51、最終決戦、その五~輪廻/Metampsychosis~
ドラゴンに、忘却は無い。
それは竜種という存在に定められた絶対的な優位性であり、逃れられない宿業だ。
だからこそドラゴンは強くあり、強くあらねばならなかった。
もし、その生涯の記憶が、苦痛と抑圧に満ちていたとしたら、それを忘れることもできぬままに、生き続けなければならないのだから。
「ああ、ああ、ああ! そうだ! 貴様は、貴様は殺す! 殺さねばならぬ!」
アマトシャーナは、湧き上がる感情を怒りで塗りつぶす。そして、南の彼方から、招請に従って飛来する、四頭の援軍を睨んだ。
「これ以上、吾を穢すな! 吾が追憶を汚すな! 貴様の、貴様らの毒を、この世から消し去ってくれる!」
叫んで舞いあがる。
その視線の先にある者、異様で不快で、忌まわしい聲を纏う仔竜へ向かって。
「エストラゴン――ランチャーフォーム、両手!」
その小さな両腕を固める、銀の槍先。そこから漏れ出る聲が、不快だ。
ただの雷の聲に過ぎなかったものが、竜種の目さえ欺く速度の飛礫を打ち出す力に変わる。
「うごおおおおおおおおおあああっ!」
赤竜は叫び、熱を纏い、雷を纏い、それを打ち消す。それでも殺しきれなかった痛みが腕に突き刺さる。
忘れられない、あの城の忌まわしさ。
自分の鱗目さえ穿つ、重く鋭く硬い一撃に、打ちのめされた記憶。
「ごおおああああああああああああっ!」
全身を興らせ、震わせ、叫び謳う。
金と銀の光が舞い、仔竜に追いすがる。だが、その一撃が届かない。
その動きは、捉えられなかった。
鳥でもなくドラゴンのそれでもない。そして、最前まで仔竜自身がやっていた飛行でもない飛翔。
進行方向へ引っ張る力を、極限まで無視した、異常な軌道。
(消えろ)
あの日。魔王の城と相対した夜。
アマトシャーナは視た。
暗い夜を彩る、無数の光を。それは人共には見えず、一部の虫か動物の類しか知覚できない域のものだ。
それが舐めるように世界をさらい、こちらをなぶっていく。
ドラゴンの自分が、すべて『見透かされる』という、おぞましい感覚。
(消えろ)
竜洞の者らは吾に向けて言った、地竜と。
ただの比喩、住んでいる場所の違いを告げたのではない。
一つの星に縛られ、あまたの世界を知ることもなく、その深奥に隠された秘儀に気づくこともできない。
身の程知らずの、地べたを這いずる蒙昧な生き物を、あざける言葉。
(消えろ!)
吾は知らなかった。天の星の真実を、雷の聲の恐るべき工夫を。見えざる光が、ただ美しいだけではないことも。
いかに自分が何も知らなかったのかを、思い知らされた。
気が付かなければよかった。気づいてしまえば、知らなかった頃には、戻れない。
この世界には、自分以上の存在が、厳然と存在することを。
だって、ドラゴンは、忘れることができないから。
「消えろ!」
体の芯を絞りつくすような、聲を放つ。
自分の命に従って到着した四頭の竜たちが、同じ聲を唱和する。
竜の唱和は人の魔法の、百万の唱祷を百万遍重ねるに等しい。天に輝く星、全てを射落とせるような、魔法の煌めきが、ただ一匹の仔竜に収束する。
「きえろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
そして、アマトシャーナはすべてを塗りつぶした。
魔法によって沸き立つ熱で、世界と己の身を、もろともに焼きながら。
それは、魔王の使ったトキジクにも等しい熱だ。
アマトシャーナとそれに従った四頭の竜が、聲を共振させて、空間の全てを殺意の魔法で満たした結果。
まさしく、地上に生まれた太陽。その光の帯すべてが、フィアクゥルという仔竜ただ一匹を、跡形もなく消すために生み出された熱量だ。
『フィー! 撤退――』
「――撤退なんて言ったらぶっ飛ばすぞ!」
加速する。意識を加速する。ドラゴンの思考は光を超えられる。魔法とは世界を感覚しながら、それを『思考』で扱うということだ。
思考とは何物にも囚われぬ力。そこには時間も、速度の限界も存在しない。
