六夜の話・拾肆
そこは、酷く奇妙な空間だった。
一切の光が無く。
一切の音が無く。
有るのは、薄靄の様に漂う闇と、冷水の様に揺らめく静寂。普通の感覚であれば、忌避してしまいそうな要素の渦巻く空間。けれど、そこでその異様さを最も演出せしめているものは、また別のもの。
それは、「棚」。
一つ一つが馬鹿馬鹿しい程に大きな、黒塗りの棚の群れ。それが幾重もの列を成し、見渡す限り延々と続いている。
全てが書架らしく、中には微塵の隙間も無くギッシリと詰め込まれた数多の書。まるで、図書館の様にも思えるが、それにしては漂う雰囲気が奇妙に過ぎる。
そんな、場所だった。
その空間の中心に、ポカリと空いた場所がある。
そこにあるのは、丸い円卓。もっとも、普通の円卓とは違う。それには、ちょうどドーナツの様に穴が空いていた。そして、その中には二つの人影。
一人は少年。恐らく、歳の頃は十代前半。目深に被った、ハンチング帽。そして、首に巻いた一織りのマフラーが目立つ。
もう一人は、少女。見た歳は、マフラーの少年と同じ頃。小柄な身を、黒と白が混沌と絡み合った奇妙な模様の和服が包んでいる。床につくほどに伸ばされた黒髪。その間から、ぞっとするほどに綺麗な顔が覗いている。眠っているのだろうか。その瞳は薄く閉じられ、寝椅子に委ねられたその細い身体は身動ぎ一つしない。
「……どうしました?君から仕事の話とは、珍しい事ですね」
少年が、面白そうな口調で話す。円卓を挟み、対面にいる相手に向かって。
そこにいるのは、長い後ろ髪を揺らす少年。煌夜だった。
溜息つきつき、煌夜は言う。
「僕も本意じゃないんだけどね。のっぴきならない事情が出来たんだ」
「でしょうね。私財稼ぎなんて、基本僕達には関係のない事ですから」
言いながら、帽子の少年は椅子に深く身を沈める。長いマフラーが不自然な弧を描いて、宙を泳いだ。
「とは言っても、あの地域で問題になっていたのは『ハールシンギ』くらいですからね。他にあるとすれば……」
ピシ……ピシピシ……
軽く目を閉じる少年。宙を舞うマフラーに、光の線が幾つも走る。しばしの間。やがて、少年の目が開く。
「ありましたね」
「そうかい?助かるよ」
「今、”送り”ます」
言葉と共に、マフラーがスルスルと煌夜に伸びる。
ピシ……ピシシ……
マフラーの表面に走る光を見つめる煌夜。やがて、ゆっくりと頷く。
「同国同時代、○○地方の△△村。ものは、『ナックラヴィー』か……」
「だいぶ、厄を振り撒いている様ですね。かなり、境界が歪んでいます」
「どれくらいの、対価になるかな?」
「『ナックラヴィー』は面倒ですからね。相応は」
「それは、重畳」
それだけを聞くと、煌夜はクルリと踵を返す。
その背に向かって、帽子の少年が声がける。
「どうぞ、お気をつけて」
「気遣われる程じゃない」
「分かってます」
「それよりも、頼んだよ”例の話”」
「無問題ですね。”人手”は、いつでも不足していますから」
「ありがとう」
そう言い残し、煌夜は去っていく。夜色のその姿が闇の中に溶け消えるのを見届けると、帽子の少年は笑って言った。
「やれやれ。何だかんだ言っても、情が深いですね。ねぇ、天姫」
そして、少年は傍らで眠る少女の髪をさらりと撫でた。
「ふむ。経過は順調……と言うか、ほぼ治癒したと見ていいだろう。おめでとう」
あたしから抜き取った血を、何やら変な道具で弄っていたサヤ。彼女が、こっちも見ずにそう言った。その声音が、微妙につまらなそうだったのは気付かなかった事にしておこう。
あの日から一週間。数回の検査の後に、あたしは件の言葉を聞くに至っていた。
もっとも、自覚症状がなかったから感慨なんて湧く筈もないのだけれど。
「この病の1期はそんなものだよ。3期以降でも治せるが、その綺麗な身体に跡など残したくはないだろう?」
その言葉に、あたしはピクリと反応する。
「……もっと進んでても、治せるんだね?」
「臓器の壊死や、神経・脳障害を併発していなければ余裕だよ」
ボソッと「まあ、その方が楽しいがね」と言う台詞が聞こえたけれど、やっぱり気づかないふりをした。
