1 牢獄
鉄格子の嵌まった窓の向こうから男たちの怒号が聞こえる。
「殺してしまえ」とか「なぜ悪魔を生かしておくのか」といっているようだ。
そこへ小さく女の泣き声が加わると、怒号のボルテージがさらに高まった。
また誰か殺されたのだろうか?
少年は溜息をつくと窓際を離れ、室内に唯一設置された粗末な寝台に腰を下ろした。
室内にそれ以外に家具はなく、代わりといっては何だが、部屋の隅、小さな囲いの中に便器が見える。
そう。ここは牢獄の中だった。
少年は十代後半、端正な面立ちで聡明な目つきをしているが、顔色は生白く、ひょろひょろに痩せ細って身長も百七十あまりしかない。長い髪を後ろで無造作に縛り、麻で作った半袖の上着に、括裾の袴、さらに脛巾という出立をしている。
着衣は上下とも安物で、そのうえ汚れており、一部は生地がもう擦り切れ始めていた。
一つだけ目を引くのものがあるとすれば、上着の上に羽織った皮のチョッキだろうか。バロッソという稀少動物の皮でできており、貧乏人には手の出せない高級品だ。
囚人がなぜこんな贅沢品を身に着けていられるのか? 金持ちの放蕩息子ということか? どこかの娘を泣かせ、そのしっぺ返しに痛い目を見ているわけか? もしそうなら、生白い肌はともかく、痩せこけて惨めな体をしているのは、どうしたことか?
見た者は誰もが想像力をかき立てられずにはいられないはずだ。
鳳和歴三十二年、初秋。東尾国、陽美藩、|渉不城。
城とはいっても、実際には人口六千人あまりの小さな町で、城ではないし城郭もない。
牢獄はその東の端、地上二階、地下一階の古い石造りの建物の中にあった。
少年が監禁されているのは一階一番奥の薄暗い独房だ。
名はグドン。文字にすれば“愚鈍”と書く。
何とも失礼な名前だが、その名前の響きとは裏腹に、まだどことなくあどけなさが残る彼の表情からは、高い知性が感じられる。彼を一目見た者なら、誰しもその名が相応しくないと思うだろう。
彼の両親はなぜこんな名前を付けたのか?
グドンは外見上“人”とまったく変わりがないが、実際は、人族と妖族の間に生まれた混血、いわゆる半妖だった。
実のところ、この町の住民の大半が彼と同様に半妖なのだが、七年前、グドンは別の町から無理やりここへ連れてこられた。
牢獄に収監されたのはごく最近のことだが、この七年間、彼はずっと軟禁状態にあった。行動の自由はなく、食事も制限され、運動さえも十分に行えなかった。
なぜ、そんな目に遭わされているのか?
これには、グドンの出生、とりわけ父親セイイツ(凄一)との関係が深く関わっている。
セイイツはかつて、半妖の世界では誰も知らぬ者のいない稀代の英雄だった。その能力は傑出しており、人族はもちろん、半妖や妖族ですら誰も太刀打ちできないといわれ、周囲は皆、尊敬の眼差で彼に傅いた。
だが、そのいっぽう、誰もが彼を恐れもした。なぜなら、彼にはもう一つ非情なる殺戮者としての顔があったからだ。彼に逆らう者、逆らう国はすべて無残な最期を遂げ、打ち滅ぼされた町は死体で溢れ、血の川が流れたという。
そんな彼が三十年ほど前、突如、大衆の前から姿を消した。何の前触れもなく、姿を消した理由もわからぬままに。
半妖たちは悲嘆にくれ、その帰還を心から待ち望んだ。だが英雄が戻ることはなく、次第にその名前も聞かれなくなり、やがてはセイイツはもう死んだという噂が流れ始めた。
ところが、ちょうど七年前、どこかの見知らぬ女が、英雄に瓜二つの少年を連れて渉不城へやってきた。女は少年がセイイツの息子だと言った。死ぬ間際、セイイツが、その少年をこの町へ連れ帰るよう彼女に託したと。
渉不城の住民たちは驚き喜ぶと同時に、女の話を疑い、また少年が将来父親以上の殺戮者になるのではないか、と恐れた。なぜなら、なぞの女が、セイイツからの遺言を住民たちに伝えたからだ。
『息子の心には悪魔がひそんでいる可能性がある。ひとたび、その悪魔が解放されれば、住人に多数の死者を出し、町が崩壊してしまう恐れもある。そうならぬよう日頃から常に用心し、絶対にグドンから目を離さぬように』と。
少年を町へ受け入れるべきかどうか、住民たちの間で論争が巻き起こった。
女の話は本当だろうか? そして、この少年は本当に悪魔なのか? もし仮に、少年が悪魔のようになって殺戮を始めたら、どう対処すればよいか?