「エストラゴン――マニューバフォーム」
ただの加速では間に合わない、飛翔では届かない。
ならば、飛躍すればいい。
エストラゴンの形状が変化し、銀色のフレームが翼を覆う。
「モード:クオンタムリープ!」
叫びと共に、仔竜は躍んだ。
襲い掛かる幾億もの光に向けて。
わずかな接触でもあれば、小さな体を微塵に砕く竜種の力に向けて『同じ数だけのフィアクゥル』が躍ぶ。
その光の全てが、『フィアクゥル』を壊せない。
ドラゴンたちの力が砕いたのは『可能性の未来』、その全てを、青い仔竜が飛躍び越えていく。
そして、『無傷ですべての魔法をかわし切った未来』へ収束する。
爆圧、閃光、熱の嵐、解放された力が人々をなぎ倒し、力を放ったドラゴンたちさえ、疲労し硬直したままだ。
「メーレっ! これで最後だ! だからっ!」
『了解』
こちらの願いが何であるかを理解して、それでも青い竜蛇は笑って請け負った。
『以後、全指揮権、女神サリア―シェへ委譲。悔いのない闘いを』
疲れた体に一瞬だけ活力が戻る。
同時に、脳裏に浮かぶ光景。
四竜たちが何をしていたのかを、完全に理解する。
『竜樹』へ干渉して侵蝕率をごかまし、こちらが支払うはずだった魂の消費を、肩代わりしていたことを。
「エストラゴン――アトラクタフォーム!」
八機の『小さな竜』達が、背中に巨大な輪を構築する。
かざした両手の前に生み出されるのは、巨大な竜の顎を模した砲身。
「出力最大! 目標、地竜の女王とその取り巻き!」
雷では威力が足りない、炎では防がれる、闇ではその場しのぎにしかならない。
それなら、地球で見いだされた技術の、更に一歩先へ。
「蒼き雷霆の咆哮ッ」
突きつけられた異界の力に、赤いドラゴンが可能性を探し、あがく。
その目が、深い絶望に染まりながら、こちらに突進しようとした瞬間。
「星貫く煌竜の聲!」
すべての叛意を擂り潰す、焦熱が世界を飲み込んだ。
それは、目には見えない粒子を、光の速度に到達するほどに加速させたもの。
この地に残っていた重金属、ミスリル、あるいは膨大な熱と電力によって分離した分子の全てが、ドラゴンたちに殺到する。
『めっちゃスゲースピードで砂をぶつけるやつって感じか』
荷電粒子砲、それがこの力の名前。
回避は間に合わない、魔法障壁では防ぎきれない、ドラゴンの聲でさえ、相殺どころか防御もままならないはずだ。
五体の竜が光に溶け、影になって吹き散れていく。
そして、力の発現が停止する。
でっち上げた砲身が崩れ去り、仔竜の体が地面に、力無く墜落した。
「ぐ、あっ」
ぐしゃり、と、装甲の幾らかが剥落した。バックファイアした粒子ビームの影響で、こちらも、あちこちに火傷を負っている。
視界の端に映り込む、ステータスを確認する。
エストラゴン――五機消滅、二機動作不能、一機出力低下。中央制御ユニット『ドラゴデウス』、システム再起動中。
そして、改めて勇者軍を確認する。
「……なんとか、なったか」
こちらの攻撃を受けたドラゴンたちが、地面に転がっている。死んではいないが、火傷に全身を引きつらせ、衰弱している。
その肉の壁に守られたアマトシャーナも、無事ではない。
顔が黒焦げになって半分焼け潰れ、手足も先端が喪失している。翼も折れ、鱗が剥落して下の皮膚まで焦げて黒ずんでいた。
おそらく、こちらが使っていた電磁障壁を展開したのだろう。それだけでは防御性能が間に合わなくて、命を取り留めただけという感じか。
人間たちに直接の被害はない。ただ、こちらを絶望した目で睨んでいる。
「さ、サリア、シェート、は」
『それが……フィー! 前を!』
突進してくる、小柄な影。
空を蹴りつけ槍のような踵が、こちらの腹に突き刺さる。
「ぐ……あ……っ!」
悲嘆で口を結び、それでも握った拳に魔力を込めて、イフが立ちはだかる。
「か、回復、したのかよ。はええ、な」
「もう、降参してください」
「できるかよ。お前を抑えれば、後は」
言いかけたフィーは、目の前の少女の体を見た。
自分が斬りつけた傷痕がない。それどころか、全身の傷さえ、綺麗に治っている。
