後の話・終
プスリ
伸ばした腕に、微かな、だけど鋭い痛みが走る。
二の腕の中ほどに刺された細い針。それにつながった硝子筒から、透明な液がわたしの中に溶けていく。
それを、ジーッと見つめていると、自分もまた見つめられている事に気づいた。
顔を上げると、わたしを見つめる瞳と視線が合った。
「どうしたね。治療が、そんなに珍しいかい?」
面白そうに言う彼女の髪は真っ白。その中に浮かぶ、血の様に朱い瞳。それが酷く印象的だった。
その瞳を面白そうに笑ませながら、彼女は言う。
「君、あの娘の想い人らしいな」
「あの娘……?」
「セシルに決まっているだろう」
ドキン
その言葉に、心臓が跳ねた。
身動ぎしたせいで、沈んだ針が動いたのだろう。
腕に、鈍い痛みが走った。
「おいおい。刺針の最中に動いてはいけないよ。痛かっただろう?」
労わる言葉に反して、その目は変わらず楽しそうに笑んでいる。
きっと、わざとなのだろう。
やっぱりこの女は、何処か好きになれない。
ツ……
冷たい感触が、肉の中を滑る。そして、
スルリ
腕に刺さっていた針が、音もなく抜けた。
微かな傷の上に膨れる血の粒。それを、湿ったガーゼが拭う。
薄いアルコールの匂いが、鼻を刺した。
「で、何回ほどかな?」
「……え?
急にかけられた問い。訳が分からず、キョトンとする。
「おや?言葉が足りなかったかな?」
そう言って、彼女はまたククと笑う。そして、とんでもない事を口にする。
「夜の営みだよ。週に、何回ほどしている?」
「……な……!?」
言葉の意味を理解した途端、顔に一気に血が上がる。
「な、何言ってるんですか!!そ、そんな事……!!」
「おや?まだなのかい?」
「まだも何も、わたしとセシルはそんな関係じゃ……」
「恋人同士なのだろ?」
「!!」
いきなり直球をぶつけられて、再び心臓が跳ねる。
けれど、そんな事なんて気にもせずに、彼女は話を続ける。
「意外だな。やっていた商売上、その方面に対する敷居は低いと思っていたのだが」
「あんな商売と、セシルとの仲を一緒にしないでください!!」
思わず声を荒げる。でも、それが罠だった。
彼女がこれ以上ないくらい、嬉しそうに破顔する。
「ふふ。やっぱり、そういう仲かね?」
「あ……」
「隠す事は許さないよ。何度も言うが、君達は私の所有物だ。全ての事情は、把握させてもらう」
意地の悪い顔をしながら、注射の後にペタリとシールを貼る。
「貴女に、何の権利があってそんな事……」
「言ったろ。君達が私の所有物だからさ」
そして、わたしの注射痕をトントンと指先で叩く。
「忘れてはいけない。私は対価を払った。それによって、君達はここに在る。今の君達の生命は、全て私の管理化だ」
「………」
「まあ、そう怖い顔をしなさんな」
そう言いながら、彼女は持っていた注射器をカタリとトレイの上に置く。
「契約に従い、私は君達の死を喰らい続ける。私が在る限り、君達を神の元に委ねはしない。だから……」
彼女が椅子から立ち上がる。黒衣の中から手が伸びて、わたしの顎をクイと上げた。覗き込む朱い瞳。天に浮かぶ赤月の様に、わたしを照らす。
「君達は、好きな様に生を貪ればいい。私はただ、それを掌握するだけ。束縛するつもりなどありはしないさね」
「………」
「いいね。その目。素直じゃない娘は大好きだよ」
ガタンッ
顎に絡まる手を振り払う様に、立ち上がる。
「今日の治療は、終わったんですよね?なら、部屋に戻らせてもらいます」
「ああ。好きにしておいで」
振り払われた手をわざとらしくプラプラさせながら、彼女は言う。相変わらずの薄笑いが妙に癇に障って、椅子を蹴飛ばす様にして出口に向かう。
戸をあけると、その背にまた声がかけられた。
「事を成すなら、早めがいいよ。モタモタしていると、使い物にならなくなるからね」
しつこい!!
