56、木立の向こうへ
山の中腹に、のどかな道が伸びていた。
右手側には川が流れ、左手側はこう配の強い山林が、山頂まで続いている。
季節は春だった。
山がちでありながら、土地の肥沃さにも恵まれたモラニアの、どこにでもある風景。
その街道を、進んでいく奇妙な一団があった。
「そういや、出がけにグラウムから連絡があってさ」
彼らの先頭を行くのは、青い鱗を持つ小さな仔竜だった。少し後を歩く者たちに語り掛けながら、飛ぶというよりは宙を泳ぐようにして、先導を務めていた。
「エファレアの汚染除去が終わったって。んで、折角だから、戦勝記念のデュエル大会をやろうって話が出て、あいつが司会進行になったんだけど……」
フィアクゥルの笑顔に、狼に乗ったコボルトは首を振った。
「ま、そうだよな。"愛乱の君"は、前回優勝者が出ないなんて、ってボヤいてたけど、後は勝手にやれって話だし」
「そのデュエル、でしたか。それが次の"遊戯"になるのですか?」
狼の隣で馬を進ませる少女。来ている服は旅の村娘のようで、それでも、育ちの良さは隠しきれていなかった。
「いきなり全部やめる、なんて無理だからな。適度にガス抜きしつつ、新しい仕組みを模索しようって感じらしいよ。魔界の側も、"魔王"の策をそのまま使う気はないっぽい」
「戦のたびに土地と星を穢しては、魔の者としても都合が悪いでしょうからな。とはいえ……予断を許さないのは変わらないでしょうが」
「そういや、そのデュエルってやつ、なんでも地元の人間でも参加できるらしいじゃないか。続くようなら、一山狙ってみるのもいいかもね」
少し下がってついてくる二騎の片方、赤毛の傭兵魔術師が、何かを含んだような顔でニヤリと笑う。
その脇に詰めた騎士は、苦笑しつつ彼女をたしなめた。
「海千山千の猛者が集まる遊戯場に、田舎者が首を突っ込むものではないぞ」
「言ってみただけさ。もう、神様はこりごりだよ」
やがて、道に少しだけ変化が起きていた。
目を凝らさねば分からない、山林の奥へと続く、消えかけた杣道がある。
仔竜は姿勢を正して滑空の姿勢になり、誰もが口をつぐんで、街道を反れる。
自然に、シェートが先頭になり、ついてくる者たちの歩調が遅くなる。
「……ああ」
深呼吸して、香りを胸に収める。
木々の並びに見覚えがある。生えている下草にも、見知ったものがある。梢で小さな生き物たちが走り回り、鳥が鳴きかわす。
グートの背から降りて、自分の足で感触を確かめる。
落ち葉の感触が柔らかい、きっと去年もたくさん葉を茂らせ、この大地を肥やしたのだろう。
木々の影の先に、光の裂け目が見える。
我知らず、シェートは駆けだしていた。
「…………」
そこは、川の流れに張り出した土地だった。三方を木々に囲まれ、川岸の向こうが急斜面の山になって、人目に付きにくい。
人が住むには手狭だったが、コボルトにとっては、いい土地だった。
ここには、村があった。
木の掛け小屋が幾棟も並び、鍛冶仕事の小屋や、獲物を解体する小屋、煮炊きのための炊事場や、皆が集まる会場があった。
子供らが遊び、女たちが手仕事をして、男たちが狩りを終えて帰ってくる。
そんな光景が、確かにあったのだ。
「我らは、河原で待ちます」
立ち尽くすシェートに騎士が声をかけ、皆が降りていく。グートに持ってもらっていた袋を肩に担ぐと、歩き出す。
旺盛な草花のせいで、道が消えかけている。それでも、どこに何があったかは、見当がついた。
森から帰ると、まず集会場を通る。
中央には石組みがあって、宴会の時に集まったものだ。
そこから東の方へ抜けると、カイの家だ。弓弦が切れた時、言っておけば次の日の朝には仕上げてくれた。
隣の家で面倒を見てもらっていた、チビたちが飛び出してくる。誰が綺麗に縄目を結べたか、口々に自慢し合いながら帰るのが常だった。
「…………」
自分の家は、もう、草の中に埋もれていた。
家族が増えたのと、母親の看病のためにと、村のみんなで建て増ししてもらった。にぎやかで、暖かくて、自分にはもったいないほどの、家だった。
少し立ち止まって、北に面した森の方へ歩いていく。
