が出したとは思えない。
「気が付いたわ! ああ、よかった! 早くお医者様を! 早く!」
今度はデュフレーン語だ。
続いてバタバタと走り去る音がする。
慌ただしいな……
母上はいつだってそうだ。
黙って座っていれば貴婦人然としているのに。屋敷でだっていつも何かやらかしている。
そして最後はいつも父上に頼るのだ。
ランドール、ランドール、助けてランドール。どうしてこんなことになったのかしら。
父上は母上に甘い。
ああ、エメライン。君が悪いんじゃない。
気付けなかった私が悪いんだよ。
いつもそう言って……
いつもそう言って。
「エメライン! 最後の負傷者が目を覚ましたというのは本当か!」
その声にローランドは飛び起きた。途端、痛みにうめき声が出た。
「ぐうっ!」
そこはテントで、仮のベッドに寝かされていたことに気付く。そしてベッドの脇にはずらりとたくさんの人が立っているのだった。
「ここは……」
「まあ、本当にエメライン様にそっくり。安心なさってね。ここは救護所ですのよ。あなたはウブド山の噴火に巻き込まれて怪我をされたんですよ」
「みんなは! デュフレーンは!」
「ヴェルテからの旅行者の方、もう安心ですから。王家が全力で守ってくださったので、建物や農地に被害は出ましたが、みんな無事でしたよ」
ヴェルテからの旅行者? では、俺は。
デュフレーンのローランドではないのか?
精霊王はあの旅行手帳の人物に俺を変えたというのか?
あれは、あの名前はまずい。普通に船に乗ってデュフレーンを出る予定だったからあのまま持っていたのに。高位の官僚などが見るはずもないモノなのに。
父上があれを見たら。
「ウブド山の噴火に巻き込まれるなんてお気の毒に。気が付いてよかったわ。ウブド山は湖まで吹き飛んで、すっかり形が変わってしまったわ。噴火もだけど、その後の地震が、それは凄かったんですよ。でも王家のおかげで軽傷者ばかりで」
デュフレーンは助かったのか。
精霊王は約束を守ってくれたんだ。
でも、俺は? 命を取られたはずなのに、なぜ生きている?
「でも、本当にエメライン様にそっくりね。あなたが一番怪我が酷くて、一週間も寝たきりだったんですよ」
ロウ宰相がベッドの傍までやって来る。
「私はデュフレーンの宰相でロウと申す者。ああ、良かった、本当に良かった。ヴェルテからのお客人、気分はどうかな? 痛むところは?」
流暢なヴェルテ語だ。
「あの、デュフレーン語でどうぞ。わかりますから。体中が痛いですが、大丈夫です」
「では、ランディス・スティーブンス殿、少しばかり質問をよろしいかな?」
そしてテントから人払いをすると厳しい宰相の顔つきになった。
ランディス・スティーブンス。
ローランドは泣き笑いになる。宰相の、父の言わんとすることがわかったからだ。
知らないとはいえ、父上、息子をスパイ扱いするんですか?
宰相なら国を守るため仕方ないとはいうものの。
「では、本当のお名前をお教え願おうか」
本当の名前。ローランドは俯く。
そんなものはないからだ。
「失礼だが荷物を改めさせてもらった。旅行手帳にはランディス・スティーブンスとあるがこの意味がおわかりか? 貴公には、間諜の疑いがかけられている。何のために名を騙りデュフレーンに来られたのか、お聞かせ願いたい」
ああ、どうすればいい? いっそのこと『本当の』ランディス・スティーブンスになってしまおうか?
父が何に怒り、何に弱いかをローランドは知り尽くしていた。
肩を下げ、弱々しく呟く。
「僕の名前はどこか変なんでしょうか? 国で旅行手帳を作る時も笑われてしまって。名を騙るなどと言われてもどうしていいか。ヴェルテの平民が、町の下級役人が船旅などしてはいけなかったんでしょうか? 一生の思い出にと、思い切ってヴェルテを出て来たのに」
唇を噛み、瞳を潤ませ、縋るように宰相を見ると、思った通り、宰相は顔を赤らめてそっぽを向いてしまった。
「どうも、その、貴公の顔は苦手だ。尋問などできないと陛下にあれほど言ったのに」
「すぐに国を出ろと言われるのなら、そういたします。僕もヴェルテへ帰りたい」
ローランドは、捨てられた子犬のような濡れた瞳で宰相を見上げた。
「うっ、その顔、やめろ」
「え?」
「いや、何でもない。貴公の名前は本当にランディス・スティーブンスといわれるのだな? ヴェルテから旅行でデュフレーンへやってきたと。わかった。では体が治り次第、ヴェルテへ帰国していただく。よろしいか?」
「わかりました」
宰相が出て行こうとしたら、垂れ幕が上がって、エメラインを先頭に女性たちが入ってきた。エメラインは垂れ幕が落ちてこないように巻き上げながら、嬉々として言う。
「では、ランドール、スティーブンスさんは私たちが引き続きお世話をいたしますね」
「むむ、仕方ない。だがエメライン、本当に、その、あれ、は? ないのだな?」
「浮気、ですの? そんなに疑うのでしたら離縁していただいてもよろしくてよ」
「エメライン! 何もそこまで」
テントの入り口に、紙ばさみを両手に抱えた姿が現れる。
「父上、陛下が至急王宮に戻って、王都の再建の件で業者を選定してほしいと、それにハドレー、レディング、その他各国からの救援物資が届いていますのでその振り分けを。はい、これを持って行ってください」
「む、多いな。わかった、ラドクリフ、すぐ戻る」
大量の書類を宰相に渡し、ちらとテントの中を覗き込んだのは兄だ。
そしてローランドを見ると微笑んだ。
「ほう、本当に母上そっくりだ。父違いの弟と言っても通りますね」
「ラドクリフ!」
書類が吹き飛びそうな勢いで、宰相が振り向いて叫んだので、テント中が笑いで包まれた。
ああ、良かった、とローランドは思った。
怪我をした者はいたようだが、死んだ者はいないらしい。
では、シアは。どうしているだろうか。
ベッドから出ようとしたら、力が入らなくて転がり落ちそうになる。
「危ない! ヴェルテのお客人、足元に気を付けて」
そう言って支えてくれたのは兄だ。
「あ、ありがとうございます」
「一週間も寝たきりだったんだ。足も弱っている。さ、横になって」
でも、兄はわかっていない。自分が、かつてローランドの、目の前にいる男の兄だったということを。
寂しいな。
精霊王の言った言葉を思い返す。
『お前』をもらうぞ、ローランド
ローランドはどこにもいなくなってしまったんだ。
俺は、魔力どころか、自分を無くしてしまったんだ。
ランディス・スティーブンスとして生きるしかないのだと、ローランドは自分に言い聞かせた。
これから、どうすればいいのだろう。
どこへ行けばいいのかな。
ヴェルテへ『帰る』しかないらしい。
シアも俺を忘れているのかな。
それは少し、堪えるかもしれない。
もう一度、ラドクリフの手を借りてベッドに横たわりながら、ローランドはそう思った。




