【神崎家】(前編)
あれから一ヶ月と少しが過ぎた。
夏休みももう終盤に差し掛かろうとしている。
俺はとりあえず、入院の必要性がなくなるまでには快気した。まだ痛みは時にあるけれど、動けないほどではなくなっていた。
そのまま、少年鑑別所に送られるという話も一時出たのだが、家庭裁判所が身柄の拘東は必要がないと判断したようだった。
確かに、逃げるつもりなど毛頭ない。
そして今、父親の車で自宅に向かっている。
父親は、一度もお見舞いという形では会いに来ることは無かったが、裏では色々と動いていてくれたようだ。
信頼のおける弁護士をつけてくれ、その人の指示を信じて手を尽くし、駆けずり回ってくれていたらしい。
精神鑑定の必要性を強調し、なるべく親権者が今後を見守っていく流れに持っていこうとしているのだと、その弁護士から聞いた。
そこまでしてくれたからこその、釈放だということは理解している。
判決はこれからだ。
「俺はまだ許してないぞ、惣一」
車の中で、厳しい顔のまま父親が告げる。
態度を見れば解ることだった。
「これ以上、なるべく恥を晒したくなかっただけだ」
「わかっているつもりです。でもありがとうございました」
初めて感謝の言葉を口にした。
どんな理由であろうと、もっと先になると思っていた帰宅が早まったのだ。
「悠汰とはあまり接触するな。それだけでいい」
礼など要らないと、そう言う代わりに父親は釘を刺す。
この人には、何故俺がこんな事を仕出かしたのか、まだ理解できていない。
そんなことに易々と頷けるはずが無いだろう。
「今回のことに悠汰は関係ありません。もし、悠汰が俺に悪影響を与えられていたというお考えでしたら、それは逆なんです」
「くだらんな。逆におまえが悠汰に与えてるとでも言いたいのか?実にくだらん」
以前ひしひしと感じていた殺意が、込み上げそうになる。暗黒の深淵から。
消さなくてはならない。
同じ過ちを繰り返すつもりはない。
「違います。悠汰が俺に与えたのは好影響だと言いたいんです」
不快感を示すだけに止め、父親は何も返してこなかった。
* * *
それから暫くして、母親も退院した。
二人とも今までとは比べ物にならないくらい、家に居る。
今後の俺の身の振り方を考え、なるべく自宅に帰るように、父親から母親に話がいったようだった。
それでもそれぞれが自室に入ったままで、家の中は暗く物々しい雰囲気になった。
それぞれが勝手に時間を潰しているだけの空間。
その中で、俺と悠汰だけはお互いに部屋を行き来していた。両親ともそんな状態だったためか、それを制限などはされなかった。
―――気になっていた。
今の状態が、悠汰にとって良いものなのか否か。
「解らない…」
今日も悠汰の部屋に入った俺は、だが別の意図をして言葉を発した。
「なにが?」
まさに今、何かの楽曲をダウンロードしようとしている悠汰は、振り向かないまま呟き返す。
「確かに片付けろと言ったけどね………」
あまり片付けや掃除が得意ではないらしく、悠汰の部屋はほぼ毎日物が散乱していた。
見兼ねて、昨日注意したところだった。
部屋中を見渡している俺に、ようやく悠汰がパソコンから目を離してこちらを見る。
「なぜ元の状態に、ここまでキッチリなおす必要性があるのか解らない」
母親が決めた配置。
それは俺の部屋も最初はそうだった。何とか言い包めて、俺は自由に維持し家政婦にも部屋には入らせないようにした。
けれど悠汰は従順だった。
そして、もうそんな縛りなど無くなったというのに、悠汰は片付けをした後でも、小物ひとつ変わらず元の位置にあったのだ。
俺には理解できない。
「慣れ、か?」
「さあなー」
悠汰は俺の言いたい事が解ったようで、椅子から立ち上がり本棚に寄った。
「この疵とか、俺が殴られてぶつけた時に出来たもんだよな。そういうのひとつひとつあって、確かに思い出したりするんだけど…。あまり良い思い出なくて、居心地も悪いんだけど、だからといって他の状態がもう想像できないんだ」
本棚の下のほうにある窪みをなぞりながら悠汰が言った。
どこか懐かしそうな顔を見せている。
懐かしさの中に、確かに在る、痛み。
「想像できないからといって、ここまで同じにするか?」
