【久保田修次】(後編)
それから二日後。
また二人は事務所までやってきた。本当に暇人だな。
自分はどうやって学生のとき夏休みを過ごしていただろうか…。
こいつらといると振り返ってしまう。思い出しても仕方のないことなのに。
「今日は話があるんだけどさ」
何の前触れもなく玲華嬢がソファに座りながらこちらを見た。
対面するように座る悠汰を見ると、僅かにその顔が興奮に満ちていた。祥子君が烏龍茶を四つ、そのテーブルに置く。
オレの分もそこに置くってことは、そちらに行ってほしいらしい。
ひとつため息をついて、オレもデスクから悠汰の隣のソファに移動した。
あのときの違和感の説明をしてくれるんだろな、と予想していた。
「なんだ」
「ちょっと待ってね」
玲華嬢が高価そうなバックからA4サイズの封筒を取り出した。
その中から出たものは―――。
数枚の書類と写真。特に写真が多くて二、三十枚ぐらいあった。
書類には“村野亘浮気調査”と記入されている。
そして切り出したのは悠汰だった。
「この前、久保田さんが出かけたときに、依頼人の女性がきたんだ。なんか急いでるみたいで、今すぐ探偵と会いたいって」
「なんか最初は話を聞くだけって言ったんだけど、あまりにその人が焦ってて、それであたしたちが代わりに引き受けたってわけよ」
玲華嬢がそれに続く。
「それで?ずっと暇だったおまえらは面白半分に調査してきたって言うのか?オレに隠して」
オレは二人を睨んだ。思ったより低い声が出た。
「否定はできないけどさ、でも割とすぐ証拠が集まったのよ。見てこの写真」
玲華嬢が写真を差し出してきた。オレはそれを受け取り確認する。
三十代後半ぐらいの男性と、若い女性のツーショット。肩を並べてラブホテルに入る時から出るまで、事細かに何ショットにも撮られている。道端でキスしているものもあった。対象者が合っていれば、証拠として申し分ない画像だ。
「ね。すごいでしょ。すぐに出来ちゃった」
「すぐじゃないだろ。何時間も待ったじゃねえか」
嬉しそうに言う玲華嬢に悠汰は力ないぼやきをした。
「いいじゃない、あれくらいは。楽しかったわよ、あたしは」
玲華嬢の言葉をきっかけに、オレは写真をテーブルに投げ置いた。
バサッと散らばる。
「楽しいだと?こんな勝手なこと冗談じゃねえ!」
オレの真剣な怒りに周りが凍りついた。構わずオレは立ち上がる。
「おまえらまだ高校生だろうが!こういう界隈で張り付くのも問題だし、まずオレに何の断りもないのが許せない!」
すぐに玲華嬢が立ち上がった。悠汰は驚愕に顔を滲ませて、じっとオレが怒るところを見ていた。
「しょうがないでしょ!あの人、すぐに探偵に会えないんだったら別のところに行くって、本当に急いでたのよ!」
「だからなんだよ!仕事が少ないから気の毒にでも思って、勝手に引き受けたっていうのか!」
「逃がすよりはいいと思ったのよ!そりゃあ、黙ってたのは悪かったけど、言ったら絶対させてくれなかったでしょう!?」
「あたりまえだ!」
オレは一喝して祥子君を見た。
「祥子君も祥子君だ!なぜ君まで許した!」
「あ…、ごめんなさい先生」
「ちょっと!祥子さんを怒らなくたっていいじゃない!話し聞いたらあたしたちでも出来そうだったのよ!実際完璧にこなしたんだし、何も問題ないじゃない!」
ったくこいつは!なんにもわかってない!
「だったら、おまえらその依頼者に何で急いでるのか聞いたのか?」
三人を順に見つめる。祥子君がどこか苦渋の表情をしていた。
悠汰は強張った状態で、さきほどから何も口を開いてない。そこは気になった。
玲華嬢は変わらずオレを睨み返してる。
「もちろん聞いたわよ。依頼人の村野清美さんは、もし浮気が立証されればすぐにでも離婚したいって。お子さんが来年春に小学校に上がるから、環境が変わるなら同時の方が子供の為にも良いからって言ってたわ」
玲華嬢は依頼契約書を差し出した。
「ここにまとめてあるわ」
「だったら、その理由が真実だということを調べたか?」
「………嘘をついてると言いたいの?」
「その可能性もあるということだ。どんなにささやかな依頼に見えても、犯罪の片棒を担がされていたと後から分かってからでは遅いんだよ!」
「それなら大丈夫よ!この人は嘘ついてないわ」
「なぜわかる?」
「勘よ!」
悪い?とでも続きそうなくらい玲華嬢は堂々としていた。
こいつはもう!
