52、最終決戦、その六「叛逆者の叫び」
それは、凡庸な光景だった。
大陸北から続く街道沿いの、何の変哲もない荒れた土地。
まばらな低木があるだけで、岩と砂地と土が偏在し、耕作地として見込まれないために人の手も入っていない。
そんなジェデイロ北の、北部森林地帯にほど近い場所に、最後の決闘の場所が、開かれていた。
「ユーリ!」
呆然とした気持ちから覚めて、岩倉悠里は振り返る。
壁を隔てた向こう側には、グリフがいた。その近くにコスズもフランも、イフもいる。
「シャーナ、は?」
グリフの顔に浮かんだのは、嫌悪感と憐憫の、中間ぐらいの気持ちに見えた。
ただ首を振り、ここにいないことを示す。
その隣で、コスズが叫んだ。
「なぜじゃ、ユーリ! なぜ受けた!」
「受けたのではありません。彼の意思に関わらず、受けざるを得ないのです」
巨大な異形の杖を振るい、"刻の女神"は厳格に告げた。
「世界の救済者と成った岩倉悠里に、格下の勇者からの挑戦を、避ける資格はありませぬ」
「ふざけるな! そのコボルトが、シェートが格下じゃと!? 詭弁も甚だしい!」
「詭弁ではありませぬ。これは、あなた方の意志です」
黒い時間の神は、嗤っていた。
その問いの、愚かしさを。
「最前の会談で、あなた方が認めたのではありませぬか。世界を救った者は岩倉悠里であり、コボルトなどその配下として、隷属するべしと」
悠里は絶句し、コスズたちは視線をさまよわせた。
あの席の申し入れ、つまりあの段階で彼らはこの決闘をみすえて、自分たちの序列をわざと、下に堕としていたのだ。
格上の神は、格下の神の挑戦を断れない。そのルールを使い、決闘を回避をさせないために。
「だ、大丈夫だ! 俺たちのユーリが、負けるはずがねえ!」
両の拳を握り、叩きつけてグリフが叫ぶ。
「そうじゃな。こうなれば、儂らの祈りで、ユーリを助けてやらねばな!」
同じく、輝く壁に手を当てて、何も見逃すまいとコスズが目を見開く。
だが、フランとイフは、わずかに顔を歪めて、うつむいていた。
「ど、どうした、お前ら! まさかユーリじゃなく、コボルトの方を応援するってんじゃねえだろうな!?」
「……そうでは、ない。だが」
「シェート、さん。教えて、ください」
壁に近づき、異形の少女は振り絞るように叫んだ。
「ここまで! ここまでして! やらなきゃいけなかったんですか!」
決闘の宣言をしてから、ずっと黙っていたコボルトは、頷いた。
「ああ。俺、戦いたい。だからだ」
「フィアクゥルさんも、グートさんも、あんなになって! それでもですか!」
「……そうだ」
そのまま膝を突き、泣き崩れるイフの代わりに、フランが尋ねる。
「それほどまでに、貴方にとって神の使命とは重いのか。女神サリア―シェの願う世界を叶えなくてはならないのか」
「……少し、違う」
シェートは首を振り、女騎士の顔を見据えた。
「サリア、願い、叶える。俺、そうしたい。でも、それだけ、違う」
「では、貴方は何のために」
彼が問いに答えようとした時、無数の馬蹄の響きが近づいてきた。それを追う足音も。
最初に騎士たちが光の壁に近づき、知人たちが続く。
その数は次第に増えて、一塊の群衆となって取り囲んでいた。
「悠里」
その一切を無視して、コボルトは告げた。
「戦え、俺と」
「……嫌だ」
それが、悠里の中に最初に浮かんだ答えだった。
「なんでだ」
「嫌なものは嫌なんだ! それじゃ、いけないか!?」
「いや、それでいい」
そして口にしてから、馬鹿みたいだと気が付いた。
まるで駄々っ子だ、こんなの。それを分かっているから、シェートはただ、こっちの言葉を肯定したんだろう。
「俺は、この戦いが終わったら、今度こそ、君と君たちを受け入れられるように、するつもりだった。もうコボルトが、シェートが、追われなくてもいいように」
壁の向こうから、少なくないざわめきが伝わってくる。それでも、自分の思いを打ち明けるなら、今しかない。