「考えたくないんだ。深みにハマるから」
「深み?」
「というか、何でもいいんだよ、俺は」
踏み込んで尋ねる俺に、悠汰は適当に返してきた。
興味が無いのだろうか。
少しでも居心地良くもっていこうという気が感じられない。
「思い切って、すべてを変えてみたらどうだ?そこから少しずつ調整していけばいい」
「うーん…。ま、そのうちな」
そう言うと、悠汰はまたパソコンの前に落ち着いた。
俺はその隣のベッドに座り、横から見る。
「悠汰、おまえ………。面倒なだけだろう」
「なんでバレんの?」
悠汰は眉をしかめた。
底が割れてるんだ、悠汰の考えることなど。
俺が呆れた顔をしていたら、暴かれた本人は背凭れに寄りかかり、動かさない表情のまま軟質の声を出した。
「兄貴やって」
「駄目だ。自分でやれ」
間髪入れずに返した言葉に自分自身、意外に思った。
今の俺ならば、何が何でも悠汰の重みを取り除きたいと思っただろうに…。
(影響、されたのかな)
このとき触発された人物を、思い出していた。
* * *
退院の時期が決まり、あと数日後にそれが待ち受けていたときだった。
初めて一人きりで西龍院玲華が病室に来た。いや、正確にはお付きの女性が一人いたのだが、そうではなくて、いつもは悠汰と共に来ていたのだ。
少々…いや、かなり呆気にとられた。
「ご退院おめでとうございます。お兄様」
彼女は綺麗な花束を持っていた。
女性が花瓶に花を活けるために病室を離れた。このためだけに、連れてきたのだろうか。
俺は半身を起こし、玲華さんはまわり込んで窓際にある椅子に座った。
「ありがとう、と言うべきかな?居るべき場所が変わるだけで、俺の拘束状況が変わるとは思えないけどね」
常に監視の目があった。
本来ならば検察の管理下の元に居るはずの身の上だ。
「大丈夫じゃないかしら。お父様が頑張っているとお伺いしましたわ」
大人っぽい眼差しで、玲華さんは切り返す。
悠汰といるときの彼女と、少しだけ印象が変わっていた。きっと悠汰の前にいるときが、等身大の彼女ではないかと思えた。
彼女もまた、厄介な身の上にいるのかもしれない。
「聞いたのか…」
「ええ。貴方の担当弁護士、飯田雅孝先生ね、ちょっとした知り合いなんです」
「まさか…そんな凄い先生だったのか」
玲華さんが知り合い、というのならば、西龍院家と関わりがある人なのだろう。
そんな権威ある弁護士に目をつけた父親は、少なくても濁った目を持ってはいないということになる。
あまり信じられないが。
「そんな大袈裟なものではないですわ。父がお世話になったことがあるんです。だから本家とは関係ありませんので」
「君に……、ずっと謝らないといけないと思っていた」
玲華さんに浅墓なことを言った。
幸せな家庭に育った君にはわからない、と。
これほどまでに別世界にいて、俺が知れることなど僅かなことでしかない。
悠汰がどこまで知っているかはわからないが、西龍院家は世界でも通用する巨大企業グループの筆頭だ。
その一族の直系である彼女にも、等身大よりも遥か上の人格を形成されることを、余儀なくされているだろう。
「あら、でも本当のことですもの。本当にいい家庭ですよ、うちはね」
艶かしく微笑む彼女に、それ以上突っ込めなかった。
別に含まれた何かをそこに感じた。
「ぬくぬくと育ってきた箱入り娘ですわ」
「君が?」
「貴方のお母様の言葉ですの」
「失礼な…」
家族の恥と言うのは母親のことを言うのではなかろうか。
少なくとも俺は今そう体感している。
しかし玲華さんからは責めるようなものは感じなかった。皮肉さは、少々感じたが。
だから母親も良い意味では言ってなかったのだろうと気づいた。
「ご心配無用です。あたしも同じくらい失礼なことを言いましたから」
「…………」
悠汰が修羅場だったと言ったことを思い出していた。
(いや、地獄だったか)
どちらにしても居なくて良かったのかもしれない。
「今日は、悠汰は?」
「久保田さんのところに置いてきました。あ、久保田さんってあの探偵の人ね」
「なるほど。そこまでして俺と内緒話がしたかったと?」
「ええ」
彼女の目が鋭く光る。
「貴方は今後、どうなさるおつもりなのか聞きたくて」
俺の、今後―――?