その間に、少しずつ、花が増えていった。
色とりどりに、その先にある場所を、飾るように。
「ただいま!」
声を掛けて、歩み寄る。
小高く盛られた土の山に、目印の石が積んであったが、風雨にさらされて崩れていた。
「ただいま、母っちゃ」
袋の中から、海鳥の羽を取って、供える。
「遅くなってごめんな。俺、本当に遠くに、行ってきたからさ。これ、土産だ」
それから、その隣の小さな塚に、菓子や、果物や、木切れのおもちゃ、結び目が三つ残った蔓を置いていく。
「ロク、ムエリ、シュレハ、オッド。留守番、ありがとな。偉かったぞ」
それから、思い思いのお土産を、みんなの塚に備えていく。
やがて、その一番奥にある、石の積まれた場所にたどり着いた。
「ただいま、ルー。俺の、大事な、大好きな、和毛」
首から下がった青い石を、取る。
それから、少し穴を掘って、うずめた。
「ほんとに、大変だったんだ」
優しく語り掛ける。
「最初の勇者を狩って、それから、たくさんの勇者に狙われて……でも、いっぱい、助けてもらったんだ」
両手を塚に当てて、撫でる。いつもしていたように、優しくてかわいい、大好きなあの子を、撫でるように。
「話したいことが、いっぱい、いっぱいあるんだ。コボルトが、魔王の城まで行ったんだぞ。き、聞きたい……だろ?」
堪えきれないものが、溢れていた。
手に感じるのは、冷たさと土の感触だけだった。
それは、ただの盛り土で、ここには、誰もいなかった。
「頼むよ、ルー。シェートって、言ってくれよ。おかえりって……言って……」
膝をついて、顔を覆う。
誰もいない。
ここには、もう、誰もいないのだ。
「う、あ、あああああああああああああああああああああああああああ!」
なにもかもが、溶けて崩れた。
堪える理由も、食いしばる意味も、消え去った。
たった一匹の、優しい、怖がりのコボルトに戻って。
シェートはただ、泣いた。
仔竜には、すべて聞こえていた。
何一つ聞き逃すことがなかった。
だから、歯を食いしばり、両手できつく、目を塞いだ。
「アンタ、それは――」
「ダメなんだ!」
舞いあがり、体を丸めるようにして、すべてを押し殺す。
「俺には、何の資格もない! 涙一滴、こぼしたりできないっ!」
どれほどの対価を支払って、命を掛けて助けたとしても、自分の罪は絶対に、永劫に消え去ることはない。
ここで泣けるのは、泣いていいのはシェートだけだ。
声を漏らす資格も、涙をこぼす資格もない。
その身体を、誰かが抱き留めた。
「やめ、てくれ。慰められたく、ないんだ」
「いいえ」
力を失っていた時、そうしてくれていたように、リィルは胸の中に包み隠してくれた。
「貴方の罪は、私の罪です。同じ罪を犯した者の胸、いくらでも穢してください」
「大丈夫。上手に隠してやるよ。そういうのは得意でね」
エルカの体が近づき、周囲に暗がりを作る。
「罪人に、懺悔の涙さえ許さないのであれば、この世はどれほど酷薄なことでしょう。これは我らが、あの世まで持っていきます」
アクスルの分厚い胸板に、音が遮られる。
息を飲み、絞り上げるように吐き出して。
フィアクゥルは、声も上げずに、泣いた。
シェートが戻った時、河原では焚火が起こっていた。
鍋に煮えている料理を、フィーが面倒を見ている。その隣で、グートが目を閉じて、くつろいでいた。
「飯、作っといたぞ」
「うん。ありがとな」
いつものように座り、それから客人も交えて、汁をすする。持ち込んでいた百合根の干したのや、どんぐりも入った、具だくさんのものだった。
塩気だけでなく、さまざまな旨味を感じる鍋は、泣きつかれた体に染みた。
「うまい」
「……うん」
「フィー、料理、上手、なったな」
いつもなら、こうして食事をしながら、この後のことを語っていたはずだ。
道具作りや明日の天候、途中で見かけた珍しいものや、これまでにあった出来事を。
そんな日々も、ここで終わる。
だが、そんな沈黙を、仔竜は意外な問いかけで破った。
「なあ、シェート」
「なんだ?」
「どうして……魔王の称号を、受けたんだ?」