クックと響く笑い声を遮る様に、わたしは部屋の戸を閉めた。
「治療は、終わられましたか?」
部屋の外には、ハヅキさんがいた。わたし達がここに来て以来、彼女は付かず離れずの距離を保って、そばにいる。
まるで監視人の様だと思っていたけど、先の彼女の言葉でハッキリした。
この女は文字通り、鍵番なのだ。
籠に入れられた鳥が、逃げ出さないための。
「どうか、なされましたか?」
少なからずの敵意を孕んだ、わたしの視線。それに気づいたのか、彼女がそんな事を訊いてきた。
「……別に、何でもないです……」
何も、馬鹿正直に話す事はない。わたしがそう言葉を濁すと、彼女は特に詮索する事もなく「さようで」と言って歩き出した。
先を進むハヅキさんの後を追って、わたしも歩く。
わたし達の暮らす、”サヤさんの部屋”はとても広い。いや、広いとかそういうレベルの話じゃない。そもそも、”部屋”と言う表現自体、合っていないと思う。
部屋と呼ばれる空間の中に、また幾つもの部屋がある。その一つ一つが、これまた沢山の階段や通路でつながっていて、その様はまるで迷宮の様だ。
わたし達はそれぞれ個室を与えられているけれど、一度部屋の外に足を踏み出してしまえば、もう自分が何処にいるか分からなくなる。
ただでさえそんな有様なのに、無数にある部屋の中には入ったらただじゃ済まない開かずの部屋まであるという。
おちおちと、散歩も出来やしない。
不思議と言えば、このハヅキさんもそうだ。
わたし達の部屋には沢山のものが揃っていて、無理に外に出なくても不便も退屈もしない様になっている。
それでも、外に出なければいけない時はある。病気の治療も、その一つだ。
ここに来たその日のうちに、あたし達全員が病気の検査を受けた。わたしやシンディ、そしてベティーナが陽性と診断されて、治療が始まった。
治療をするのは、サヤさんだ。彼女の研究室?までは歩いていかなければならない。どうあっても、自分の部屋から出歩かなければいけない。
そんな時、面倒を見てくれるのがハヅキさんだった。
どういう理屈かは分からないけれど、わたし達が部屋の外に出ると彼女は必ず外で待っている。一度、どうなっているのかを訊いたら、いずれわたし達にも出来る様になると言われた。
曰く、
『貴女達はまだ、この世界に順化していません。身体が染まりきれば、自ずと自由は聞く様になります。それまでは、わたくしが皆さんのお世話をさせていただきますので、委細ご心配なく』
……だそうだ。
この世界に、身体が染まる。その言葉に、少なからず身体が震えた。
そう。わたしは今だ、恐れているのだ。
この世界を。
ここの理を。
そして、あのサヤと言う得体の知れない魔女を。
未練なんて、ない筈なのに。
全部、あそこに置いてきた筈なのに。
それでも、わたしはまだ、断ち切れていないのだ。
「それは、未練ではありません」
不意に、声が響いた。
驚いて前を向くと、先を歩いていたハヅキさんが立ち止まってわたしを見つめていた。
「少し、寄り道をしましょう」
そう言うと、ハヅキさんは不意に隣りにあった扉を開いた。そのまま、ふいと扉の向こうに消えてしまう。
「あ!!ま、待って!!」
こんな所で彼女とはぐれたら、今のわたしには成す術がない。部屋と言う空間の中で、野垂れ死ぬと言う妙な事態に陥ってしまう。
わたしは慌てて、彼女の後を追った。
「うわ……!!」
扉をくぐり抜けたわたしは、そこで驚きの声を上げた。
急に拓けたその場所は、広いバルコニーの様だった。その、ほぼ真正面と言っていい場所に大きな望月が浮いていた。煌々と降り注ぐ、青い光。それが怖いほどに眩しくて、わたしは思わず目を瞑った。
と、
♪……春に桜が香る夜は……雲雀が恋歌歌うまで……父の背に乗り眠りましょう……♪
♪……夏に蛍の灯火燃ゆる夜は……椎に空蝉止まるまで……婆の歌にて眠りましょう……♪
何処からともなく、聞こえてくる歌。
見回すと、降り注ぐ月明かりの中で歌うハヅキさんの姿が目に入った。
「お綺麗でしょう?」
わたしに気付くと、彼女は歌うのを止めてこっちを見、そう言った。
「ここは……?」
わたしの問いに応じる様に、こちらに向き直るハヅキさん。
綺麗な顔が、月明かりの陰影の中でなお一層栄えて見えた。
「この世界には、昼はありません。天候の推移もありません。ここにくれば、いつでもこの月を見る事が出来ます」
「そう……なんですか?」
「ちなみに、この場所は叉夜さまも煌夜さまも、知りません。わたくしだけの、秘密の場所です」
「……え?」
「意外でしたか?」
わたしの心を読む様に、ハヅキさんが言った。
「わたくしに、叉夜さまに対して秘密を持つ自由が許されている事が」
静かに語る彼女の顔が、微かに微笑んでいる様に見えたのは気のせいだろうか。
「叉夜さまには、言われていた筈ですが?束縛はしないと」
「でも、それは……」
「もちろん、あの方の言葉に異はありません。わたくしが”秘密を持っている”と言う事実は把握しておられます。ただ、その秘密の内容にまでは干渉なさりません」
「………!!」
彼女の言葉の意味に、心臓がトクンと泣いた。
それを知っているのか、ハヅキさんは続ける。
「先も言いましたが、貴女の心のしこりは未練ではありません」
「………」
「叉夜さまに対する、不信です」
また心臓が泣く。
まるで、その通りだと言わんばかりに。
「叉夜さまに全てを掌握すると言われて、貴女は思ったのではありませんか?」
ハヅキさんの瞳が、月の光の中で意地悪げに光る。
「想い人を……セシル様を、奪われるのではないかと」
「………」
図星だった。
わたしは、サヤさんを敵視していた。
彼女は言った。
わたし達は、自分の”所有物”だと。
わたし達の命。
わたし達の生。
その全てが、自分のものなのだと。
その言葉を聞いた時、わたしの中に確かな敵意が生まれた。
わたし達の全てが、彼女のもの。
それなら、セシルは?