「勘でやる仕事じゃねえんだよ!すべて事実に基づいてやるんだ!失敗は許されねえ」
ようやく玲華嬢が黙った。
悠汰はまだ、何も言わない。
オレは二人を見て唸るように訊いた。
「どちらから言い出した?」
祥子君からでないことは解っていた。
「あたしよ。暇潰しになると思ったの」
やや抑え目に玲華嬢がそう言うと、ようやく悠汰が立ち上がった。
「違う!俺がやってみたいって言ったんだ!」
こいつは…。
(自分がいま、どんな顔をしてんのか分かっているのか?)
悠汰は真っ直ぐオレを直視しているくせに、眉間にシワを寄せて…いまにも泣き出しそうだった。
「つまり、両方か」
オレは腰に手を当てため息を吐く。
悠汰にもし、そういう気持ちが一欠けらもなければこんな庇い方はしないだろう。とはいえ、玲華嬢がいなければここまで思い切ったことが出来なかったのも事実だ。
「探偵業法のことなんて知らないんだろうな、おまえらは」
「知ってるわ」
玲華嬢が神妙な面持ちで即答する。悠汰が驚いた顔でそんな彼女を見つめた。
「知っていたわ、ごめんなさい」
―――探偵業法第九条二、探偵業者は、探偵業務を探偵業者以外の者に委託してはならない。
そういう内容が在ったってことも、知っていたということか。
「くそ!踏みにじられた気分だ!」
オレは玲華嬢から契約書を奪い取り、少し散らばった写真を集めて封筒ごと資料を取った。
「依頼人にとっては関係ない話だろうな。最後の仕上げはオレがやる」
「でも先生!レポートはっ…」
「オレがやる!君にはがっかりだ!」
オレは祥子君の顔も見ずに遮る。こういう書類のまとめはいつもは祥子君の役割だった。
「ちょっと言い過ぎじゃない!」
とがめる口調の玲華嬢にオレは最後の一言を放った。
「おまえらは帰れ!ここは遊び場じゃないんだ。二度と来るな!」
更に重苦しい空気になったのにも構わず、オレは応接室から見て左にある扉に向かった。
そこにはオレが寝泊りしている寝室兼書斎にしている部屋がある。音を立てて扉を閉めた。
(っくそ!)
最後に見た悠汰が浮かんで消えない。傷ついた、顔をしていた。
分かりやすい奴はこういうとき卑怯だと思う。普段の何倍にも罪悪感を感じる。
祥子君はここにだけは入らないから、物が乱雑していて汚い部屋。でもオレにはどこに何があるかちゃんと解っている。
囲うように棚があり、本がぎっしり詰まってある。それはジャンルを問わない。仕事のものから趣味のものまであった。
床はほとんど機械で埋まってる。足の踏み場がなんとか作ってあるけれど。
そんな部屋の中の、やはり書類が乱雑して置かれている机の上に資料を投げるように置いた。そのまえに座り、丁寧に内容を確認していく。
依頼人への報告期限は三日後になっていた。つまり明日。
いくら子供のことがあろうと、この期間の提示はあり得ない。
この女性が“恐らくこのホテルに来るだろう”とヒントを与えていたのが読み取れた。かなり正確に夫の行動範囲を把握していたようだ。確かに、そうでなければあり得ない素早さで現場を押さえられたということになる。
それなのに、こんな探偵……第三者を絡めてより確固たる証拠を掴ませたのは、家庭裁判所に突きつける為だろう。
それほど焦るということは…。
(男、か―――)
この依頼人には恐らく男がいる。長年の経験からそう推察した。
その男と少しでも早く一緒になりたいのだ。女性が再婚するには再婚禁止期間がある。子供を利用して嘘をつくとは、なんて母親だ。
(まあ、それぐらいならまだマシな理由か。あとで確認するとして……)
悠汰は信じて、同情でもしたのだろうか…。
崩壊しかけている家族。女性側がどういう気持ちだろうと、男の浮気は事実だった。
「ちょっとねえ!」
ドンドンドン!と扉を叩く音と例華嬢の声がした。
「勝手なことしたことは悪かったと思ってるわ!だからって閉じこもらなくてもいいでしょう!」
無視して書類に目を通す。
確かに、尾行をしたのがあいつらだということ以外、なにも問題ない内容だった。恐らく祥子君が助言をしたんだろう。いつの間にか彼女も成長していたということか。
「玲華さん、もうやめましょう。いまは何を言っても、先生には…」
祥子君の声も聞こえだした。扉の前で会話をしているようだ。
「嫌です。ここで引いたら本当に来れなくなりますから」
だから何で祥子君相手だと敬語になるんだ、あいつは。
そう言えば悠汰も気づけば敬語のときがある。それはオレに対してもだった。そしてもう呼び捨てにはしなくなっていた。
稀にだが、変わりつつある。気にしてるんだろうか。オレがあのとき言った言葉…。
「久保田さん」
悠汰の声が、した。彼のこんな声はよく聞いた。弱くて細い。
