本編
異世界召喚ものです。
「なっちゃん、ごめんね」
ごめんで済んだら警察要らないだろ莫迦っ、勝手になにするんだよと頭の中では盛大に罵詈雑言を喚きながらも、現実には指先ひとつ動かせやしなかった。
目も見える耳も聞こえるのに、夢の中にいるみたいに声も出せず身動きすら出来ない。
莫迦なに勝手なことしてんだと、目の前にいる奴を罵って、怒鳴りつけて、そしてしようとしている事をやめさせたいのに、声をあげることも出来やしない。
しきりにごめんねと繰り返し、まるでしょげかえった犬のように、目に見えない耳をへたりと寝かせながらも、どんどん事を進めてゆく相手の胸倉を掴んで揺さぶりたかった。
耳元で怒鳴ってやりたかった。
やめろ、そんなこと望んでないと言いたかった。
お前が全部ひっかぶる必要なんかないと言いたかった。
伸ばそうとしてもぴくりとも動かず、何も掴めない指先がとても悲しかった。
「なっちゃん、ごめんね」
もう謝らなくていいと何度も何度も言ったのに。お前はなんでそう人の話を聞かないんだ。
なんでこんな時にも、人の話を聞いてくれないんだ。
ままならない体が悔しくて言葉のかわりに、そして届かない指先のかわりにぼろぼろと涙が頬を伝い流れ落ちる。
それを見た奴は、いつも眠たそうに見える細い目を見開いてこちらに手を伸ばしかけて。
触れる寸前で手のひらを握りしめて後ずさる。
触っちゃいけない、そう戒めるみたいに。
そうしてまたごめんねと口にする。
「ごめんね、なっちゃん巻き込んじゃって。でもこれ以上は付き合う必要はないんだよ。せめてなっちゃんだけは遠くへ行ってほしいんだ。そこでなら、もしかしたら帰る道が見つかるかもしれないから……」
莫迦、やめろってば、そんなこと一度でもして欲しいって言ってないだろうっ。
お前は普段、煩いくらい人にあれこれ聞くくせに、何で肝心な時ほど何にも聞かないんだっ。
その言葉が相手に届かない事が……とても悔しかった。勝手にひとを呼んでおいて、ひとの意志を無視して何処かにやるんだなとそう言ってやりたいけど。
自分は多分口にしないだろうとわかっても、いた。
喚き罵り、しまいには手当たり次第に物を投げつけ当たり散らしても、いつも訪れる相手は情けなそうに眉を下げ、細い目をさらに細くしてごめんなさいごめんなさいと謝るばかりだった。
その様子にため息をついて、仕方ないなと諦めて……ほだされてしまったのは、いつ頃から、だったのだろう。
目が覚めたらまるで知らない場所にいて、ぐるりとまわりを知らない人で取り囲まれていた。
これは夢だ、夢に違いないと思いこもうとしたのに、人垣からはてんでばらばらに大声でまくし立てられ、ぽかんと立ち尽くした。
え、なにこれ、夢……だよな。この人たち殺気だってて凄い怖いんですけどっ。
自分よりも体格のいい人間に囲まれ真上からまくし立てられれば、咄嗟に反応出来なくて体が勝手に竦みあがる。
でもなんだかやな感じ。うわ、むかついてきたかも。
見上げる顔、顔、顔、そのどれもが目に尋常じゃない光を湛えてこっちを見ている。
なにこれ、ほんと怖いし嫌すぎるこいつら。
異様な雰囲気に知らず体は強張ってしまっている。
意味のつかめない言葉が、わんわんと鳴っている。
うるさい、と言った言葉は周りの声にかき消され誰にも届かなかったみたいだった。うるさいお前ら黙れと叫び続け、声がかすれるほど叫んだあと、気付けば周りは奇妙に静まり返っていた。
ごほごほと咳き込みながら周りを見回していると、取り囲んだ人垣、そのうちの一人が太い腕を伸ばし、肘を掴んできた。
うわ、なにするんだっ、痛いってっ。
あげた抗議の声は無視されて気付けば硬い床に引きずり倒されていた。
体を床で打ちつける痛みと、ざらざらした床を引き摺られる摩擦熱。それらに叫び声をあげても、腕は離されず逆に胸倉を掴まれて大声でまくしたてられた。
うるさい、お前はアレらを片づけるために呼びだしたんだっ、早くあれをなんとかしろ!
