54、かみ、くだくもの
水鏡を挟んで相対しながら、サリアは口を固く結んだままの"英傑神"を見据えた。
彼は、ただひたすらに、地上の戦いを見ていた。
勇者に何を告げるでもなく、すべての趨勢を見守り続けている。
「最終盤面、ですか。何とか間に合いましたね」
すました顔でやってくる赤い小竜。だが、その細部は薄れて、不自然に途切れている箇所があった。
『苦労したかいがあったぜ。でも、こんな経験、二度とごめんだ』
黒い小竜の姿は、本性の縮小版だった。いくつもの口が、皮肉気な笑いに歪む。
『申し訳ないが、聲だけで失礼するよ。つまらない騒動を起こして、水を差すわけにはいかないからね』
白い小竜の気配だけが、辺りに満ちる。
「遊戯、終了間近。事後処理、山積。一切、スタック処理希望」
小さな水たまりから顔だけを出して、青い小竜がぼやく。
「女神よ」
それまで黙然を貫いていた"英傑神"が、問いを口にした。
「貴方は、これを見せたかったのですか」
「……意図したものでは、ありませんでしたが。そのようなところです」
地上は活気を取り戻していた。相対する二つの存在に、声が飛ぶ。
一つは、勇者の勝利を祈る歓呼。
一つは、魔王の死を望む、罵倒。
「僕は、謝罪しなければならない」
「……それは?」
「シェートという存在の、尊厳を摘み取ろうとしたことです」
青年神の顔には、拭う事の出来ない悔悟と、自責があった。
「あの意志を払い捨てていたなら、僕は自らの銘を、その手で穢していた。自ら拓き、立ち向かう者を、権威で擂り潰しておいて、英傑の守護者など、笑い種だ」
『真面目すぎんだよ、アンタ。そもそも神の王になるってことは、そういう暴君になるってことだろ?』
「それで? 自らの愚かさに嫌気がさし、前言を撤回なさいますか?」
息の合った皮肉に、それでも"英傑神"は首を振った。
「僕の意志は変わりません。愚かと言われても、不備を誹られても、為すべきを成す」
「それは、私も同じです」
最初から、言葉は不要だった。
それでも言わねば、伝わらないことがある。
「女神サリア―シェ、もし、貴方が勝利したら、天界をどうなさるおつもりですか」
「それも含めて、合議を。安易な序列付けを排し、言葉を交わすところから」
「……迂遠ですね」
「悠久を生きる我らなればこそ、先を見据えて、安易な道を選んではならない。世界を救うなら、あらゆる手を尽す。その始まりに、探求と対話があるのです」
知らなければ始まらない。知ることには困難がある。
その先に、決定的な決裂があることも、よくあることだ。それでも、なお。
自分は愚かなままで、行くのだ。
女神は笑い、そして告げた。
「私からもお願いいたしましょう。もし、私が勝利した暁には、私の愚かさをたしなめ、皆と共に生きる道を、探していただけますか」
「承知いたしました」
シアルカは笑って、頷く。
『みんな、もう目をそらしてはいけないよ』
そして風が、厳かに告げた。
『終わりが、始まるから』
悠里は構えを取り、静かに足を進める。
天を差すように掲げられた一刀、すべての疲れと傷を拭われた体なら、常に神速を繰り出せるだろう。
そのすべてを感じながら、悠里はすべてを無視した。
「外に綺羅を纏えば、内は空疎となる」
声望、期待、神の加護。その一切は、結局、虚飾だった。
そもそも、自分と相性が悪かったのだ。
自分の流儀は、捨てることから始まるものであり、すべてを抱えて動くものではない。
だからこそ、一度、捨てる。
掲げていた構えを変える。
持ち手をそのままにして交差、顔の右真横に置く。切っ先は水平に、相手に向ける。
捨己、と呼ばれる構えを。
『なんだ……あれは』
『体の前が、がら空きに』
『誘っておられるのか?』
進む。進んでいく。半歩づつ。
シェートは静かに隙をうかがいながら、下がる。
彼も理解している。歩法とは間合いを盗む技だ。互いの距離感を狂わせ、必殺の間合いに相手を『迎え入れる』ことだ。
