第六部第十五話:聖女の審判と、剣士の交錯する迷い
第六部第十五話:聖女の審判と、剣士の交錯する迷い
エルがレヴリ王子との婚約後に与えられた真新しい伯爵邸。
その優美な調度品が並ぶ応接の間で、エルは格式高い衣服に身を包んだ一人の客人――天王界から派遣された聖女ソフィアを丁重に出迎えていた。
結婚の日取りも正式に決まり、国中が祝福ムードに包まれている中でのこの来訪。だが、その裏で糸を引いているのが第四王子オルギーであることは、政治的勘の鋭い者たちには容易に察しがつくことだった。
オルギーの真の目的は、聖女の権威を利用して「エルが魔王族の血を引く、あるいは魂を売った偽りの存在であるか否か」を公的に暴き、その婚約を破談に追い込むことにほかならなかった。
「わざわざ遠方よりお越しいただき、光栄ですわ、ソフィア様」
エルは物腰柔らかく、しかしどこか隙のない洗練された所作で紅茶を勧め、ソフィアをもてなした。
「お招きいただきありがとうございます、エル様。近頃、王国を揺るがす数々の奇跡を起こされた聖女と名高いあなたに、一度お会いしてお話がしたかったのです」
ソフィアの瞳は、純粋な称賛の色を湛えつつも、どこか相手の深部を見通すような冷徹な光を帯びていた。
美しく整った顔立ちの奥に、教団の威信を背負う者特有の峻烈な使命感が隠されている。
二人は世間話を交えながら、優雅に、しかし互いの腹を探り合うような緊張感のある歓談をしばらく続けた。
会話の最中、ソフィアはふと「お祝いの印に」と微笑みながら、エルの柔らかく白い手をそっと両手で包み込むように握り締めた。
その瞬間、ソフィアの指先から聖なる微弱な波動がエルの皮膚へと流し込まれ、体内に潜む魔王力や異質な気配の有無が厳しくスキャンされた。
しかし、エルの魂はあくまで純粋な人間のそれであり、魔王族特有の邪悪な気配は微塵も感知されなかった。
「……おや、どうかなさいました?」
小首をかしげるエルの無垢な眼差しを前に、ソフィアは静かに手を離し、安堵とわずかな当惑の入り混じった表情で首を横に振った。
「いいえ、失礼いたしました。あまりにもお美しい手でしたので、つい見惚れてしまいまして」
そう言ってソフィアは微笑み、オルギーの期待したような「魔王族の証拠」はそこには一切見出せなかったのである。
一方その頃、邸宅の広大な中庭の片隅では、ソフィアの訪問に伴って同行していた護衛の剣士グレイランスが、周囲の目を避けるように身を隠していたジェノスを見つけ出していた。
「……そこにいるのは分かっているぞ、黒衣の騎士よ」
グレイランスは鋭い眼光を向けながら、腰の剣に手をかけて一歩ずつ歩み寄った。
「ソフィア様が屋敷の中にいる間、退屈で仕方がない。どうだ、その腕前、一手御手合わせを願いたい」
実力者同士の血が騒ぐのか、グレイランスは純粋な剣士としての好奇心と探求心から、ジェノスに決闘を挑んだ。
「……いいでしょう」
ジェノスは静かに低い声を漏らすと、屋敷の隅で見守ろうとしていたプランとスロットに向けて、片手で「手を出すな」と冷徹な合図を送り、ゆっくりと愛用の剣を引き抜いた。
刃と刃が噛み合う高い金属音が、静かな庭園の空気を切り裂く。
ジェノスはグレイランスの鋭い剣閃から、相手の真意と底知れぬ実力を瞬時に見抜き、あえてその強大な魔王力を完全に封印した。
純粋な肉体の技術と剣技のみで、グレイランスの猛攻を受け止めていく。
二人の剣戟は凄まじく、まさに互角の攻防が続いた。
しかし、激しい打ち合いが長く続くにつれ、わずかに息を乱し、体力が消耗していったのはグレイランスの方であった。
対するジェノスは魔王族としての底知れぬ耐久力がありながらも、なぜかその足取りは重く、表情には言いようのない陰りが差していた。
そして、次の瞬間――。
ジェノスはグレイランスの喉元に突きつけるはずの剣をぴたりと止め、そのままガクリと肩を落とした。
その瞳の奥から、堰を切ったようにこらえきれなかった涙が溢れ出し、頬を伝ってポタリと地面に落ちた。
「……どうしたってんだよ。まだ決着はついていないぞ」
剣を引いたグレイランスは、冷徹なはずの黒衣の戦士が見せた唐突な涙に戸惑い、怪訝な面持ちで問いかけた。
「……自分でも、何をしているのか分からない」
ジェノスは震える声を絞り出し、苦悶の表情を歪めた。
「エル様を王子の妻に娶らせるために、命を懸けてここまで守り抜いてきたはずなのに……いざそれが現実になろうとしている今、私の胸にあるのは……ただ耐え難いほどの虚しさだけだ……」
押し隠していたはずの恋慕と絶望の想いが、強敵との剣を交える中で不意に決壊し、ジェノスは思わず敵であるはずのグレイランスの前でその本音を吐き出してしまったのだった。
グレイランスはジェノスの瞳に宿る痛切なまでの苦悩を見据え、その意図を瞬時に察した。
「それならよー! そんなに辛いなら、今からでもいっそ奪っちまえよ!」
グレイランスが豪快にそう提案すると、ジェノスは自嘲気味に首を横に振った。
「……できようはずもなかろう。そんなことをすれば、エル様が深く傷つき、悲しまれる。……そんな真似、エル様が望むはずがない」
「ふむ……」
グレイランスは腕を組み、複雑な表情を浮かべた。
彼の立場からすれば、厄介な魔王族の影を纏うエルがいっそこの場から姿を消して(退場して)くれた方が、ブラム王国の王室の秩序や安定が保たれるのではないかという思いが心のどこかにあったからだ。
「――グレイランス様! 用件は済みました。そろそろ帰りましょう」
屋敷の扉から顔を出したソフィアが、凛とした声で庭園の二人を呼んだ。
「おっと、時間切れのようだな」
グレイランスは剣を鞘に納め、最後に複雑な眼差しをジェノスに向けたあと、足早にソフィアのもとへと歩み寄った。
二人は並んで馬に跨り、夕暮れ時の王都への帰路を静かに進み始めた。
並走しながら、ソフィアは厳かなトーンでグレイランスに語りかけた。
「……先ほど、エル様のお身体に触れ、直接魔王力を確かめましたが、彼女は純粋な人間でした。魔王族の気配は微塵も感じられませんでした」
「そうですか……流石は聖女様の見立てだ」
グレイランスは相槌を打ちながら、脳裏によぎるジェノスの涙と、あの場に漂っていた異質な気配のことを思い返していた。
(――エル自身は人間でも、あの身辺をうろつくジェノスや騎士たちは、間違いなくただの人間ではない……おそらくは高位の魔王族に違い違いない)
しかし、グレイランスはなぜかその推測をソフィアにあえて口に出して告げなかった。
それは、彼自身の中に、あの苦悩に満ちた黒衣の戦士の姿に対する奇妙な同情や、王家のドロドロとした権力闘争とは違う何かを感じ取っていたからかもしれない。
夕闇が迫る王都の空の下、それぞれの思惑を胸に秘めた馬車と騎士たちの影が、静かに夜の帳へと溶け込んでいった。