何を言っているのかまったくわけがわからなかった。
痛みとともに、嫌な予感が背中を這い上って来るのを、引き倒された床の上で茫然と感じていた。
ごめんなさい、と奴はまずそう言った。
手荒な事はやめてください、ここは私に任せてくれませんかと言いながら、人垣の向こうから現れたそいつに連れられて、人気のない部屋に落ち着いたときに。
自分を取り囲んだ人垣は、奴のすることを止めなかったけど、何とも言えない嫌な目つきで見ていたのが印象的だった。その時には怪訝に思う余裕なんかなかったけど。
摩擦で火傷をした場所がひりひりするし、打ちつけた場所もじんじんと熱を持ったように疼く。
確かな痛みは、これが夢などではない事を嫌でも突きつけていた。
ただ、あまりのことに頭がついていかない。まるで見知らぬ場所に放り出され、考える事を頭が拒否していた。
そこへ、奴がとてつもなく申し訳なさそうな声で話しかけてきたのだ。
手荒な事をして申し訳ありません。痛みますか。
頷くことで返せば、奴はまるで重大犯罪を告白するかのごとく沈痛な面持ちで告げた。
ごめんなさい、ぼくがあなたをここへ呼びました。
意味がわからなくてぽかんと口をあけ、奴を見上げたけど、何を勘違いしたのか奴はひっと喉の奥で悲鳴をあげて、ごめんなさいごめんなさいと莫迦の一つ覚えのように謝罪を繰り返す。
なんであんたが謝ってるの、それより詳しく説明してくれる?さっぱり、全然、皆目わからないんだけどっ。
強く言えば、そうですよねごめんなさいと言いながらへたりと眉を下げてこっちを見た。
しょげかえった犬のような様子だなあと、頭の隅で思いながら、いいから説明早くと相手をせかす。
そうして。説明を受けたのち、比喩でなく目の前が暗くなるかと思った。
椅子に座っていなければ、目眩を起こしていたかもしれない。
なんだよそれ、ほんとかよと呟けば、奴は律儀に本当なんですごめんなさいごめんなさいとまた謝罪に突入する。驚きが通り過ぎればいい加減苛々してくる。何より、あまりに勝手な言い分に腹が立ってきた。
あんたの言い分を整理するとさ、あんたのとこはどこからともなく湧いて出る“瘴気”?とやらを祓うために違うとこから人攫ってくるんだろ?無理やり攫ってきて、無理やり働かせてるって?冗談じゃない、あんたらの事情なんか知るか、こっちには関係ないだろっ。
言葉をぶつけるたびに、奴はそれがまるで石の礫でもあるかのように痛そうに顔をゆがませる。それにますます腹がたった。人を勝手に呼んでおいて、被害者面してんじゃないよと吐き捨てた。
勝手なお願いだと、重々承知しています、でも……。
その言葉を遮り、低い位置から懇願するように見上げてくる奴を睨む。奴は自分の足元に跪いていた。
普段だったら誰かがそんな真似をしようものなら、すぐやめさせる。けれど今は……感情もなにもかもぐちゃぐちゃの状態では、気にしている余裕はなかった。
こっちには、あんたらのお願いとやらを聞いてやる義理はないんだよ。戻せよ。元の場所に、戻してくれ。
そうしたらあんたらの事なんか忘れてやるし、あんたらはお願いを聞いてくれる誰かを呼べばいいだろ。
すると、その言葉を聞いた奴は顔色を紙のように白くして、喉の奥から声を絞り出すようにして、また言った。
ごめんなさい、ごめんなさい……っ。
その言葉を繰り返す奴を見ていると、不意に嫌な予感がひたひたと押し寄せて来る。
まさか、帰せないなんて言わないよな。そう問いかけて。
返ってきたのは、同じ謝罪の言葉だけだった。
何度来られても返事は変わらないけど?
閉じ込められている部屋を訪れるのは、自分をここへ呼んだという奴だけだった。
あんたもさ、いい加減諦めて他の奴呼べば?