それぞれの視線がこちらに向けられる。
目を閉じると、思い出すように、崩れていく城の出来事を口にした。
『なあ、シェート、お前は、次の魔王に、なる気はないか?』
なぜそんなことを、少し考えて、シェートは首を振った。
『……なんで、そうなる』
『お前なら、俺の後を継げる、そう、思ったからだ』
『ならない。俺、コボルト。支配しない、されたくない』
そこで、"魔王"は嗤った。
変わらない悪辣さに口を歪めて。
「重ねて、問おうか。お前は、"英傑神"に、支配されたいのか?」
「……え?」
『俺が、死ねば、残るのは、お前たち勇者のみ。"英傑神"は、サリア―シェとお前に、隷属を、望むだろう。新しい秩序と、世界を創るために』
この戦いの前に、"英傑神"が宣言した言葉を思い出す。
あらゆる神の王になる、その願いが本当なら、おそらく自分たちも、コボルトも、その支配の下に組み入れられる。
『……そうだな。俺、嫌だ、思う』
『だろうな。お前は、そういう奴だ』
サリアは自分に、対等な契約を持ちかけた。それは今も変わっていない。
そして、数ある神と魔物の中で唯一、自分と対等に付き合うことを、約束してくれる存在だった。
『では、どうする?』
『サリア……決闘、選ぶ、思う。俺、同じ』
『ならば、持っていけ』
執事が手渡してくるマント。それをいぶかし気に眺めるシェートに、"魔王"は告げた。
『"刻の女神"よ』
『――はい、ここに』
『俺の死を以て、魔王の称号を、シェートに委譲せよ。ただし、本人が望んだ時のみ、権利を、賦活するように』
唐突に現れた女神は、驚き、それからなんとも言えない顔になった。
『本当に、遊戯を壊す御積りなのですね』
『ああ。これで、クソッタレな、バラルの残念を、断ち切れる』
『その執念に畏敬を。そして、我が愉しみを断ち切らんとする貴方に、精々の恨み言を』
奇妙なやり取りを眺めていたシェートの意識を、崩壊の振動が揺り動かす。執事はすでに上へ登る階段を確認し、道を指し示した。
『好きに、使え。捨てるもよし、穢すもよし』
『礼、言わないぞ。俺、こんなの、欲しくない』
『ああ、それで、いい。ただの、くだらん、肩書だから、な』
すべて語り終えると、魔王は膝を突き、ほほえんだ。
『なあ、勇者よ』
『なんだ』
『俺のものに、ならないか』
顛末を聞き終えた皆は、ため息をついた。
それから仔竜は空を見上げ、笑った。
「結局、あいつの一人勝ちか」
「そこまで読んでいたと、思われますか?」
「命を掛けて手を尽したんだ。素直に負けを認めとこうぜ」
結果として、神々の遊戯は破却の方向に向かい、魔王の残した遺産は脅威として残り続け、これからも世界を悩ませ続けるだろう。
堕ちた神の『道具』として扱われた、最弱の魔物の紛い物は、消えない痕跡を残していった。
「そういや、あいつ、ちょっとシェートに似てるかもな」
「……どこが?」
「弱い魔物の生まれで……でも、最後まで諦めなかったところとかさ」
否定を口にしかけて、シェートは言葉を飲んだ。
名もなき魔王とコボルトの勇者。
世界に規定され、そうあれと命じられた生贄としての存在。そのさだめを、打ち破ろうとあがき続けた者。
「――そうかもな」
赦すことはない。だが、忘れることもない。
同じ空を見上げて、コボルトは仔竜の言葉に頷いた。
「では、我らはこれで、お暇を」
食事を終え、場を片付けると、三人は腰を上げた。
そっけなく朴訥な挨拶。それでも、騎士の隻眼には好意があった。
「リィルのことは任せな。ちゃんと家まで送り届ける。その後は、またケデナにでも戻ろうかね」
馬にまたがると、軽く手を振ってエルカが背を向ける。
最後に残った少女は、シェートに対面した。
「本当に、今すぐでなくても、いいのですか」
「ああ。いつか、どこかの群れ、お前の国、行く、思う」
それは、モラニアに帰る前。
目の前の貴族の少女と取り決めたことの確認だった。
「他のみんな、コボルトたち、自分、雑魚、思わなくなった時。言いに行く、俺たち、ここにいる。ここに、生きてる」
「……皆が、そう言える日が来ると、思いますか?」