「君に死んでほしくなかった! フィーにだってあんな真似をしてほしくなかった! あの戦いの場にいたみんなが知ってる! 君の強さも、優しさもだ! それなのに、こんなの、あんまりだ!」
シェートは驚き、それからそろりと、ため息をついた。
まるで、息を吐くのさえ、辛いというように。
それから悲しく笑った。
「ごめんな、悠里」
「え……」
「ありがと、お前、優しい。そういう奴、いなかった。いること、知らなかった」
それは悲しい、意識の差だった。
シェートには想像もできなかったのだ。
わざわざコボルトという『厄介事』に、自分の困難も顧みず、手を差し伸べる者がいることを。
「俺、嫌われる、慣れてる。コボルト、魔物、だから。全部、終わる。その後、いなくなる。そう思ってた」
「それじゃ、何も変わらないだろ! だから俺は!」
「"英傑神"、王様、する。お前、王様、なる。そうだな?」
その指摘に、壁の向こうがざわついた。
驚く者、囁きかわす者、あるいはただ頷く者。ただ、そのどれもが、肯定の顔だった。
「どうして、それを」
「ソール、言った。"英傑神"、王、なる。悠里、この星、治める。ここから、変える」
「……ああ。それから、いずれは、地球のことも、どうにかするつもりだった」
今度はシェートが驚く番だった。悠里は笑い、それからシェートを見つめた。
「神去のことは、聞いてた。だから、俺はシアルカと契約するとき、言ったんだ。地球に神を取り戻して、滅びの運命から救いたいって」
「……そう、なのか」
「正直、フィーの話を聞いた時は驚いたよ。計画もスケールも、向こうが上だって」
悠里は剣を、腰帯から外した。
それから、正座を取って、自分の手前に置いた。
「もう一度、お願いする。シェート、戦うのをやめて、交渉から、やり直してほしい」
「……なんでだ」
「遊戯を壊して新しい世界を創ること! コボルトの居場所を創ること! 俺たちは同じ方向を見れるはずだからだ! それを、戦いの結果なんかで、決めたくない!」
祈るような気持ちで、いや、祈りを込めて、悠里は頭を地面に付けた。
「結果がみんなの幸せにつながるなら、俺は負けでもいい! だから頼む、もう一度、俺と、俺たちと、話し合ってくれ!」
ざわめきが大きくなり、やがて静まっていく。
長い間の後、シェートは答えた。
「立ってくれ、悠里」
「シェート」
「立って、戦え」
上げた先にあったのは、鋭い目でこちらを射る、コボルトの顔だった。
怒りではなく、意志に輝く瞳が、輝いていた。
「話すこと、ない」
「どうして!?」
「俺、戦う。お前たち、同じ、なれる。だからだ」
振り絞るように告げた言葉が、胸に刺さる。
「俺、コボルトだ。魔物、弱虫、雑魚、畜生、経験点、言われる。決めつけられる」
「だから、それを俺は変えるために」
「ダメだ。それ、悠里、言ったから。言われたから、言わない。それだけ」
シェートは夢を見ていなかった。夢想をしない、理想を見ない。ただ目の前にあるものを、あるものとして、受け入れる。
だから、こちらの言葉の虚飾を、見ない。
「遊戯、嫌だった。戦う、嫌いだ。経験値する、何か倒す、嫌だった」
「俺と戦うのは、嫌じゃ、ないのか」
「嫌だ。でも、嫌だけ、違う」
シェートの目が、柄の間、どこか知らない景色を見ていた。
それはきっと、これまでの長い旅の軌跡。
「"神々の遊戯"、戦う時。俺、勇者たち、同じ、なる。ただのシェート、なれる」
世界から規定され、隷属を強いられた一匹の魔物が、世界と公正に向き合える権利。
「俺、欲しいの。許される、違う。同じ、なれること。だから」
空漠の荒野を背負い、ただ一匹のコボルト、シェートは声を上げた。
「戦え、勇者! 俺、同じ、思うなら!」
声を上げたシェートの目の前で、悠里はひどく悲しげな顔をした、それから意を決して武器を取り、腰に戻す。
その背中の向こう側で、群がる人々が、ざわめいた。