怒鳴るそれとのギャップがかなりある。
「怒るの、当然だよな。俺だってムカつくと思う…。悪い、気づけなくて。…いつも」
「悠汰だけのせいじゃないわ、今回のことは」
庇う、玲華嬢の言葉。
「でも俺だけ何にも知らなくて」
「あたしはただ単に暇だからネットで見てみただけよ」
探偵業法の話か。というより、扉の前で会話をするなよ。丸聞こえだ。
「でも、やっぱり…」
一旦、悠汰の声がかき消える。それから、またドンと扉が叩かれる音がした。
「久保田さん!殴っていいよ!」
「悠汰?なに言ってんの!」
「ちょっと黙ってて。……なあ!あんとき俺、おまえを殴ってチャラにしただろ」
そうだった。
車の中であいつにそう言われたときから、本当は殴られる覚悟をしていた。
やれるならやってみろ、とあいつには言ったけれど。本当は殴られても良いと思ったんだ。悠汰になら、仕方ないと。
だけど悠汰はすぐには殴らなくて、あのあと二週間ぐらい経ってから思い出したように殴ってきたんだ。
身構えて殴ると避けるだろ、おまえ。そう悠汰は笑って言いやがった。
でも多分、本当に思い出したところで殴ったんだろうな、と思う。
(殴る前に、あっ、て言ったからな)
そういう計算ができないことは知ってる。
だけど……。
「だからさ!今回もそれでチャラにしようぜ!じゃなくて、して欲しいんだ!玲華も祥子さんもダメだけど、俺なら殴られるから!だから!二度と来るななんて、言うなよ!」
叫ぶ度に叩かれる扉。
必死なんだ。もう二度と捨てられたくないという焦燥感。
それぐらいには、拠り所にしてくれているのだろうか。近くに居過ぎたのかもしれない。それぐらいの責任がオレにはあるんだろうな。大人側として。
(全く、解ってない。こいつは―――)
だから、オレは資料から手を離し立ち上がった。扉を勢いよく開く。
まだ怒っているオレの表情を見て、眉尻を下げてそいつは前に立っていた。生まれ持っての弟気質。そんな顔だ。
なにも言わずにオレは左手で悠汰の肩を押さえ、右腕を振りかざす。
一瞬怯えて悠汰は固く目を閉じた。
(なんとかしてやりたいと、思ったんだ)
見張るなかで、悠汰のこういう顔を見る度に、徐々に入り込んでいったんだ。こいつに。
それだけが理由。
気になりだした、理由。
オレは持ち上げた右手をポンと悠汰の頭に置いた。
きっと、惣一も他の周りの大人たちもこんな顔を向けられたら突き放せない。彼の両親みたいな心情の人間も確かにいるのだけれど。
「もう、そういうこと言うのはよせ」
悠汰が目を見開いた。
「どんな理由にせよ、殴ることは暴力だ。そういうことを解決するために使うな。自分から提示することも、本来残酷なんだ」
わかるか。
わかっているのか、悠汰。それはおまえ自身が嫌っているはずのものだろう。
ならば早く、他の方法を見つけてくれ。
「…………」
「もう今回のことは良いから。二度とするなよ」
オレがそう言うと、悠汰はほっと息をついて頷いた。
玲華嬢にも目だけで訴える。すると、満面の笑みを向けられた。こ、こいつは……。
* * *
空気が元に戻り、安心して二人は帰って行った。
「やってみてわかったよ。尾行の大変さは兄貴のことで知っていたけど、張り込みも同じように辛いんだな。やっぱり久保田さんってすげーな。何ヶ月もあんなことして」
最後に、悠汰はそう言っていた。
凄いなんて思っていたことに驚く。しかもやっぱり、ときたか。いつからそう思ってくれていたのか……、オレとしたことが見落としていた。
当然オレは嬉しいなんて顔を見せるはずはなく、違うことを聞いてみる。
「もう満足したか?」
「とりあえずは、な。でも正直どんな仕事をしたいかまだよくわかんねえよ」
ここではっきり言われた。
やはり将来どんな職につくかを考え出していたんだ。
早いな、と思う。成長が早すぎだ。
(オレ、確か大学行ってもまだ考えてなかったけど………)
つい自分と比べて微かにショックを受けてしまった。
祥子君が温かい緑茶を煎れてくれて、オレの隣のソファにすわった。もう気づけば夕方だ。
「先生。依頼人ですが明日の五時にお見えになる予定です」
「そうか」
話が仕事の内容に戻されていった。
書類では読み取れなかった部分を確認していく。
「それで、どうだった?初めてオレ以外の奴とやってみて」
改めて訊くと彼女はふふ、と笑った。変わらない笑顔に安心する。
「でも先生、気づいてらしたでしょ」
「………………」
思わず持っている湯のみを落としそうになった。
「なんで…」
「本気の怒り方では無かったですから。しかもどこか説明するように怒鳴られてて」
千里眼でも持っているのか?