意外な話だった。悠汰のことだと予測していたからだ。
「それは裁判官が決めることじゃないかな」
「ではそのまま、ただ時の流れに身を任せると?お父様があんなに頑張っている意味がなくなりますわね」
「そうではないよ。俺はどう足掻いても未成年だからね。いくら俺が反省の意を示そうと、決めるのは大人たちだ」
「そこですんなり受け止めてしまえる人では無いでしょうに…」
「心外だな」
思わず釈然としない想いを素直に出していた。
何を読まれているというのだ?数回しか会ってない女性に。
「いま貴方は生への希望が薄いんじゃないかしら?悠汰が、両親が死ぬことを望んでいないと分かって、自分の殺意も………完全に消えたのかどうか、あたしには解らないけれど、とりあえず殺すことはもう思わない」
淡々と続けられた内容は、その艶やかな声音にそぐわず、酷薄なものに俺には響いた。
「だから次の行動が何も浮かばないんじゃないかしら?とりあえず目の前にある判決の行方を見定めている。一応不利にはならない範囲で事は運んでいるものの、あまり必死さが感じられない。あたしにはそう見えて仕方ないのですが?」
「驚いたな…」
堪らず俺は本音を口にした。
鋭く、言い当てられた。それでこそ酷に響くのだ。
確かにずっと目標にしていたものがなくなって、俺は考えあぐねていた。
何をしても楽しめない心情は以前からあったが、善悪関係なく目指すところがあれば、それは気にならなかった。
悠汰が解放されたのなら、俺がやるべきことはもう何もない。
何をしたいのかが分からない。
「悠汰が、今回なにも上手くいかなかったって言ったんです」
「え?」
そっと目を伏せ玲華さんは続けた。
「なにひとつ、自分の力では満足いくようには出来なかったって。彼も目標を掲げていたんです。過呼吸を克服すること、事件を解決すること、貴方を止めること。とりあえずその三つね」
「……………」
「だけどあたしにはそうは思えないの。形になるような成果がなかったのかもしれないけれど、確実に悠汰はこの件で変わったわ」
いつの間にか彼女の口調は真剣なものになっていた。それでこそ、余計なものである丁寧な飾り言葉を除いて口にする。
(ああ、そうか)
彼女の気にするところはいつもひとつだ。
悠汰の為になるかどうか。
「そうだね。俺を止めるということは達成できたんじゃないかな?結局悠汰が病室に来てくれたことで、俺は殺意を手放そうと思ったのだから」
俺がそう言うと、玲華さんは深いため息を吐き出したのち、苦笑のような表情をうかがわせた。
「そういうことを、悠汰本人に言ってあげれば良いのに」
「改めて言う内容でもないと思うけれど」
「そんなことないわ、貴方たち兄弟は言葉が足りなさ過ぎるのよ」
びしっという効果音がつくように玲華さんは言い切った。
これには俺のほうが苦笑いをするしかない。
そうではなくて……。
「俺の殺意の話はもう、悠汰にはしない方が良いと思ったんだよ」
観念して本音を語る。
悠汰が一番取り乱したのはそのことだから。
心穏やかにいて欲しい。
二度とこんな家庭のことで呼吸が乱されないように。
それでも過去の心的外傷は、薄くなりはしても決して取り除かれるものではないことは判るから。
俺が親の偏執による遺恨を完璧には取り除けないのと同じように。
そして自分自身への過ちも、それ故にある罪の意識と心痛も、決してまっさらにはならない。
「結局、過保護なのよねー。そのへん。貴方も久保田さんも」
独り言のように玲華さんが呟いた。
(過保護?)
それは悠汰に対してだと解るが、考えに至らない部分であった。
そんなつもりはない。
「どうして腫れものにさわるような扱いしかしないのかしら?その割には変なところ素直じゃないし」
「そんなつもりはないよ。けれど君にそう見えるということは、まずあいつの不安を取り除くことが最優先だと思うからだろう」
「誰にだって不安はあるわ。例え家庭のことが解決しても別のことで生まれてくる。そんなときお兄様が……いえ他の誰だってそう、常に一緒にいられるとは限らないのよ。ならば跳ね除ける強さが必要になってくるわ」
「ショック療法が必ずしも良いとは言えない。実際に精神が弱まると体に支障をきたしてしまっている。慎重に様子を見るべきだ」
否定心が俺から生まれた。そのまま考えるより早く胸中を曝け出してしまう。
適当に頷けない何かがあった。
いつものように対面者に話を合わせられない。冷静なバランスが取れない。
わかられたくない、と。
一年も満たない期間しか一緒にいなかった彼女に、何がわかる?
俺は何年もあいつの弱まる姿を見せ付けられていたのだ。
無理に心を騒がせるような話題を出す必要は無い。
「精神鑑定が必要なのは、俺よりもあいつだ」
そうだろう?
