第一章 半額シールの勇者
「特売日の英雄と、ゴミみたいな『半額シール』」
特売日の夕方、揚げたてのコロッケの香りがスーパーの惣菜コーナーに漂っていた。
「半額シールだぁぁ!」という猛獣のような主婦たちの雄叫びと、ドスッという鈍い衝突音。
俺は突き飛ばされたパートのおばちゃんを庇い、煮えたぎるフライヤーの中へ頭からダイブした。
72時間。それが俺、折原晴也がぶっ続けで店舗に立ち続けていた時間だ。
人手不足のブラック大型スーパーにおいて、雇われ店長兼、惣菜部チーフという肩書は「死ぬまで働け」という呪いと同義である。それでも俺は、この店が好きだった。安くて美味い惣菜を、お客様に腹いっぱい食べてほしかった。
だから、タイムセールの熱狂の中でパートの鈴木さんが押し倒された時、俺の身体は思考よりも先に動いていた。
視界いっぱいに迫る、黄金色に煮えたぎる180℃の油の海。
顔面から突っ込む直前、俺の脳裏をよぎったのは「あぁ、今日の油はまだ綺麗だな」という、店長としての謎のプロ意識だった。
そして、全身を包む凄まじい熱と痛み――。
「いらっしゃいませー。あ、お疲れ様でーす。唐揚げでのご逝去、誠にご愁傷様ですぅ」
……気がつくと、俺はファミレスのボックス席に座っていた。
全身を焼いたはずの痛みはない。着ているのは、油とソースの染みがついた見慣れたスーパーの薄っぺらい制服だ。
目の前には、ピンク色の芋ジャージ(胸には若葉マークの刺繍入り)を着て、足元は健康サンダルという、ドン・キホーテの深夜に生息していそうな少女が座っていた。彼女は巨大なチョコレートパフェを凄い勢いでかき込んでいる。
「えっと、ここは……?」
「天界のファミレス空間『ルナキン』です。私、見習い女神のリリスって言います。もぐもぐ」
「女神……? じゃあ、俺はやっぱり死んだのか」
「はい! 72時間連続勤務からのフライヤーダイブ、見事な社畜ぶりでした! というわけで、折原晴也さんには異世界『アナスタシア』へ転生していただきまーす」
パフェのコーンフレークをサクサクと鳴らしながら、リリスと名乗る女神は極めて事務的に告げた。手元には、背面カバーに羽の意匠があるスマートフォン――エンジェルすまーとふぉん、と言うらしい――が置かれている。
「剣と魔法の世界ですか」
「そうですそうです。魔王とか魔獣とかいるんで、適当に頑張ってくださーい」
あまりにも適当だ。俺のスーパーでこんな接客態度をとるバイトがいたら、バックヤードで一時間は説教しているところだ。
「ささ、とりあえずこれ回して回して! これで初期の『ユニークスキル』が決まりますから!」
リリスがテーブルの上にドンッと置いたのは、商店街の福引きでよく見る木製の「ガラポン」だった。異世界転生のチート能力を決めるにしては、あまりにもアナログすぎる。
「回せばいいのか?」
「はい! 激レアの『聖剣召喚』とか『全属性魔法』とか入ってますから! 晴也さんの運命の引き、見せてもらいましょう!」
カラカラカラ……カランッ。
出てきたのは、くすんだ黄色の玉だった。
リリスがスマホのカメラでその玉のバーコード(なぜか付いている)をスキャンする。ピピッという電子音が鳴った。
「おっ、出ましたね! 晴也さんのユニークスキルは……『半額シール』です!」
「……は?」
「手のひらから、お店の値引きシールを出せる能力ですね! ……って、え? ただの紙切れ? ゴミじゃんウケる」
リリスがパフェを吹き出しそうになりながら、腹を抱えてゲラゲラと笑い始めた。
待て待て待て。
剣とか魔法とか、そういうファンタジーなチート能力じゃないのか? スーパーの店長だったからって『半額シール』って、俺の死に様への皮肉が過ぎるだろう。
「あの、これ異世界でどうやって使えと……」
「さぁ? あ、そろそろ次のお客さん(死者)が来るんで! 休憩終わっちゃう! 異世界でも頑張ってくださいねー!」
「いや、ちょっと待っ――」
リリスが立ち上がり、履いていた健康サンダルを俺の顔面に向けて振り抜いた。
「ホーリー・スマッシュ!!」
ドゴォッ! という鈍い衝撃。
物理攻撃かよ!? とツッコむ暇もなく、俺の視界は強烈な光に包まれ、ファミレスのボックス席から彼方の空へと吹き飛ばされた。
*
「きゃあああああっ!」
背中をしたたかに打ちつけた痛みに呻いていると、いきなり少女の甲高い悲鳴が鼓膜を揺らした。