それは……出来ないんです。あなたを呼んでいる以上、他の誰かを呼ぶ事は出来ません。
ああ、そうだったっけ。じゃあさ、瘴気とやら、自分たちの力で祓ったらいいだろう?余所の人間あてにしてないでさ。自分の事は自分でしましょうって、習わなかったか?
そう、出来ればどれほどよかったか。もう何世代にも渡って、それを為し得るだけの力を無くしているのです。他の世界の方に頼らざるを得ない状況を、心苦しく思わないはず、ないでしょう。
項垂れる奴の目の前で、鼻で笑ってみせる。
あんたはそう思ってるのかもしれないけどさ、他の奴はどうなの。思い出してもえらく自分勝手なことばっかり言ってた気がするけど?そのために呼んだのだから、早くアレを始末してこいとか、ひとをまるで道具みたいにさ……ま、ここがどうなろうと知ったことじゃないし、関係ないし。
そうですか……そうですよね、わかりました。今まで勝手なお願いばかりして申し訳ありませんでした。お詫びにもなりませんが、あなたにはせめて何不自由なく過ごせるようにしますから。
準備が整うまで、もうしばらくここで我慢して下さい。
眉を情けなく下げたままで、でも奴は笑いかけてくる。
その顔が泣くのを堪える子どもみたいに見えて、思わず尋ねていた。
なあ……それなら、あんたはこれからどうすんの。
さあ……そうですね、出来る事をしていくだけですよ。
あいつら、煩く言うんじゃない?
おや、と奴は細い目を見開いて驚いたようにこちらを見た。
心配して下さるんですか。
そう言うわけじゃないけど、でも……っ。
零れ落ちた言葉に自分の方が驚いて慌てていると、奴はゆるゆると口元を緩めた。
ありがとうございます。そうですね……でもこれ以上他の人を巻き込んではいけないんです。そう何度も何度も思っていたのに、ここまで来てしまいました。あとどれくらい猶予があるかはわかりませんが、その時まではなんとでもしますよ。
では、とぺこりと頭を下げ、そのまま部屋を出て行こうとした奴の袖口を掴んでいたのは。
え、と細い目を見開いた奴の怪訝そうな声。
思わずといった調子で手が伸びていた。自分で自分の行動が信じられなかった。
勝手なことを言うな、あんたらの事情なんか知らない、そう憤っていたのは確かだったのに。
……なあ、これまでここに呼ばれた奴らって、大人しくあんたらの言う通りにしてくれたの?
袖口を掴んだまま、何故か奴の顔が見られなくて俯いたまま尋ねる。
すると、そう、ですねえと何かを思い出すような声をあげ、奴は答えた。
色んな方がいましたよ。やはり初めはあなたと同じように戸惑って、こちらの勝手を責められて。ただその頃はまだ、こちらに馴染んでいただく余裕がありましたから……こちらで生きて行くためには必要だからと、最後には力をかして下さいました。帰れないならここで生きて行くしかないと言われましてね。
色んな方がいたって、あんたまるで見てきたみたいに……。
奴の言い分に首を傾げていると、なんでもないふうにあっさりと答えられた。
見てきましたよ。彼らをここへ呼んだのは、すべてぼくがしたことです。
は、と顔をあげて奴を見た。
ふふふと笑いながら奴は空いた手で頭をかきながら思いもしなかったことを言う。
ここへ他の世界の方を呼んだのは、初めから今にいたるまで、ぼくがしてきたことです。こうみえて、結構な長生きなんですよ。
長生きってあんた、と目を丸くするばかりで、未だ袖口を掴んだままの手を、奴はそっと外した。ひやりとした、大きな手だった。
このあたりで断ち切るべきでしょう。いいえ、もっと早くにそうするべきだった。
奴は……こちらには意味のわからない事を呟き、そして冷たい手で預けたままの手を握ってきた。
あなたは、あなたの望むようにして下さい。もう二度と勝手なお願いをすることはありませんから。
そのまま離されようとする手を引きとめたのは、自分の手だった。
あの、と戸惑う声が頭上から聞こえる。
自分でも何をやってるんだか、やめておけと囁く声も胸の中で響いている。
ここがどうなろうと自分には関係ないじゃないかという声も。
責めて罵りたい気持ちも消えてないし、自分を便利な道具みたいに見てきた目を思い出すたびに腹も立つ。
それでも……。
仕方ないと大きなため息をついて、諦めた。しょげかえった犬みたいに情けない顔をする奴を見たくない、そう思う気持ちがあったこと、それを認めざるをえないと……諦めたのだ。
なあ、好きなようにしていいってほんと?