彼女が言う通りなら、セシルの全ても彼女のものと言う事になる。
わたしは、それが許せなかった。
セシルが、わたし以外のものになる。
ありえない事だった。
絶対に、許せなかった。
「そのお気持ちは、良くわかりますよ」
降り注ぐ月明かりの中、ハヅキが言う。
その顔は、今度こそ確かに笑っていた。
「ご心配はいりません。叉夜さまが欲するのは、一個の生物体としての貴女達。その心の自由を束縛する事は、ありません」
「………」
「あの方は、所有物の想いを否定はしません。例え、それが歪んでいようと。間違っていようと」
「………」
黙りこくる、わたし。
理屈では分かる。けれど、心が納得しない。
所詮は、従者の言葉。
根ざした疑念を、払う事は出来ない。
「信じられませんか?」
ハヅキさんが問う。
わたしの心を見通す様に、笑いながら。
コクン
悟られているのに、誤魔化す意味も必要もない。
素直に、頷く。
「そうですか。それなら、証拠をお見せしましょう」
そう言うと、ハヅキさんはおもむろに自分の服に手をかけた。
「え?」
プツン
ボタンを外す音が、妙に大きく聞こえた。
プツン プツン スルリ
「え?え?え?」
狼狽えるわたしの前で、ハヅキさんの服がハラリと落ちた。
青い月明かりの中で輝く、一糸まとわぬ肢体。
「な、何してるんですか!?急に!!」
そのあまりの美しさに、思わず目を逸らす。
「目を、逸らさないで」
耳元で囁く声と、甘い香り。
いつの間にか近づいたハヅキさんが、わたしの手を掴む。
冷たい手の感触。胸が、ドキリとした。
そのまま、手を引かれる。
「ここを……」
導かれた先は、彼女の下半身。そこに触れた時、妙な違和感を感じた。
「え……?これって……」
滑やかな肌の中に浮く、不自然に乱れた感触。思わず目を向けると、そこには白い肌に一直線に走る歪んだ皮膚の模様。
「手術の、痕……?」
「ええ……」
己の身体を、真一文字に両断する様に走る手術痕。それを愛しげになぞりながら、彼女は言った。
「わたくしは、葉月になる前、二人の人間でした」
「……え?」
言葉の意味が、分からない。戸惑うわたしを見つめながら、ハヅキさんは続ける。
「弥生と皐月。それが、わたくしの元の名前です」
「ちょ、ちょっと、待って……」
「理解が、追いつきませんか?では、お話しましょう」
そして、彼女は語り始める。
彼女が、ハヅキとなった物語。
それは、あまりと言えばあまりにも荒唐無稽な夢物語
けど、今のわたしはすんなりと受け入れる。
何故なら、今のわたしがいる場所が、そうだから。
現の外にある、夢幻の世界。
それが、今のわたし達が生きる場所だから。
全てを聞き、理解して、わたしはその身を震わせた。
ハア……
深く吐いた息の向こうで、いつの間にか元通りに服をまとったハヅキさんが微笑んでいた。
さっきまでと、同じ笑顔。
だけど、それが今はとても妖しく見える。
震える声で、わたしは問うた。
「それじゃあ……貴女は……いえ、貴女達は……」
「わたくしの国では、弥生は三月。皐月は五月を意味します。そして葉月が意味するのは、八月……」
「ああ……」
「はい。二人合わせて、葉月です」
クラリ
軽い目眩が襲う。
あまりにも恐ろしく、あまりにもおぞましい話。それこそ、神をも恐れぬ所業。
「ええ。あの方は、神の敵ですから」
わたしの思いに、ハヅキという名の彼女はあっさりとそう答える。
「わたくしには、後悔も怨嗟もありません。ずっと共にいたいという願いを、叶えてくれたのですから」
そう言って、彼女は腹部を撫でる。そこには、彼女が彼女達だった証がある。
「この傷も、消してやろうと言われたのですけどね。あえて残していただきました。わたくし達が、確かに在った証として」