跳ね起きると、周囲は鬱蒼とした森の中だった。湿った土の匂いと、生い茂る木々。間違いなく、さっきまでの日本でも天界のファミレスでもない。
前方から、プラチナブロンドの美しい髪を振り乱した少女が、木製の杖を抱えながら必死に走ってくる。歳は二十歳くらいだろうか。小動物のように可愛らしい顔立ちが、今は恐怖で引きつっている。
その後ろには、緑色の肌をした醜悪な小鬼――ゴブリンが、丸太のような棍棒を振り上げて追いかけてきていた。
「嘘だろ、いきなりハードモードかよ!」
俺は慌てて立ち上がった。だが武器なんてない。着ているのは油臭いスーパーの制服だけだ。
逃げるべきか。だが、俺の目の前で少女が木の根に足を取られ、派手にすっ転んだ。
「ああっ……! ど、どなたか……!」
ゴブリンが「ゲラァッ!」と下劣な笑い声を上げ、少女の華奢な頭部へ向けて棍棒を大きく振り上げる。
「危ないっ!」
俺の身体は、またしても思考より先に動いていた。パートのおばちゃんを庇った時のように、ゴブリンと少女の間に割り込む。
ゴブリンの血走った赤い目が俺を捉え、棍棒の軌道が俺の顔面へと修正された。
風を切る音。まともに食らえば、間違いなく脳天がスイカのように砕け散る一撃。
――だが、俺の目には、その大振りの攻撃が『スローモーション』に見えた。
(……右斜め下からのクレーム(物理)!)
長年のスーパー勤務。怒り狂ったクレーマーから投げつけられる買い物カゴ、飛んでくる商品、そしていきなりの胸ぐら掴み。
それらを全て紙一重で躱し続け、瞬時に土下座へと移行する俺の『神回避ステップ』は、すでに一種の武術の域に達していた。
目の前のゴブリンの動きは、大クレームを起こした酒酔いのおっさんの右ストレートよりも遅く、軌道が単調だった。
シュッ!
俺は首を僅かに逸らし、飛んできた棍棒を数ミリの差で躱す。凄まじい風圧が頬を撫でるが、ダメージはゼロ。
体勢を崩したゴブリンの懐へ、吸い込まれるように入り込んだ。
ここで強力な反撃だ! ……といきたいところだが、俺には悲しいかな、非力な腕力と例の『ゴミスキル』しかない。
「ええい、ヤケクソだ! 出ろ、『半額シール』!!」
俺が右手を突き出すと、手のひらに見慣れた黄色と赤のシールがふわりと現れた。
台紙から剥がす手間すらない。俺はそれを受け取るように掴み、すれ違いざま、ゴブリンの広っ苦しい額に『ペタリ』と貼り付けた。
『半額』
スーパーで毎日何百枚と貼ってきた、あのシールだ。
ゴブリンが「ギ?」と間抜けな声を出し、額のシールを剥がそうとした、その瞬間だった。
「……ギギャッ!?」
ゴブリンの肉体に、明確な異変が起きた。
身体のサイズが小さくなったわけではない。だが、さっきまで放っていた野蛮な闘気や、棍棒を握る筋肉の張りが、風船の空気が抜けるようにシュルシュルと萎んでいったのだ。
奴が再び持ち上げようとした棍棒は、まるで鉛のように重く感じられているようだった。ステップを踏もうとする足はガクガクと震え、凶暴だった赤い目からは覇気が『すっぽり半分』抜け落ちている。
(……まさか、ステータスや腕力が文字通り『半額(半分)』になったのか!?)
対象の価値を物理的に下げる。もしそれが、この紙切れの本当の能力だとしたら。
「お客様! 店内での暴力行為はご遠慮ください!!」
俺は店長としての威厳(と土下座の勢い)を込めて、ヘロヘロになったゴブリンの足首にローキックならぬ、足掛けを食らわせた。
ステータスが半減し、踏ん張りが利かなくなったゴブリンは「ギャベッ!」と無様にすっ転ぶ。
「い、今です!」
そこへ、先ほど転んでいた少女が起き上がり、持っていた杖でゴブリンの後頭部を思い切りポカッと殴りつけた。
「ギュー……」
半額に弱体化していたゴブリンは、白目を剥いて泡を吹き、あっさりと気絶した。
「……た、助かりました。本当にありがとうございます……!」
少女は荒い息を吐きながら、ペコリと深く頭を下げた。澄んだ青い瞳が、尊敬の眼差しで俺を見上げている。
「あの、先ほどの素早い身のこなし……それに、小鬼を弱らせたあの『紙切れ』は一体……?」
彼女の問いに答えようとした、まさにその時だった。
俺の脳内に『チャリーン♪』という、店で聞き慣れた軽快なレジの電子音が響いた。
そして、空中に『本日の売上(店長ポイント):15p』という、狂った半透明のポップが浮かび上がったのだ。
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