ええ、望む事を言って下さい。出来る限り叶えましょう。
それなら、瘴気とやらの祓い方教えてよ。便利な道具扱いされるのは絶対嫌だけど、ここに居るしかないんだろ?それならまだまだ生きていたいし?自分から寿命縮める気はないよ?
奴は石のように固まったまま、口を半開きにしてまじまじと見下ろしてきた。その気持ちはわからなくもない、これまでさんざん喚きあたり散らしては……お前らの望みなんか叶えないと言ってきたのだ。信じられないもの無理はないだろう。こんな事を言っている自分が、まず信じられないのだから。
なあ聞いてる?お~い?
くいくい、と握ったままの手を引くと、奴は息を吹き返した魚みたいに口をぱくぱく忙しなく開け閉めして、何かを言おうとしてそのたびに言葉にならないみたいだった。
その様子が面白くて思わず笑うと、奴は喉の奥が詰まったような変な声をあげた。
ちょっとあんた、落ち着いたら?あんたにしてみれば願ったりかなったりじゃないの?
ちょっと待って下さいっ、なんで急にそんなことに?だって、あなたは……っ。
焦ったように言葉を紡ぐ奴の声を、途中で遮った。
いいよ、もう、これで。あんたは他の奴らみたいに道具扱いしなかったし、無理やりやらせるような真似も一度だってしなかった。だからもう、いいよ。
自分でも驚くほど静かな声が出て、そこではたと気付く。
ほだされてしまったんだなあ、仕方ないなあと小さく笑いながらため息をついていると、目の前で奴が泣きそうな顔で笑った。
ありがとうございます、ごめんなさい。
その言葉を何度も繰り返しながら。
そうして。ここでの自分の役割を受け入れたのだけど、残された時間は予想以上に少なかった。
数少ない協力者や奴とともに、瘴気を祓っていったのだけど、祓っても祓ってもそれは次々に湧いて出て、少しも減る様子がなかった。
それを知った他の奴らは口汚く非難してきた。
お前に力が足りないせいだ、とんだ役立たずを呼びだしたものだ、いっそ別の者を呼びだすか、ならそのためには……。
ここへきて初めて自分が目を覚ました時。取り囲んでいた人垣の奴らは、この世界のいわゆるお偉いさんたちらしかった。
横暴で人を見下す目をしていた奴らとは出来るだけ顔を会わせたくなかったのに、何かにつけうるさく罵って来る。そのたびに、何で自分はこんなことやっているんだろうと空しい気持ちでたまらなくなった。
他の者を呼びだすために、一時命を狙われる羽目にもなり、奴にこぼしてしまった。
なあ、なんでこんなことするんだろ。あいつら自分の都合しか考えてないし。あいつらじゃなくても……。
瘴気を祓うため、訪れた街の様子、そしてそこで暮らす人々の様子を思い出して、苦い気持ちになる。
みな不安そうな顔をして、疲れた表情をしていた。そして誰もが誰かがなんとかしてくれるのをひたすら待っていて、自分たちで何かをしようとは、ちっとも考えていないようだった。
そればかりか、瘴気を祓う役割の……こちらへ呼ばれた者のことを罵りさえした。
そのために呼んだのに、昔だったらすぐ元通りにしてくれていた筈なのに。何故元の通りにならないんだと。
正体を隠していたから、自分がその呼ばれた者だとは彼らは知らない。
勿論、そんな人たちばかりじゃあなかったけど、自分を空しくさせるには十分すぎる言葉だった。
もうやだ、やめる、あいつらなんか知らない。
そう自分が言い出すたびに、奴はへたりと眉を下げてごめんねと痛そうに顔を歪めて、決まって言った。
望むようにしてくれていいって言ったからね、なっちゃんが嫌になったんならいつだってやめていい。ごめんね、勝手なことばっかりで。
あんたが謝ることじゃないだろ。てゆうか、なっちゃんはやめろ。
え、やだ。なっちゃんって呼び名可愛いでしょ。
どこが悪いのと本気で首を傾げている奴を見ていると毒気を抜かれてしまう。
そもそも、自分がここへ呼ばれた“役割”を受け入れたあと、自分から奴に言葉づかいを普通にしてくれと言ったのが始まりだった。
横柄に見下されるのも腹が立つが、遜られるのも莫迦にされているみたいで嫌だ。
実際はどうあれ、見た目の年齢はさほど離れていないようだったから、砕けた言葉づかいをして欲しいと頼んだのだ。しばらく奴は迷っていたようだったけど、最後には頷いてくれた。
わかりました……じゃなくて、わかった。それじゃ、あなたのことはどう呼んだらいい?