「俺、教える。コボルト、自分たち、生きられる事。そしたら、頼むな」
誰かに命じられるのではなく、自分たちから己を示していくこと。
その気持ちで、皆が世界に相対できた時、コボルトはうち捨てられるだけの存在ではなくなる、かもしれない。
それが、神や王に従うことを否定したシェートの、新しい挑戦だった。
「互いを知るためにも、まずは少しづつ、使者を送ってください。受け入れは、私が責任を持ちます」
「うん、ありがとな」
それから、少女は仔竜に向き直り、頭を下げた。
「どうか、お元気で」
木立を抜けて、三人が去っていく。
その姿が見えなくなって、フィーはシェートに振り返った。
「あのさ、これ。使ってくれ」
さっきの料理で使っていた、小ぶりの山刀だ。鉄でできていて、魔法も奇跡も、何も掛かっていない。
「向こうで、ドワーフのおっさんに造ってもらったんだ。長持ちすると思う」
「ありがとな」
手渡された鞘に差し、腰に収める。
それから、問いかけた。
「お前、どうする?」
「……帰るよ、家へ」
その胸に、もうあの板は下がっていない。それがどういう意味なのかは、知っている。
最後の戦いの時。本当に、何もかもを捧げて、戦ってくれたのだと。
帰るべき家を、失うことになっても。
「……もう、むちゃすんなよ」
抱き締める腕を感じて、抱き返す。
暖かった、鱗目の感触と、日差しと焚火の煙と、少し甘い香りを感じた。
「加護もない、俺もいないんだから、絶対に、無茶すんなよ!」
「うん。俺、ただのコボルト、むちゃ、しない」
「ちゃんと飯食えよ! あと、ホントに困ったら、リィルたちの所に、押しかけてもいいんだからな!」
離れたくない。そう思いながら、それでも仔竜は、ゆっくりと体を引きはがした。
「さよなら、シェート」
「さよなら、フィー」
すい、と、宙を滑ると、顔を上に向ける。
そして、晴れ渡った空に、一条の雷光が駆けのぼっていった。
「まさに、青天の霹靂、か」
気が付くと、隣にサリアがいた。その代わり、グートの姿はどこにもない。
「別れの言葉など、狼には不要だそうだ」
「そうか」
河原に立ち、見つめ合う。
思えば、ここで初めて言葉を交わした。あの時は、姿さえ見ることがなかったが。
「これから、どこへ?」
「……南。コボルト、あの群れ、探す」
行く当てはある。一つの旅が終わって、新しい旅が始まるのだ。
「これで、お別れだ。そなたとも、繋がりを断つ約束だしな」
「うん。コボルト、神様、いらない」
「頑固者め。そなたを通じ、群れそのものを祝福することも、できたのに」
「悪い。でも、俺、ただのコボルト、戻るから」
誰にも利用されず、誰にも祭り上げられないために。勇者としての功績も、神々との繋がりもすべて消す。
遊戯の勝利も、サリアの加護も、フィーとの思い出も、置いていくつもりだった。
でも、
「忘れてた」
「何がだ?」
「おそなえ、する。約束した」
それはここでかわした、他愛ない言葉。サリアを奉り、捧げものをすると。
「ならば、百合根の団子にしてくれ。あれは、おいしそうだったからな」
「わかった。絶対、わすれない」
それから、歩き出す。
川岸から上がり、村の跡地を抜けて、茂った木立の方へ。
振り返って、もう一度だけ、女神を見た。
「さよなら、サリア。俺のナガユビ」
「さらばだ、シェート。私のガナリ」
そしてコボルトは、木立を抜けていった。
決して、振り返ることなく。
そこは、山間の川岸に開けた、小さな土地だった。
春の昼下がり、あたたかな日差しが降り、羽虫や蝶が舞い飛んでいく。
人影もない、穏やかな世界を。
風が吹き抜けて、色とりどりの花を揺らしていた。
「かみがみ~最も弱き叛逆者~」終幕です。
コボルトのシェートの物語は、幕を閉じました。
木立の向こうに去って行った彼を、これ以上追うつもりはありません。
どこかの群れで、静かに、憩ってくれることを願います。
長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
読んでいただき、ありがとうござました。
それではまた。
真上犬太