町の反応は概ね三つにわかれた。
一つは、彼の出自そのものを疑うものだ。
少年は確かにセイイツと瓜二つだが、実際に息子である証拠はどこにもない。女に何か魂胆があって、少年を英雄の子に仕立て上げ、町へ侵入させようとしているのではないか?
もう一つは、彼を英雄の息子として迎え入れ、愛し、保護すべきというものだ。
少年は、自分たちが敬愛してやまなかった英雄セイイツの忘れ形見だ。そのセイイツが自分たちを信じ息子を預けてくれた。その信頼を裏切ってはならない、と。
最後の一つは、受け入れることはやぶさかではないが、少なくともグドンが殺戮者に変貌しないよう、彼の能力を管理し、食事や修練、学問までを厳しく制限するべき、というものだった。
結局、少年は町へ受け入れられることが決まったが、四六時中監視されることになり、一般のこどもとはかけ離れた生活を送ることになった。
バロッソのチョッキといった贅沢品を持つ一方、栄養失調丸出しの貧弱な肉体をしているのには、そんな特別な事情があったのだ。
いっぽう、グドン本人は、こうした状況をまるで他人事のように眺めていた。
なぜなら、彼は渉不城へ来るまで浮浪児として食うや食わずの路上生活をしていたからだ。世の中には、公平公正で慈愛に満ちた世界など存在しない、と身に染みていた。
どうせ、自分にどうこうできる問題ではない。だいたい、おいらがセイイツの息子だなんて、周りの大人以上に自分自身が信じていない。他人がどう受け取り、自分をどう扱うかなど気にするだけ時間の無駄というものだ、と。
ところがここへきて、さらに彼の生活を不安定にさせる出来事が起きた。
渉不城で何人もの住民がたて続けに殺されのだ。それも、普通の半妖の仕業とはとても思えない、ひどく残忍ないやり口で。
町の者たちは密かにグドンを疑い始めた。彼の中で、セイイツの言っていた悪魔が目を覚ましたのではないのか、と。
グドンは牢獄に収監されることとなった。
グドンは深く息を吸うと、寝台の上で仰向けに寝転がり大の字になった。
住民の、こうした馬鹿げた猜疑心にはうんざりしていたが、そのいっぽうで、牢獄での生活もそれほど悪いものではないという思いもあった。牢獄の中にいれば、少なくとも安全が保たれたし、衣食住には困らなかった。それに、事実上の軟禁状態は今に始まったことではなかったから。
浮浪児だったころの生活と今の監禁状態とどちらがマシだろうか?
グドンはふとそんなことを考えた。
彼は幼少のころの記憶がほとんどなく、気付いたときには、浮浪児の仲間と路上生活をしていた。実はグドンという名も、両親がつけたものではなく、当時一緒に暮らしていた仲間の浮浪児がつけてくれたものだ。当時は本当に食うや食わずの生活で、理由もなく何度も殴られ、蹴飛ばされ、殺されそうになったことさえある。
あの頃に比べれば、屋根のある建物でのんびり暮らせる今の生活は、確かにずっと上等だといえた。
唯一の欠点といえば、退屈で何もすることがないことくらいだろうか。だが、それとても、取り立てて不平をいうほどのことではなかったが。
グドンが諦め半分で天井を眺めていると、誰かが入口の扉をノックした。
ホウカ(峰華)が飯を持ってやってきたのだろうか?
彼の脳裏に背のすらりと伸びた、色の白い少女の姿が浮かんだ。
ホウカはここでの彼の世話係だった。飯はいつも彼女が運んでくる。それに、囚人の扉をノックする者も彼女以外にいない。
残念ながら、彼女がノックするのは、グドンに対する礼儀からではなく、万が一にも、彼が裸でいたり、便所を使っているのに出くわすのは御免被りたいと思っているからに過ぎなかったが。
実際、彼女はグドンを嫌っていたし、グドンも彼女が大嫌いだった。