オレの絶句に祥子君はまた笑った。
実は、そうだった。オレはあの日ホットコーヒー以外は飲んでいない。ひとつ多めに洗われたグラスを見て、訪問者がいたことを悟った。
そしてあいつらの反応だ。
「試してみた。あいつらがどうでるのか。ここまで出来たのは祥子君がいろいろ助力したからだろう?なぜ君まで協力しようと思ったんだ」
「あら、だって。先生最近、神崎くんばかり気にしているから」
は?
祥子君の言い方が腑に落ちない。
彼女を見るとニコニコ笑いながら…。
(なんか怒ってる…?)
玲華嬢のようにぶつけない怒り方だ。オレにはこちらの方がこたえる。
「先生が尾行をしてるわたしたちの、更に後ろにいたことは知ってました。でも何も言ってこなくて…。だから試そうとしてるんだなって、わたしは合わせた方が良いんだろうなって思ったんです」
「あのなあ」
「それなのに、先にそのことを教えて下さらなかったのは、先生の方ですよ」
そういえば。
前回祥子君にも言わずに雲隠れしたことを、叱られたばかりだった。そういえば……。
あの時も彼女は笑いながら怒っていたことを思い出す。
「祥子君、それはだな」
「わかってます。敵を騙すにはまず味方からって仰りたいんですよねー」
「………………」
笑顔に崩れは無いがどこか刺々しい。
確かに、気づいた後も祥子君に何も確認しなかったのはオレも同じだ。タイミングはあった。
「玲華さんの勢いに押されたのも、確かなんですけどね。それはすみませんでした」
素直に祥子君は謝った。ここで折れられると、またしても言うべき言葉がみつからない。
ふと、先ほど見た玲華嬢の笑みを思い出した。
「もしかしたら、彼女も気づいていたのかな?」
「玲華さん、鋭いですから」
オレの言いたいことを理解して祥子君は頷く。
「わたしたちの前では、とくにそのような振る舞いはされてませんが。でも引っ張っていくのは常に彼女でした。もしかしたら、玲華さんも玲華さんなりに、神崎くんの想いを助けたくなったのかもしれませんね」
「まったく…ガキなんだか大人なんだか…」
わかった。一番苦手なのは、ガキではなくああいう分かりにくい存在だ。
「でも信頼、されてたでしょう?」
「…………あのな…」
「彼女がいたからこそ、神崎くんにああ言っても大丈夫だと、ちゃんと持ちこたえることが出来ると、そう判断されたんでしょう?」
オレはため息をついた。あまり納得したくない指摘だ。
「あのあと、功男さんにまた会ってな」
徐に話を変えた。
「また見抜かれたようなことを言われたよ。それから飲みに行って、ついこのことを話してしまったら、また悠汰を突き放してみろと諭された」
悩んだ挙句、オレの中では一応一番お洒落に見える店に連れて行かせていただいた。
それでも名目は居酒屋だ。
それなのに、やはり愉快そうに功男氏は飲んでいた。
まったく元気なじいさんだよ。まだ引退する必要ないんじゃないのか?