確かに、目の前の相手は歴戦の勇者だ。
狩人の技と魔界の武術を受け入れ、シェート流、とでも言うべき域に達しつつある。
それでも、
「――――っ!」
身を入れ、一歩踏み出す。
彼我の間合いが一瞬縮まり、踏み込んで来たシェートが悠里の顎を切り上げる。
はずだった。
すとん、と刀が目の前に落ちる。
同時に、悠里の腰が落とされる。
火花が爆ぜ、シェートの手にしていた剣が、叩き落とされた。
「すぇいっ!」
滑らかに突き込まれた切っ先が、コボルトのみぞおちに吸い込まれる。
そして、閃光が二発、はじけた。
「がぁっ!」
「っぐううっ!」
コボルトの体が裂け、悠里のつま先が砕けている。交錯の寸前、飛び散った銀光が、刀の腹とこちらのつま先を全力で叩き、突進と即死を同時に防いでいた。
「ハティっ!」
下がりながら輝く光が撃ち出され、とっさに刀を引く。
「うっ!?」
まるでこちらの進行を読んだように、光が地面で爆ぜる。体に当てても意味がないと悟り、こちらの進む足先を、予測して潰すつもりだ。
ならば、今度は速度でかき回す。
切っ先を背中に回し、影構えに変える。
そのまま左側を潰すように、斜めに走る。
「くそっ!」
焦るシェートから放たれる光弾が大地を砕き、その一つとして悠里の侵攻を妨げない。
本来なら、うちの流儀にはない、格闘技の歩法を織り交ぜた技だ。
『剣術に限らず、武器術は体術があってこそ成立する。ちゃんと無手技もやっとけよ。その方が、敵をぶち殺しやすいからな』
地面が爆ぜる。
一、二、三、四、五、六発目、そこでシェートは次弾を生成する。
この瞬間こそが最大の隙。
「ちぇええええええっ!」
肩から斜めにぶつかるような『飛行』。
そして、地面から引き抜くような、すり上げの一太刀。
構えたシェートの弓が、剣の威力と祈りの力によって弾け飛ぶ。
「せぇいっ!」
跳ね上がった手を返し、打ち下ろしの逆袈裟。遮るように掲げた、逆手持ちの剣を叩き落とし、炸裂する祈りに、シェートの腕がはじけ飛ぶ。
その瞬間、世界が急激に、動きを鈍らせた。
たとえ腕が千切れようが、シェートは必ず反撃する。
砕けた右腕から剣が地面に落ち、左腕のもう一振りに光が宿りつつある。
だが、胴には意識が回っていない。
この刹那、自分の持てる中で、最も早く敵を絶息せしめる技は。
(一撃にて斬り屠すという、こだわりを捨てろ)
答えは単純で、誠実だった。
(剣先一寸、掻き取って候。それこそが岩蔵流の『必殺の間合い』だ)
手にした刀が、羽のように軽く感じた。
振る必要はない、大げさな構えもいらない。
ただ、差し込めばいい。
「お――」
腕の間に開いた、無防備な胸の空隙を、
「おおおおおおおおおおおおおおっ!」
悠里の渾身の突きが、貫いていた。
吹き飛んだ。
ユーリの突きが、コボルトを貫いて、吹き飛ばした。
地面に転がった姿に、グリフは快哉を上げた。
「や、やったぞ、ユーリぃいいいいいいっ!」
遅れて、周りの連中が歓声を上げる。叫び交わし、指笛を吹く奴もいる。突きを入れたままの姿勢だった悠里が、構えを解く。
一時はどうなるかと思った。コボルトの強さ、いや、すでにあれは何か別物だ。
負けるなと、祈ることしかできない自分が不甲斐なくて、それでも。
「こ、これで、終わったんだよな!?」
「ば、馬鹿者! まだとどめを刺しておらぬ! ユーリよ、今のうちに……」
先を続けようとしたコスズの声が、すぼんでいく。
その隣で、苦し気に歯を食いしばるイフが、声を限りに叫んだ。
「もう、これで終わりにしてください! そうでないと、貴方は!」
起き上がっていた。
よろめき、体のあちこちを加護の力で焦がされながら、それでもコボルトは立つ。
「な、なんで、あれを喰らって……」
ボロボロになった服の下から、なにかが覗いている。
それは、青い石。ちょうど、悠里の突きを喰らったあたりに、下がっている。
