森の気配
教室は森の香りがした。しんとした、古い木の香りだ。
塔子は静かに息を吸い込んで、その香りを胸いっぱいに満たした。新しい教室のまっさらな空気は、好ましいものだと思う。教室内も年季はあるが、清潔に調えられて清々しい。おまけに塔子は窓際後方の席に割り当てられており、入学早々少し得をした気分だった。
「皆さん、入学おめでとう。一年三組担任の田中和也です。教科は数学。一、二学年の男子寮、つまり草思寮の寮監もやっています。もうここにいる男子皆とは会っているね」
担任の田中は大柄で、朴訥な男だった。何となく、塔子に熊を連想させる。歳は三十代半ばといったところだろうか。しかし田中の目元はしわもなく、実際はもっと若いのかもしれなかった。
「私も松風館の出身です。自分の経験から言っても、寄宿舎暮らしは慣れないことや戸惑うことも多いと思う。気軽に先生たちや同室の二年生に相談してください」
田中はゆっくりと教室内を見回し、塔子たちと目を合わせるように話した。のんびりとして見える外見と反して、声は淡々として落ち着いている。あまり多くを語らないところに、塔子は好感を持った。
――では、配布したプリントと学生証を見てください。まず施設についていくつか説明します。
田中の淡々とした声が続く。
塔子はそっと左側の窓を見やった。使い込まれた飴色の窓の木枠から、鬱蒼と繁るアカマツの枝葉がのぞく。風に吹かれ、重い体を揺するように左右にゆれている。
足元に目を落とすと、小さく木漏れ日が射しており、床にも枝葉の影が踊っていた。
午後に近い今はこの葉影も小さいが、やがて夕方になれば、森が教室に侵入するように、影が伸びてくるのだろう。
(本当に、徹底している)
ぼんやりと林を見つめながら、塔子は思う。学校中、徹底して森に覆われている。
今まで、塔子はこんな緑のなかで長く過ごしたことなどない。輝く新緑を見るのは、心が和むが、問題は夜だった。
塔子は苦々しく昨夜を思い出す。寮のベッドのなかで、深夜にふと目を覚ました時だ。
暗闇のなかで耳を澄ますと、ざわざわと不穏な葉擦れの音や、悲鳴に似た、何かの鳴き声も聞こえた。そんな怪音を聞いていると、森が昼間とは全く違う顔で、迫ってくるのが感じられる。おぞましい何かを暴かれるようで、怖くて寝付けなかったのだ。
(わたしは、そんなに怖がりじゃなかったはずなのに)
塔子は小さくため息をついた。寮に入る前から、母が仕事で帰らず、一人で過ごすことはよくあった。そのときは全く平気だったのに、今のこの様はなんだろう、と思う。
窓から見えるアカマツは、塔子の気も知らず枝葉を静かに揺らす。寝不足のぼうっとした頭で、口をへの字に曲げ、不機嫌にその様子を見つめた。
やはり森の中というのが、落ち着かない原因だろうと、塔子は思った。
緑に守られているようでいて、囚われているような、そんな奇妙な閉塞感がある。
「ここまでで、質問がある人は?」
田中が再び塔子たちを見回し、話を締めくくる。はっとして、塔子は窓から教壇に目を戻し、居ずまいを正した。完全に聞き流してしまっていた。
「その他施設に関しての諸注意や、規則は学生証を参考にしてください。では次に、今後の予定ですが……」
田中の話が淡々と続く。
当然のような顔をして、話を聞くクラスメイト達を見回して、塔子は少し反省した。
恵まれた環境を感謝こそすれ、不平を言っている場合ではないのだ、と自分を戒める。たとえ、今はこの森がめずらしく、不穏に感じていても、時が経てばいずれ慣れてくるだろう。
平穏無事に学生生活を送ること、それだけを考えて、励めばいいのだ。
(だいじょうぶ。私はちゃんとやっていける)
鼓舞する気持ちで、塔子は明るく自分に言い聞かせた。