そもそも、そんな事大した問題じゃない。重要なのは、その前の台詞だ。彼女は言った。確かに。治せると。あたしより、病状が進行していても治せると。
あたしは、言う。
「ねえ、サヤ」
「何かな?」
「この間の話なんだけど……」
カチャリ
サヤが、手にしていた器具を置いた。
「まあ、易い話ではないな」
「どうして!?治せるんでしょう!!あなたなら!!」
「治せるさ」
噛み付くあたしに、サヤはあっさりと答える。
「先にも言ったが、こんな病、如何程のものでもない。その気になれば、百人だろうが千人だろうが治せるさ」
「だったら!!」
「今ひとつ、分かっていないようだね」
ツカツカと近づいてきたサヤ。その指で、ツンツンとあたしの頭を突く。
「言った筈だ。私は君の死を喰らうと。それは、君から死を永遠に奪うに等しい」
「あたしから……死を……?」
「そう。あの契約を成した時から、君はもう私のものなのさ。私が在る限り、君は永劫死する事は出来ない」
白い指が、額から頬に滑る。彼女の肌は、とても冷たい。頬をなぞるその感触に、震える背筋。そんなあたしを愛でながら、サヤは言う。
「分かるだろう?私は、君を連れて行くつもりだ。常に、私の手元に置いておくためにね。煌夜が支払う額が、多いと思わないかい?あれは、君自身の対価でもあるのさ」
話すサヤは、物凄く楽しそうだった。それを見て、あたしは理解する。
そう。彼女にとって、病を治す事は、命を救う行為は、慈愛でもなければ使命でもない。愉悦であり、享楽なのだ。
何という不遜。何という傲慢。神を無能と表する彼女の根源を、そこに見た様な気がした。
でも、それはあたしにとっての僥倖だ。
頬を撫でるサヤの手を取って、自ら頬を擦り付ける。
囁く声に、いっぱいの艶を込めて。
「ねえ……。それなら、あたしの願いはあなたにもいい話じゃないの?」
あたしの誘いに、サヤは笑みで答える。
「確かに、悪い話ではなかったかな?」
「だよね。もっと沢山の死が、手に入るんだから」
「だがね」
けれど、彼女は言う。
「それは、より多くの生を背負う事と同義だよ。対価が、なかなかに大変だ」
「あるだけの”死”じゃ、足りないの?」
「私が得る対価には十分さ。問題なのは、こちらが払う”対価”だ」
「あ……」
「分かったかい?」
思わず声を上げたあたしを見て、サヤはクスクスと笑う。
「まさか、煌夜が払ってる金貨が無限に湧いてくるものとでも思っていたのかい?」
「えっと……その、魔法でどうにかしてたんじゃないの……?」
「魔法は、そうそう都合のいいものじゃない。そんなのは、素人の妄想だ。あの金貨は、正当な手段で稼いだものだよ。その証拠に、煌夜は毎晩仕事に出ていただろう?」
そうは言われても、にわかには信じられない。それくらい、彼が持ってくる金貨の量はあたしの常識を逸していた。
「でも、あんな大金が一晩で稼げる仕事なんて……」
「あるのさ。そして、それがあの子の生業だ」
「それって、何?あの子、一体何をしてるの?」
あたしの問いに、サヤは窓の外を見る。
「聞かなくなったと思わないかい?」
「何を?」
「『ハールシンギ』の噂さ」
「!!」
あたしがハッとした、その時――
どよっ
突然、遠くでどよめきが起こる気配がした。思わず、振り返る。バーの方で、何かがあったらしい。とまどっていると、サヤが言った。
「煌夜が、帰ってきた様だね」
「え?」
「行っておいでな。いいものが、見れるだろうよ」
楽しそうにニヤニヤするサヤ。この娘がこんな顔をするのは、何か腹積もりがある時だ。何か嫌な予感がする。あたしは部屋を飛び出すと、バーへと向かう。視界の端で、サヤがピラピラと手を振るのが見えた。
どよどよどよ……
バーに近づくにつれて、どよめきは大きくなってくる。絶える気配はない。間違いなく、何かがあったのだ。皆の。シェミーの顔が脳裏を過ぎる。
胸が押しつぶされそうな不安に慄きながら、ドアを開ける。
「皆!!どうしたの!?」
そんな叫びと一緒にバーに飛び込んだあたしは、その場で固まった。