「あ、あれが、偶然、突きを防いだってのか!?」
「偶然、などではありません」
驚きと、それ以上の何かで顔を歪めながら、フランは答えを絞り出した。
「あの小さな石に、ユーリ殿の針穴に糸を通すような切っ先を、正確に合わせたのです」
「……冗談、だろ」
コボルトの胸の毛皮が、加護の力で焼けている。その爆心地に光る、青い石には、傷一つついていない。
「あれは、シェート殿の神器。この世のあらゆる力を以てしても、砕けぬとか」
「ちょっと待てよ、フラン! あれも、神器だってのか!?」
ここまでの激しい戦いを繰り広げながら、あのコボルトが使ったのは弓だけだ。
こちらを舐めているんじゃない、使うべき時を、ひたすらに待っているとしたら。
「いったいどんな効果だ! あれは!」
「"奇跡の破却"、だそうじゃ」
悠里は再び構えを取り、走り出す。さっきと同じ状況、コボルトの魔法が、悠里の進む先を潰すのも同じ。
だが、
「な、なんだ……」
当たらない。さっきまで正確にコボルトの体を捉えていた剣尖が、全く当たらなくなってきている。
「バカヤロウ! テメエら、もっとユーリに力を送れ! アイツの助けになるんだよ!」
そう言いながら、グリフ自身も理解していた。
いくら祈りを送って加勢しようが、当たらなければ意味はない。
なにより、相手が『小さすぎる』。
相手がシャーナのような巨大なドラゴンなら、闘志を燃やせた。
城の魔王のような、反吐が出るようなクズなら、怒りを乗せられた。
だが、目の前のあれは、どう見てもコボルトでしかない。
勇者の相手として『見劣り』してしまう。
まるで、スープに落ちた一粒の豆を、スプーンですくおうとするように、こちらの闘志が逃げていく。
(そういう、事かよ!)
思わず、少し離れた場所に立つ、小さな青い姿を睨みつける。
もしあいつが、コボルトの側にいれば、ユーリにためらいもなく祈りと願いを掛けられただろう。
自分をあの場に居させないことで、助力以上の助けを生み出す。
だからこその一対一。悠里の神規を、無意味にする策だった。
「……か」
何かが喉を締め付ける。それでもこれを言えるのは俺だけだ。
「勝てよユーリ! 絶対! 絶対勝て! 絶対、絶対にだ!」
壁を叩く。声を上げる。足を踏み鳴らす。
それにつられて、群衆が沸き立ち、壁を叩き、足を鳴らし、声を上げる。
『勝利を! 勇者ユーリよ! 我らに勝利を!』
そうだ。これが世界だ。
この世界を救った、勇者を支える声だ。
お前はそれを振り払った。チンケな意地で、勝ち目のないケンカを売った。
だから、潰れろ。
いつだってケンカは、強いもんが勝つんだ。
「必ず勝て! 勇者、ユーリぃいいいっ!」
まるで嵐だった。
ちっぽけな自分たちを、飲み込んで粉々にする、声と意思の嵐だった。
それでも、フィアクゥルは目をそらさない。
誰もが敗北を望んでいた。
生きていても意味はなく、死んで初めて喜ばれる命が、砕かれるのを。
今すぐに、自分も嵐になりたかった。
周りにいるわからず屋どもをなぎ倒して、あそこで戦っている、大切な友達を助けたかった。
でも、それは自分のするべきことじゃない。
だから、青い仔竜は、なんの力もない叫びを、上げた。
「任せたからな! ガナリぃいいいいいいいっ!」
風が、背中を後押しした。
シェートが突き進む。悠里が肩に担ぐように構え、
「しぃっ!」
マントの影から、長く伸びる物が悠里の刀にぶつかって火花を散らす。
それはワイバーンの腱と皮をより合わせた、凶悪な鞭の一振り。
「あの野郎、まだあんなもんを!?」
「避けろユーリ!」
弓とも剣とも違う間合い。それでも勇者は剣尖を自在に、動じず攻撃を弾き飛ばす。
そのしなる先端が、異音を立てて刀と絡み合う。
互いの得物を引き合い、力比べに持ち込む、誰もがそう錯覚した。
「己を捨て、人に従い、勝ちを拾う! それが、岩蔵の剣だ!」