心神喪失になんて、俺はなっていない。
いくら父親がそれで少しでも刑を軽くしようと動いていても、納得できるものではない。それより悠汰に精神科を受診させるべきだ。
これからも呼吸が苦しくなるようなことがあるならば尚更…。
「随分、酷い言い方をするのね」
じろりと睨みつけ、玲華さんが怒りをあらわにしていた。
それで―――我に返った。
(……しまった)
今更後悔しても遅い。
確かに戻りそうになっていた。
あの瞬間の神経に。本音の向こう側。
暗闇に引きずられないように、自ら制御しなければならない。
「すまない。心無いことを、言った」
「あたしに謝られてもね…」
「ああ、わかってる」
自分がまいた種だ。精神鑑定に不満を抱いてる場合ではない。
そして自分が楽になる為だけに、自分が嫌だと思うものを悠汰にはさせるようなことを言った。俺にはどうにもできないから、他人任せにしようとした。
思いやりがあまりにも無い。
これでは両親の怒りを悠汰に押し付けて逃げていた頃と同じだ。
「やっぱり似た者兄弟ね。反省が早いわ」
ふふ、と笑うと彼女は続けた。
「あたしだって、そうそう他人の家のことに口出ししたくないのよ。だけど、あまりに不器用だからもどかしいの。知ってる?第三者の方がよく見えることがあるのよ」
「どうするべきだと?」
「とりあえず貴方は普通の兄でいることね」
そのとき微笑んだ彼女は歳下には見えなかった。
「過度な優しさも、過度な拒絶もせずに、普通の良きお兄様で見守ってくれたら、それが一番自然だわ」
そうか。
彼女は本当は、この事を伝えたくて今日は来たのだ。
玲華さんの目を見てそう思った。
すでにそこには俺の失態を咎める色は皆無だった。
* * *
―――過保護はやめろ。
そういうことだ。
「ケチくせえ」
断った俺に悠汰は拗ねるようにぼやいた。
玲華さんはああ言ったけれど、実際にそうしようとしても何が普通の兄の姿なのか、すでに俺にはわからない。
普通ではない時の方が長すぎたせいだ。
「そう言うな。重い家具を動かす時だけは手を貸すから」
おそらく、それぐらいの感覚で良いんだろう。
本当に一人で出来ないときにだけ協力する。
そうだ。俺が何かを助けようと思うのではなく、それは協力なのだ。
対等に扱うこと。
それは悠汰が望んだものだったはずだ。
「兄貴はさ、いつまで…ここにいれるんだ?」
相変わらず直球で訊いてくる。
「それが決まるのがもうすぐなんだ」
判決がでるのが…。
そう答えたけれど、悠汰の質問はもっと漠然としたものではないのか、と思った。
いつか、家からは居なくなる。
悠汰にはそう感じられているのかもしれない。
確かに一般論として、子供はいつか巣立つ。年齢順でいけば俺が先だ。
―――心配しなくても、このままの状態で捨てたりしない。
そう付け加えようとしたとき、先に悠汰が口を開いた。頬杖をつきながら、呟く。
「池田さんは未成年だからもっと簡単だって言ってたのになー」
「……いつ?」
「最初」
かなりぶっきらぼうに答える。
恐らく俺が事情聴取を受ける前だろう。
確かに一時の、衝動的なものであればそれもあり得たのかも知れない。
しかし俺の仕出したそれには計画性がある。いくらその計画が叶わなかったとしても、そのことを認めている今、それが長年蓄えられた殺意だと教えているようなものだ。法的に見逃せるはずがない。
真意は池田さん自身に確かめないと分からないが…。
「悠汰を心配させないように言ったんだろう」
「いや。んな人じゃねえ」
眉間に皺を寄せて、何かを思い出すように言い切った。
二人の間に、何があったのかは俺は知らない。
(でもたぶん…)
池田さんは過保護にしない人。そんな気がした。
「悠汰、おまえはどうしたい?」
ずっと躊躇われていたことを俺は訊く。
簡単には踏み込めないでいた。問題の核心にあたるところ。
「このままでいいのか?」
この状態で満足か?
形だけは縛らなくなっている。今はまだ。
だが時間が経てばそれも分からない。
世羅は、悠汰のほしいものは家庭のぬくもりだと俺に話した。
それならば、今の状態は全くそれに沿っていない。
「それなんだけどさ」
悠汰が椅子を少し動かし、座ったままで改めてこちらに向いた。
僅かに緊張に満ちた顔で、決心を口にする。
「話し合い、しないか」
「話し合い?」
「まだしてないからさ。ちゃんと、家族全員で腹を割って話したい」
それは意外な内容だった。素直に驚いた。
これまでの悠汰は、なるべく家族の姿を見ずに動いていたのに。
逆鱗に触れないように、空気のように、息をひそめて。
(強くなった、のか)
玲華さんの言うように、保護するだけを考えていれば良いレベルではないということだろうか。
「大丈夫か?」
それでも、そう訊いてしまうのは俺の弱さだ。
確認せずにはいられない。
「ああ。玲華が言ったんだ。まずは俺の気持ちを伝えろって。それから、兄貴とタッグを組んで変えていけって」
「彼女は……、強いな」
「マジ、半端ない」
彼女との会話の内容を思い出しながら言うと、悠汰も深く同意した。
「だから負けないようにしないといけないんだ」
置いていかれないように。対等でいるために。
(そういうことか)
「わかった。親父に話してみよう」
ならば俺は仲介する。
機会を作ることはできるから。後は悠汰本人に任せなければならない。見守るだけのものとなるのだ。