それまで名前すら名乗っていないのをはじめて思い出した。無理やり攫ってきた相手に名乗る名はないが、曲がりなりにも協力していく相手には名乗るべきだろう。
それで名を告げたのに、奴はなぜか自分のことをなっちゃんと呼びだした。
これまで誰からもされたことのない呼び名が奇妙なほど恥ずかしくて何度もやめるよう言ったのに、奴は言を左右にのらりくらりとかわしながら、あくまで頑として改めようとはしなかった。
ねえ、なっちゃん。
宥めるように奴の手が頭を撫でる。泣いている子どもを慰めるような、優しい手つきだ。
その手を払うことなく、でも顔はあくまでしかめっ面で静かな声を聞く。
ぼくらはこれまで呼び出してきた人たちや……なっちゃんに、勝手なお願いばかりしてきてる。嫌な事があったら言ってほしいし、八つ当たりしてくれて構わない。なっちゃんがしてること、本当はぼくらが自分たちでやらなきゃならないことだったのに……それを皆忘れてしまったんだ。ありがたく思いこそすれ、縋りついたりましてや罵ったりなんてするのは間違ってるのにね。
ごめんねと謝る奴の顔は、しょげかえってるのが見なくてもわかる気がして、わざと明るい声をあげた。
ま、のりかかった船だし出来るとこまではしてやるよ。でもさ、あんたもとんだ貧乏くじ引かされてるんじゃないか?ま、一番災難なのは呼び出されたこっちだけどなと苦笑して、お返しとばかりに奴の頭をぐしゃぐしゃに撫でてやると、そうだね、そうかもねと目尻を下げて笑って、いた。
ここまでか、と呟いた声は奇妙なほど平坦だった。目の前に広がるのは抑えようもなく竜巻のように暴れ狂う瘴気の渦だった。それを為す術もなく自分や奴、そして数少ない協力者たちは茫然と、あるいは無力感を抱えて見つめていた。
遅かった。自分たちはもう間に合わなかったのだ。祓っても追いつかないほど湧きでてきた瘴気。呼び寄せた人間とこの世界の僅かな者たちだけでは、太刀打ちできないほどこの世界を蝕んでいた。
そう、これまでも、もしかしたらという不安は心の底にあった。しかし口には出来なかったし、一度出来ないと思ってしまえば最後だとも思っていたから……自分は愚痴や泣きごとや、やめてやるとかは言っても、けしてその言葉は口にしなかった。
もう手遅れなんじゃないか。
口にしてしまえば、本当になる気がして。
この光景を見ていた誰かが、茫然とした声音で呟く。
もう駄目だ……もう終わりだ。その言葉に反論する術はなく、荒れ狂う瘴気に巻き込まれないようその場から離れるだけで精一杯だったのだ。
ねえなっちゃん。こんなことに巻き込んで本当にごめんね。
住人が去った、打ち捨てられた村に身を寄せた時、奴はぽつりと言った。
もうこれ以上瘴気を祓っても無駄だと、これまでだなと他の奴らはあの場で別れた。みな、他の人間のように、自分が役立たずのせいだなどと責めたりしなかった。
本来無関係なお前には、悪い事をしたなと酷くすまなさそうな顔さえして去って行った。
奴と二人きり、元は整えられていただろう居間で、埃がうっすらと積もった椅子に腰かけている。
項垂れた奴の顔は、滑り落ちた長い髪のせいもあって良く見えない。
窓の外からは光が射しこんでいて、淡い色の髪の毛はきらきらと光っていた。
綺麗な色、だなと膝に頬杖をついて、ぼんやりとそんなことを思った。 時々風が吹き抜けるほかは音もない静かな日。鳥の声も梢が鳴る音も、人の声も聞こえない……静かな昼さがり。
空はどこまでも青く、変わらない明日が続くように思えるのに……すぐそこまで崩壊は迫っている。
そうとわかっていても、痺れたような頭の中は、どこか夢の中の出来ごとのように現実味がなかった。
……なっちゃん?