「ふ、ふざけんなよ……」
呆然と、それでも、しり上がりに怒りを見せたのは、グリフだった。
「戦いたいから、戦ってる時だけ勇者になれるから、そんなくだらねえことが理由で、戦いたいってのか!」
その指摘は、的を射ていた。自分自身でも、正直、呆れてしまうほどだ。
でも、これだけは譲れない。
ここまでずっと、理不尽をはねのけるために戦っていた気でいた。だが、それは少し違うのだと気付いた。
勇者という肩書越しではあったが、戦い続けることで、自分は自分として生きることができた。
魔物のコボルトではなく、シェートとして、世界に関われた。
「そんで、その後はどうでもいい。ユーリが必死に、テメエを助けるためにやろうとしたことも、踏みにじろうってんだな!」
きっと、あの男にはわからない。
生きて行った悪徳も善行も、人として扱われる者には。
この、生まれて初めて手に入れた『もの』は、どんな善意を積まれようとも、売り渡すつもりはなかった。
「……そうだ」
「ああ、そうかよ!」
両の拳を叩きつけて、グリフは絶叫した。
「構うこたぁねえ! やっちまえユーリ! 魔王をぶち殺せ!」
その叫びに、周囲の者たちが色めき立つ。自分たちの勇者の目の前にいる者が、なんであるかを思い出して。
『神よ! 勇者に祝福を! 魔王に死を!』
『あそこまでの憐憫を垂れられて、無下にするとは、無礼に過ぎる!』
『身の程知らずの魔物めが! 勇者に打ち倒されよ!』
『コボルトが勇者と等しいなど、思い違いもはなはだしい!』
その声は、枯れた野原に火種を放り込んだように、広がった。
騎士たちや森人たちが眉をひそめ、罵声を吐き捨てる。
『やっちまえ、勇者ユーリ!』
『コボルトなんてひねって殺せ!』
『雑魚が魔王なんて笑わせる! 刻んで首を晒せ!』
『ユーリに勝利を! コボルトに死を!』
徒歩の兵士たち、あるいは傭兵たちも口汚く罵る。
剣や槍が地面に突き立てられ、荒々しい靴の音が幾重にも重なって地鳴りを起こした。
取り囲む全てが、勇者の勝利と、魔王の死を、願っていた。
「――――」
目の前の悠里は、青ざめて唇をかみしめていた。これ以上は、彼にも酷だろう。
シェートは身構えて、弓に意識を伸ばそうとした。
『ふざけてんじゃねえよ、お前らあっ!』
その声に、一万を超える人々が、口をつぐんだ。
人垣を左右に割って、やってくる姿がある。
白い狼と、その背にまたがった、青い仔竜。
「シェートは、言っていいんだ。自分の願いを、言っていいんだ!」
大地に降り立ち、光の壁に歩み寄る。
それから、群衆に向き直った。
「あいつは、あいつの仲間は、ずっと隠れて、生きていこうとしてた」
二人の身体は、見たこともないくらい、傷ついていた。
仔竜の翼は破れたまま、角も片方が砕けて、癒え切らない傷を抱えたままだ。
狼も毛皮の多くが焼け焦げて、左の後ろ足が地面に付いていない。
「それを壊したのは、勇者だ。神々の遊戯が、全部壊した。勝手な都合で、くだらない思い込みで、優しい仲間も、愛する家族も、大好きな恋人も、奪われたんだ!」
今にも倒れそうな体で。
それでも、仔竜は語るのをやめなかった。
「そんなあいつの戦いを、願いを、くだらないなんて、誰にも言わせない!」
一歩踏み出し、フィアクゥルは、絶叫した。
「俺が、絶対に、言わせねえんだからなぁっ! 馬鹿野郎っ!」
青い背中が、震えていた。
拳を握り、消えていった叫びを睨みつけるように、立ち尽くしている。
構えかけていた手を降ろし、シェートは壁に近づく。
そして、声をかけた。
「フィー」
「……うん」
「こっち向け」
泣きながら、歯を食いしばって声を押し殺す仔竜に、拳を上げた。
「ありがとな」
「……ああ」
「俺、勝つ。必ず」
涙をぬぐって、仔竜も拳を上げる。
そのまま、壁越しに打ち合わせた。
「やるぞ、悠里」
これ以上、振り返るべきものはない。
コボルトの狩人は、目の前の獲物を見据えて、宣言した。
「決闘だ」