語る彼女の声は、とても嬉しげ。想いが叶った者達の、心からの歓喜。それを悟った瞬間、わたしの中で何かがストンと落ち着いた。
「どうやら、納得していただけた様で」
ハヅキさんの問いに、わたしは素直に頷く。
そう。奪われるんじゃない。ただ、庇護されるのだ。彼女の腕の中で、己の想いだけを追い求める。それが、これからのわたしの在り方。
もしその想いが解れかけても、彼女はそれを編み直してくれる。前よりも強く。離れる事が叶わぬくらいに。
道理も。倫理も。神さえも置き去りにして。
「アハ……アハハ……」
知らずのうちに、口から笑いが溢れる。堪える必要すらも、ありはしない。
わたしは、大きく口を開いた。
「アハハ!!アハハハハハハハハ!!」
二人だった少女が見つめる中、わたしの歓喜は月の光の中へと溶けていった。
「あの方に、問われたのでしょう?何故、セシル様と関係を持たないのかと」
「あ、えと……う、うん……」
あまりにも率直な問い。しどろもどろになるわたしを見て、ハヅキは笑む。
「あの方も、面白半分……である事は否定しませんが、それなりのお考えがあっての事ですよ」
「考え……?」
「人は想いが強くなればなるほど、その生命力は強くなります。想い人であるセシル様と契れば、貴女の命はより強く燃えるでしょう。それは、貴女の身に巣食う病を焼き尽くす助けになりましょう」
その言葉に、わたしは上目遣いで彼女を見る。顔が紅潮してるのが、自分でも分かった。
「……そういうもの?」
「そういうものです」
何の迷いもなく、返ってくる答え。
わたしは、フフッと笑んでみる。
「そうか……。じゃあ……」
今までの自分にはなかった炎が、心に灯る。
「頑張って、みようかな?」
「どうぞ、ご随意に」
そう言って、ハヅキさんはシャナリとお辞儀をした。
「ねえ。本当に、大丈夫かな?」
目の前の扉に手をかけながら、わたしは問う。
「大丈夫でしょう。今の、貴女なら」
月の光の中で、彼女が太鼓判を押す。
なら、もう躊躇する理由はない。
「じゃ、行ってきます」
「ご武運を」
そんな同胞の声を背に、わたしはガチャリと取手を回した。
開けた扉の向こうでは、ベッドに腰掛けたセシルがポカンとこっちを見ていた。
会心の笑みを浮かべるわたしに、彼女は問う。
「シ、シェミー?あんた、どうやってここに?」
「んー。セシルに、会いたかったからかな?」
そう答えながら、後ろ手で扉を閉める。
さあ。これでもう、邪魔は入らない。
そのまま、スルスルとセシルに歩み寄る。
「シ、シェミー?な、何?何か、怖いよ」
「そう?セシルは相変わらず、可愛いけどね」
ギシリ
ゆっくりとベッドに足をかけて、セシルに覆い被さる。
彼女の頬を撫でながら、髪に顔を埋める。甘い香りを楽しみながら、もう片方の手で白い足をサラリと愛でた。
「ちょ!!ちょっと待って!!」
わたしの意図に気づいたのか、セシルが怯えた様に後ずさる。
逃がしゃ、しない。
後を追う様に迫って、壁際に追い詰める。
胸の中に灯った炎は、消えてはいない。否。むしろより一層、激しく燃え盛っている。収める方法はただ一つ。
「セシル……」
「な、何……?」
「愛してるよ」
「!!」
「だから、ね?」
そう。
ここは、籠の中。
魔女の腕という、大きくて狭い籠の中。
自由はない。
けれど、心は自由。
囚われの小鳥は、籠の巣箱で番えばいい。
逃がさないし、逃げられない。
愛し合おう。
永久に。
永遠に。
この、腐ちて爛れた安寧の中で。
「良い子に、してね」
そしてわたしは、震える彼女の口を塞ぐ。
全てが蕩けゆく瞬間、何処か遠くで魔女の哄笑が響いた。
終わり