返事がないのを訝ってか、奴は呼ばわる。
何でもないよとひらひら手を振って……そのあげた手を奴の頭の上に置いた。
なっちゃん?
柔らかい髪の毛だなとぼんやり思いながら、よく奴が自分にするように何度も何度も撫でる。きょとんとした目で見上げる奴は、やはり犬みたいだなあと小さく笑った。
犬の毛並みを撫でるように、さらさらの髪の毛を何度も梳き下ろす。奴はされるがまま、大人しくしていた。
もう謝るなよ。まあ結末はこのとおりだろうけど、最後には自分で選んだんだ。あんたが謝ることじゃないし。
でも、それでも謝るよ。だってこの結末はなっちゃんのせいじゃないから。今までだって……呼んだ人に全て頼り切ってたわけじゃないよ。自分たちのことだもん、沢山の人が少しでも力になれたらって協力してた。
当たり前だよね、自分たちのことなんだもの。呼んだ人に、ここを助ける義務なんかないんだもの。でも今回は……ほとんどの人がその事を忘れちゃってた。助けてと他の誰かをあてにするばかりで、自分たちでなんとかしようと足掻くことさえしなかった。だから……これはある意味当然の結末だったのかもしれないね。
そ、か。あんたがそう思うのなら、それで、いい。
ぽんぽんと奴の頭を叩くと、眉を下げながら奴は嬉しそうに笑っていた。
いつの間にか眠っていたらしい。
ふと気付けば部屋の中は橙色の光に染まっていて、広くはない部屋を見回しても奴の姿はなかった。
どこへ行ったのかと首を傾げた時、外から異様な気配を感じて部屋を飛び出した。瘴気じゃないけど、あれは、そうだ前にどこかで感じたことがある。
嫌な予感を覚えながら外へ出ると、沈みゆく太陽を背にして奴が佇んでいた。まるで夕焼けを眺めているみたいな姿だけど、そうでないことは周りの張りつめてゆく空気でわかる。
自分が来た事に気付いてないはずもないだろうに、奴は振り向くことなく更に大きな力を溜めていった。
あんた、なに、してるんだ。
なっちゃん。ねえ、ぼくもとの場所には戻せないって言ったよね?
ああ、確かにそう言ったな。
あれねえ、もとの場所には戻せないんだけど、別の場所になら送れるんだよ。なっちゃんはさ、ここに付き合うこと、ないんだし。行った先なら、もしかしたらなっちゃんを元の場所に帰せる手段があるかもしれない。だから、ね……。
避けようもなく何かの力に絡め取られ、身動きひとつ出来なくなる、
何するんだ、離せよ!元の場所には帰せと言ったけどな、こんなことして欲しいなんて言ってないっ。何で勝手にこんなこと……っ。
もっと怒鳴ってやろうとしたのに、奴の顔を見たら出来なくなった。
今にも泣きそうな、それでもどこかほっとしたような顔で笑われて、言葉が出てこなかった。
ごめんね。
また奴が謝って来る。なに、と思う間もなく、体から力が抜けて声も出せなくなって。
そして。
聞こえたかと思った声は、自分の願望だったのかもしれない。
またね、なっちゃん。
いつかどこかで会う、そんな時が来ればいいのに……意識が薄れていく中で、自分はそんなことを思っていた。
END
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
裏話的小話がありますので、もしよろしければお付き合いください。