逆らわず、引っ張られるに任せ、一息で踏み込む。
一方的にバランスが崩れ、よろめきのけぞるシェート。その手が【茨】を手放し、両肩に手が伸びて、何かを引き出す。
「おおおっ!」
それは木の鏃の先端。
弓弦に結びつけられたそれが、悠里の顔を浅く裂いて、視界を遮る。
「うぐっ!?」
『ここに来てソレかぁ! こすっからくてサイコーじゃねえか!』
「テメエら! ユーリを守れ! 傷を癒すんだ!」
祈りが勇者の全身を覆い、何人も通さない障壁を作り出す。叩きつけた炎と雷の剣が、やすやすと弾き飛ばされる。
黒竜の声が、怒りと笑いのごちゃまぜをぶちまけた。
『見たかサリア! アレがアンタの兄貴の、本当にやりたかったことだ! ホント、しょーもねーよな!』
『シェート!』
その間に【茨】があっけなく、斬り飛ばされる。
体勢を立て直し、脇構えの剣が奔る。
誰もが交錯と激突を想起した、刹那。
ぽふっ。
「ぐっ!? げふぉっ、ぐはあっ!」
気の抜けた音と一緒に、白煙が勇者を襲う。
攻撃でも害でもない、ただの小麦粉の粉が視界を遮り、勇者の呼吸を乱す。
「燃えろ、双剣!」
一呼吸で三連撃、叩きつけた威力に悠里が下がり、それでも障壁は砕けない。
『力が! 威力が足りないというのか!』
『加護を封じちまえばいいだろ!』
『鎧、刀、ミスリル製。加護のみ封じる、則ち死!』
その時、サリア―シェは立ち上がった。
立ち上がって、叫んだ。
『沢蟹だ! シェート!』
体勢を立て直し、飛ぶように突き進む勇者を前に、抗うことをやめないガナリへ、女神は最後の一押しを叫んだ。
『わたぬすみなど必要ない! そのための『手札』は、すでに揃っているのだから!』
二つの剣を弓に変え、シェートが叫ぶ。
「スコル、ハティ、火の雷!」
炎と雷が同時に宿り、武器に無数の亀裂が走る。
飛びあがり、振りかぶり、コボルトは一撃を、勇者に叩きつけた。
「すまんっ! ケイタぁっ!」
耐え切れなくなった神器が、炎と雷を撒き散らし、あらゆるものを粉砕する。
破滅の中にコボルトの姿が消え、障壁を破られた勇者の鎧に、無数の亀裂が走る。
「バカが! 自分の武器で――」
「――【スタック】!」
それは、奇跡を可能にする魔法の言葉。
あらゆる事象に割り込み、こちらの都合を押し付ける『カード』の力。
「《砕けぬ意思》!」
爆炎と雷光を突き抜けて、シェートが飛ぶ。背中のマントが焼け落ち、炎の鳥と雷の竜の翼を象って、その背を推す。
その手に握られたのは、粗末なコボルトの山刀。
「父っちゃああああああああああああっ!」
一刃が、斜めに振り落とされる。
神の奇跡とドワーフ鍛冶の精髄である鎧が、斜めに断たれ、砕けて落ちた。
悠里の体が露わになり、その身体がよろめいて下がる。
「【コボルトの布告】!」
宣言が世界の奇跡を拭い去り、悠里の加護が霧消する。
これで対等、これで一対一。
だが、
「く……っ!」
カードの効果が消え、酷使に耐え切れなくなった山刀が折れて吹き飛ぶ。
もう、武器になるものがない。
目の前には無防備な悠里の体があるのに、自分には、もう何も。
せめて弓と矢が、この場にあれば。
『腕は弓を引くように』
嫌味で、口うるさい、赤い小竜の言葉が蘇る。
まるでそうすることが正しいとでも言うように、シェートの体が導かれた。
自分を殺した、格闘家の動きをなぞりながら。
「足、馬の背――乗るようにっ!」
まごうことなき拳の一撃が、悠里の脇腹に突き刺さった。
息が詰まり、吐き気がこみ上げる。何が起こったか分からない。
爆炎と雷撃が暴発し、祈りの守りが霧散して、鎧が叩き切られた。
そして、鮮やかに突き刺さった、シェートの拳。
「なん、で?」
加護が奪い去られ、吐き気と悪寒と激痛が、一度に襲い掛かる。
あばらが砕けている、内臓に痛みと熱。打撃の構えを取ったまま、こちらを睨むシェートの顔。
確かにシェートの動きは、武術に近いものになっていた。
