広い空
「もう駄目。息できない」
噴水広場の最も奥にあるベンチで、塔子は良司からようやく解放された。
二人は全速力で一学年校舎から広場に続く小道をぬけ、広場を突っ切って来ていた。予想外の運動量に、塔子はしばらく言葉も出ない。貧弱なので、なおさら回復に時間がかかる。
「あれー、おれそんなに走らせたっけ? だいじょうぶ?」
髪をかきながら良司は塔子をのぞき込む。肩で息をする塔子と反対に、良司の顔は涼しげで汗ひとつかいていない。恨めしさが顔に出てしまったらしく、良司は慌てて塔子に頭を下げた。
「そんな顔しないでくれよ。つい引っ張っちゃったけど、悪気はないです。ほんとごめん!」
「もういいよ……」
どっと疲れを感じながら、塔子は大きくため息をついた。あまりに疲れたので、そのままベンチに腰掛ける。すると良司も隣に座り、並んで腰掛ける形になった。
ふたりの間に小さな沈黙が降りる。
広場に、燦々と午後の陽光が射していた。目の前には青い芝生が広がり、光を全身に浴びて、嬉しげに揺れている。視線を上げれば手前には噴水があり、その奥には巨大なクスノキが、枝葉を目一杯空に伸ばして立っていた。さらにクスノキの背後にも、もうひとつ同じ噴水があり、勢いよく水しぶきを散らしている。グラウンド一個分は入りそうなこの広場には、クスノキを中心として、周辺に点々とパラソル付きのベンチも置かれ、生徒達の憩いの場となっていた。
二人のいる奥まったベンチからは、それらの全景がよく見渡せた。
塔子は生い茂るクスノキをぼんやりと眺め、そして空を見上げる。
(ここは空がよく見えるわ)
塔子はふと思った。ここで生活し始めてから、枝葉に切り取られない空を見上げるのは、初めてのような気がした。
なぜかとてもほっとして、春の雲一つない淡い空を、ただぼんやりと見上げる。
「ここは空が広く見えるんだな」
良司が小さく呟いた。
隣を見ると、良司も空を仰ぎ見ている。新しい学ランを無造作に肘まで折り上げ、むき出しになった腕を組み、塔子と同じ姿勢でぼんやりと見上げていた。
塔子は小さく笑った。
二人で沈黙しながら、同じことを考えていたのだ。何か嬉しいような、むず痒いような気持ちになる。良司も微笑んだ塔子に気づいて、一瞬ひらめくように笑った。共犯者の顔つきだった。
「さっきは、ありがとう」
なにかに背を押された気持ちで、塔子は呟いた。どういたしまして、と鷹揚な口調で、良司は応じる。流れる時間は穏やかで、塔子ははっきりと、今互いの波長が噛み合ったことを感じた。
二人はまたしばらく口をつぐんだが、それでも気にならないほど心が安らいでいる。
もしかすると、良司は塔子のペースに合わせて、落ち着かせてくれたのかもしれなかった。
先程の全力疾走はもちろんだが、勧誘されていたときの困惑や、羞恥心をも、気遣かってくれたのかもしれない。
(ふしぎな人だな……)
塔子はぼんやりと思った。
「篠崎さんてさあ、女子校出身なの?」
良司がふと無造作に尋ねる。
「共学よ。どうしてそう思うの」
「そっか……なんか男慣れしていなさそうだと思って。温室育ちなのかなって」
「え?」
塔子は少しギクリとした。弁解するように良司は続ける。
「マネージャーにスカウトされたとき、本当に困惑していただろ。大抵スカウトされた女子は、入部する気がなくても、嬉しそうにするからさ」
「入る気がないのに?」
うーん、と良司は唸る。
「そういうピンと来ないところが、温室育ちに見えるんだけどな。それはフリ? 天然なの?」
「そう言われても……」
怪訝な塔子の顔を、良司はじっと見つめていたが、やがて降参したように笑った。明るい目元や、白い歯ののぞく口元のせいか、良司の笑顔はとても清々しいものがある。
「まあ、いいか。そんなことは」
「なあに、自分で言っておいて」
塔子も良司につられて笑ってしまった。良司の笑顔は、人を引き込み伝染する力もあるようだった。
「ねえ、さっき坂本くんを追いかけていた上級生、何だったの?」
気になったことを思い出して、塔子が尋ねる。良司は気まずげに頬をぽりぽりと掻いた。
「ああ。ええと、おれ中学のときからずっと陸上やってて。大会で、ちょっと良いところまで食い込んだんだよ。だから、先輩たちに目を付けられてるの。陸上ひとすじだって言ってるのに、聞かなくて」
「すごいじゃない。競技は?」
「短距離。そんな大げさなことじゃないよ」
良司は即座に否定し、賞賛する隙を塔子に与えなかった。
しかし、先ほど複数の部員から追いかけられたことを考えるにつけ、かなりの記録保持者だろうと塔子はあたりを付ける。
引っ張られて走ったときの、良司のコンパスの長さを思い出す。景色がぶれて色しか分からない、飛ぶように走るとはこのことだと、塔子は初めて実感したのだ。
自己紹介で良司が言った“実技が得意“という言葉は、伊達ではなさそうだった。
そろそろ行こう、と良司は立ち上がった。塔子も立ってスカートをはたく。
「篠崎さんは? なにかやっていたの」
鞄を取りながら、さり気なく良司は話を切り返した。塔子はうっと詰まる。
「な、なにも……」
納得したように良司は頷いた。少なくとも、運動神経は皆無であることは、ばれているようだった。
居た堪れなくなって、塔子は話をそらす。
「あの、助けてくれたとき、先輩たちに言ったのは何だったの? 巡回ってなに?」
「緑風会の巡回だよ」
伸びをして、何でもないことのように良司は言った。
「緑風会?」
「そう、いわゆる生徒会ってやつ。部活勧誘はさ、ご存知の通り、皆必死なの。男子は特に死活問題というか……」
塔子の訝しげな視線に、良司は軽く目を逸らした。
「……とにかく。篠崎さんのときみたいに、熱がこもりすぎて、度が過ぎた強引な勧誘もあるわけ。そういうのを取り締まるために、緑風会の役員が巡回をしてるの」
「なるほど」
塔子は良司の説明で、ようやく納得がいった。
二人は話しながら、寮に向かう道へと足を進める。
噴水広場は校内の施設のなかでも中央に位置しており、各施設へ続く小道が無数に点在している。
先ほど走ってきた一学年校舎、そして講堂や正門は広場の東側に、二学年校舎は北側に、そして三学年校舎が最も山側で、西側に位置していた。学年が上がるごとに、森の奥へと進んでいくような立地になっている。
そして塔子たちの向かう寮棟は、さらに山奥で、三学年校舎を抜けた先にあった。学校の中央に位置する広場から歩いても、散歩コースと言えるほどの長い距離がある。
ここへ来てからというもの、寮までの道のりの長さに閉口していた塔子だが、いまは全く気にならないのが不思議だった。