「あら、ではそれで?」
「考えならあったけど、本当はちょっと迷ってたんだ。でもそれで決心した。あの人には頭が上がらないね」
悔しく思いなりながらもそれが本心。懐の違いを見せ付けられた。
「ふふ。神崎くんは幸せですね。こんなに気遣ってくれる人が周りにちゃんとたくさんいて」
「本人気づいてないけどな」
祥子君の笑顔にオレも笑いながら言う。
「気づいたところで、変なところで気に病みそうだしな、あいつの場合」
「そうですね」
なにかを思い出したように祥子君が頷く。
意外な反応だった。
「もしかして、オレがいない間、あいつとそういうやり取りしたのか」
「そういう、とは?」
きょとんとした顔で聞き返された。
えーと…。どう言えば適切だろうか。
「つまりあいつが君に気遣ったというような……、そういうやり取りだ」
「さあ、どうでしょう」
おい。なぜ目を逸らす。
オレがいなくなって悠汰は二度ほどここに来ている。
後からパソコンを見たことを正直に告げてきた。フォルダのパスを解明したことも…。
天下を取ったようなニヤケ顔で、オレと祥子君の仲についてこっそり聞いてきた。ひと睨みして止めたらもう聞いてこなくなったけれど。
祥子君にはどうしても踏み込めない距離がある。
「先生はまだわたしに負い目を感じていますか」
真剣な瞳で祥子君が訊いてきた。
負い目…。
そういうつもりで思ったことはない。ただ、二度と傷つけたくはないと、それだけだ。
だから自分の想いを伝えたら、彼女に無用な重荷を感じさせてしまうのではないか。そう思っていた。
たとえ嫌われてなくても、ここは二人でやっていく職場で、オレのほうが上司的立場だ。間違ってもパワハラやセクハラに誤解されたら堪らない。
なるべく平穏に長く、この状態が続くようにすることが最善の策で。
「祥子君、気にすることはなにもないよ。すでにこの事務所は君がいないとまわらない。それぐらい重要なポジションに君はいるんだ」
「先生は、あまり本当の気持ちを語ってくれませんね」
少し目を伏せ、笑いながら言った彼女の言葉に、オレは戸惑う。
本音だよ、それも。
なにを言って欲しいんだ。
「どういう言葉が欲しい?」
解らなくて、遠いところに祥子君がいる気がして、つい直球で訊いてしまった。
「そういうこと、聞かないでください」
もう帰りますね、と変わらない笑みで言うと彼女は立ち上がった。
行ってしまう。
遠いところへ…。気持ちが遠かった。
「報告書の件だけど…」
「あら、あれは先生が作ってくださるんですよね。ありがとうございます」
なんとか話を続けようとしたけど、彼女はやんわり断ち切った。
まだ、どこか怒っているような棘を感じる。でもそれがなにかオレは見抜けない。
(もしかすると)
まさか、違うだろうと思う。そんなはずないと。
(オレの気持ちって)
だって仕事仲間だろう。一度はオレのこと疎んじたんじゃないのか。
ひどい言葉をたくさん言った。初めの頃。
無能だ、とか、なんでこんなことも出来ないんだとか………。苛立ちをそのまま当り散らした。
あの頃は少し軌道に乗っていて、調子に乗っていたから、周りが見えていなかったんだ。
たった二人だったからこそ、彼女も吐き出す場所が無く溜め込んでいったんだろう。
今頃こんな気持ちを伝えたところで、説得力の欠片もない。
(でももしかしたら)
彼女もいつまでも新人ではない。そして今も辞めずにここにいるということは…。
だけど、あの高校生の二人のように真っ直ぐにいけないのも事実で。
「お疲れ様でした」
いつものように祥子君は身の回りを片付けて、鞄を手にして扉に向かう。
オレは迷いの中にいたまま、見送るつもりで立ち上がった。
お疲れさまと、返すつもりで口を開く。
「祥子」
だけど。
変化を、オレも求めた。
大人になって変わるのはたいへんな勇気がいる。
「たまには泊まっていかないか」
久しぶりの。
勇気。
入り口で彼女は振り返り、驚愕に目を瞠った。
そしてすぐに笑顔になった。怒りの含まれない純粋な笑顔。
「嫌ですよ。だってここ、お風呂ないじゃないですか」
そのまま。
もう一度挨拶をして彼女は出て行ってしまった。
しばらく茫然と立ち尽くす。
(風呂があれば良いんだな)
どこか強引にそう思い込み、オレはやっと動いた。
書斎に入る。
前はちゃんと部屋を借りていた。だけどここで寝泊りする回数が増えて、出勤時間も勿体無くて、その部屋は引き払ってしまったのだ。
彼女のためにもう一度ちゃんとした家を持つことも悪くないと思える。
それとも隣の一室も借りて風呂を増築しようか。
いや、それだとあまりにも移動範囲が狭い。
これからの未来のことを思い巡らせながら、でも冷静さも持ち合わせつつオレは報告書を作成していった。