でも、あんな綺麗な拳打を繰り出す理合いなんて、どこにも――。
『――中華の武術ってのは面白くてよ。人間の動作自体を、動きにしてるのも多い』
叔父さんの言葉が蘇る。
『槍を担ぐ、窓を開ける、足ででっかい臼を挽く、なんてのもな。中でも面白いのが』
それは様々な呼び名で呼ばれていた。
衝捶、順歩捶、あるいはただの突き。
その中で、今のシェートの姿に、ピタリと当てはまる呼称。
「馬弓捶――っ!?」
馬に乗った兵士が、弓を射かける動作と似ると言われた拳打の形。確かに弓を引く動作なら、シェートはよく知っているだろう。
だが、あの下半身は、どこから。
「あ……っ」
人ごみに紛れて、こちらを見つめる青い仔竜。
その傍らに寄り添った、白い星狼の顔が、ニヤリと笑った、気がした。
この決闘までに、何度も見て来たじゃないか。シェートがグートに乗って、弓を射掛ける姿を。
山間を踏破し、幼いころから弓を握ってきた狩人と、その身を乗騎として貸し与えた狼の協力によって成し得た、奇跡の一撃。
圧倒されていた。
シェートの体には無数の傷と、それ等がもたらした経験が詰まっていた。
自分が一つの土地で汲々としている間、シェートは三つの大陸を駆け抜け、百を超える勇者を狩り、魔王の城さえ踏破していた。
地力が、違いすぎる。
息が苦しい、立っていられない、痛い、もう、無理だ。
『そう思う時こそ、あと一振りだ』
日暮れの道場を思い出す。
こちら以上に素振りを続けながら、厳しく、そして優しく諭す父の顔を思い出す。
『己が最も苦しい時、それは敵も同じ。だからこそ』
「基礎を積み上げ、忘れない。だよね――父さん」
その記憶と共に、悠里は自然と構えを取っていた。
手ごたえはあった、相手の肉と骨が砕ける音を感じた。
だが、その後が続かない。シェートにとって生まれて初めての拳だ。打った後、どうすればいいか分からず、疲れと痛みで、硬直してしまう。
目の前で、痛みなどないかのように、悠里が身構える。
刀を鞘に収め、左足を前に、右足を引き、前傾を取る姿勢。
見たことのない動き、ここに来てもまだ、自分の知らない悠里がいた。
だが、意図は分かった。
「う――ああっ!」
走る。ただ真っ直ぐに。
走る先に、すべてが収束する。何かが見える、何かが姿を現す。
悠里の一撃、その軌跡。
自分に死を与える、抜き打ちの一閃。
「ちぇえええええええええええっ!」
「うああああああああああああっ!」
叫びが、真っ向から、ぶつかり合った。
横に薙いだ白刃が、コボルトの頭蓋を、断ち割った。
はずの、軌跡の途中で、止まっていた。
刃は、シェートの牙に嚙み取られ、頬を裂きながら止まっていた。
「おおおおおおおおおおおおっ!」
悠里が渾身の力で、刃を押し込む。
技も流儀もない、歯を食いしばり、ただ自らの力のみで、命を狩るために。
「うぐうぅうおおおおおおおおおおおっ!」
牙をむき出し、顔を怒らせ、シェートが力を込める。
備わった何もかもを擲って、すべてを、かみ、くだくように。
拮抗が、異音で破られる。
めしり、めきり、ぐきり。
「ぐぅううううううごああああああああっ!」
コボルトの口元で、刀がへし折れ、跳ね上がって宙を舞う。
支えを失い、自分の力で振り飛ばされた勇者が、斜めにかしぎながら膝を突く。
その喉元に、牙が、喰らい付いた。
「が、ぁ!? ひ、ぐ、あ、あ、が……っ!」
嚙み潰された喉から悲鳴が漏れ、動脈が破れて血が溢れた。
体が勢いよく振られ、鈍い音を立てて折れる首。無造作に叩きつけられた勇者が、地面にくずおれる。
口に残ったものを吐き出し、顔をぬぐう。
それから、大きく深く、息を吸った。
空の彼方に顔を向けると、シェートは誰に言うでもなく、告げた。
「狩ったぞ、みんな」
このサブタイトルは、かみがみ第一章の最終節のサブタイトルでした。思いついて、この日まで取っておいたのです。使えて、良かった。