第17話 ピンク色の泡沫と心停止アラート
紫雲宮の別棟に足を踏み入れた瞬間、悲鳴が空気を切り裂いた。
「嫌ぁっ! 来ないで!
私の中に……蟲がいるのッ!!」
理性の欠片もない、獣じみた絶叫。
部屋の中央で、少女が女官たちに押さえつけられ、弓なりに反り返っていた。
口元から溢れているのは、血の混じった淡い桃色の泡。
妹君――梨花、十六歳。
可憐な顔立ちは、すでに酸欠で土気色に変わり、瞳は焦点を失っている。
「妹を! 妹を助けて!」
身重の紫雲が叫び、駆け寄ろうとするのを医師たちが必死で止めていた。
「なりませぬ! これは狐憑き、あるいは致死性の病!
触れればお腹の御子に――!」
修羅場。完全なパニック。
私は入口で状況を一瞬で切り分け、ガクに視線を投げた。
「制圧を」
「了解」
次の瞬間、ガクが動いた。
怒号と悲鳴を肩で薙ぎ払い、暴れる梨花の両手首を正確に押さえ込む。
「ソラ! 今だ!」
私は飛び込み、彼女の手首にスマートウォッチを当てた。
――ピ、ピピピ……ピピピピ!!
乱れ切った警告音。
画面に映る波形を見て、背筋が冷えた。
心房細動。
心臓が、もはや拍動ではなく痙攣している。
血液が送り出されず、肺に逆流して溜まり続けている。
口から出ている泡は、結核の血ではない。
自分の体液で溺れている状態――肺水腫。
「病気じゃありません!」
私は叫んだ。
「ガク様、上体を起こして!
寝かせると肺が水没します!
それから、太腿の付け根を縛ってください!」
「血を戻させないのか……!」
「はい! 心臓への流入量を減らします!」
原始的だが、即効性のある方法。
私は梨花の顔に近づき、息を嗅いだ。
鉄錆の血臭。
――それに混じる、甘い、花のような刺激。
毒だ。
だが、トリカブトでも、ヒ素でもない。
散大した瞳孔。
異常な紅潮。
心臓への異様な負荷。
私の中で、点が線になる。
「……強心剤」
ジギタリス。
キツネノテブクロ由来の、心臓を“無理やり働かせる”薬。
少量なら薬。
だが、量を誤れば――心臓を壊す毒。
「紫雲様!」
私は振り向いた。
「到着してから、梨花様は何を口にされました!」
「お茶を……」
紫雲の声が震える。
「皇太后陛下から贈られた、滋養の薬茶を……」
――皇太后。
室内の空気が、一段冷えた。
毒殺未遂。
だが、巧妙だ。
“強壮”を名目にした心臓毒。
死因は「体質による心不全」で片づく。
ピピピピピピ!!
警告音が跳ね上がる。
心拍数、一六〇超。
限界域。
「ソラ! 脈が飛んでる!」
解毒剤はない。
時間もない。
考えろ。
毒で暴走した心臓を、どう止める?
その時、西離宮の記憶が閃いた。
青白く光る蛾。
誘引剤。
――ベラドンナ。
アトロピンの原料。
私はガクを見る。
「賭けです」
「確率は!」
「何もしなければ、十分以内に死亡!
やれば――生きるか、即死か!」
「やれ!!」
私は懐から小瓶を取り出した。
西離宮で回収した、毒草抽出液。
猛毒。
だが、毒を以て毒を制す。
迷走神経を遮断し、心臓の暴走を止める。
「飲みなさい……生きるのよ!」
舌下に、ほんの数滴。
梨花の身体が跳ねた。
――沈黙。
ピ……
ピ……
数値が落ちる。
一六〇……一四〇……一〇〇。
ドクン。
深い呼吸。
泡が止まり、痙攣が消えた。
「……安定しました」
私は膝が笑うのを必死で抑えた。
成功だ。
綱渡りだが、勝った。
ガクが呆然と笑う。
「毒を盛られて、さらに毒で救われるとはな……」
「計算通りです」
嘘だ。
背中は汗で冷え切っている。
紫雲が泣きながら妹を抱きしめる。
ガクが、低く囁いた。
「……で、どうする」
皇太后の贈り物。
黙れば次がある。
私はスマートウォッチのデータを保存した。
「返礼をします」
毒とは言わない。
“体質に合わなかった”と伝える。
だが、それは宣戦布告だ。
「次はない、と理解させます」
生存理学――
政治交渉フェーズへ移行。
科学と暴力は、ついに後宮最大の管理者へ牙を向けるのだった。