こいつも回復はできる、それでも、こんな短時間に。
「ああ、実に、実に、不快だ」
起き上がる。赤い巨体が起き上がる。
その身体には何の異常もない。先ほどまで悲惨に爛れていた火傷は、跡形もない。
こちらを見下ろす地竜の女王の背後に、傷一つないドラゴンたちが付き従っていた。
「な……なん、で」
「業腹だ、屈辱だ、今すぐにでも、自ら燃え散りたいほどだ」
フィアクゥルは、ようやく気が付いた。
赤い竜の全身から湧き出る、癒しの聲に。それはフィーがずっと使い続けていたもの。
「あ……!」
「貴様の聲など、使いたくもなかった。だが、貴様に負けるのは、それより忌々しい」
五頭のドラゴンが唱和する。癒しの聲を謳い上げる。
倒れていた兵士たちが起き上がる。騎士たちが傷一つなく立ちあがる。
万を超える勇者軍が、誰一人欠けることなく、仔竜の前に立ちはだかっていた。
「貴様の諫言、受け取ったぞ。天の仔竜。よくぞ吾の蒙を啓き、屈辱を、刻みつけてくれた」
騎士たちが馬に乗り、歩兵が走り出す。
だめだ、まだ行くな。
必死に顔を上げたフィーの前に、立ちふさがる影。
「返礼だ。肉叢魂魄、微塵と残さず、燃え散れ」
強烈な憎悪を込めて、真紅の竜は劫火を吹き下ろした。
「走れ! シェート!」
水鏡に向けて、サリアは絶叫していた。
戦域図から、仔竜の光点が消える。残る味方の光は小さな狼のものだけ。
迷いも後悔も、今は感じている場合ではない。人の波が揺らぎ、竜たちが空に舞いあがり始めている。
「私の合図が出るまで走れ! 頼む!」
南に顔を向けたシェートは、すべてを振り捨てるように走り出す。その背中を呆然と見つめ、立ち尽くす悠里に、女神は叫んだ。
「岩倉悠里よ! 汝の器知りたくば、我がガナリを追え!」
少年は目を見開き、その顔を歪めた。
迷い、惑い、歯を食いしばる姿に、檄と叱責を重ねた。
「汝の旅路にて、彼の者は唯一、作為なき敵! なぜならば、彼こそは魔王の筋書きになかったものだからだ!」
交渉とは、至誠に基づく信頼と、相手の欲得を見抜く目、そして損得を刺激する取引を成すこと。
岩倉悠里という少年の葛藤、懊悩、そして願いは、魔王によって暴かれた。
自分が、魔王の筋書きに乗せられた、駒でしかないという、呪い。
それをここで使う。
彼の欲望を刺激し、最後の一歩を踏みださせる。
(狡猾は武の技に勝る力なり)
思い出す、その警句を。
「彼の者を打ち破りし時、魔王の奸計は拭われ、汝は真の勇者となる!」
(ゆえに無道に謀ること無かれ)
これが無道であると言うならなら、誹るがいい。
長い旅路の果て、今の私にできることが、汚名と誹謗をかぶることであるならば、永劫に呪われることさえ厭わない。
女神は狡猾に、勇者の行く末を、舗装した。
「選ぶがいい、岩倉悠里よ! 己を量るか! 己を謀るか!」
馬上の勇者は目を閉じ、そして見開いた。
轡は、返されなかった。
鐙が馬の腹を打ち、走り去っていくコボルトの背を追う。
事態に気づいた悠里の仲間たちが叫ぶが、すでに耳には入っていない。
必死に走るシェートを騎乗の悠里が追いかけ、叩きつけられる魔法の矢で、動きが鈍らされる。
もつれあいながら走り続ける二人、その影を追うために悠里の仲間たちが走り、狼が行く手を遮る。
「イェスタ!」
「御用の向きは」
「かの星狼に、攻めと護りの加護を最大化することは可能か!」
「残りの加護を使い切れば、なんとか」
自分にできることは、これが全てだ。
「頼むグート、シェートを、助けてやってくれ!」
それはどこか遠くにいる、サリアという雌の声だ。
自分の体にまといつく、妙な感覚が強くなる。目の前の二本足が、こちらを睨む。
「どきやがれ犬コロ! ぶち殺すぞ!」
図体のでかい、隙だらけの雄はどうでもいい。その後ろにいる二匹の雌がやっかいだ。
唸り、牙をむき出す。
後ろの雌が喉を震わせ、頬を膨らます。そこら中に広がる震え、大きく下がった足元から、草の蔓が飛び出すのを、何とかよけた。
「やはり星狼は厄介じゃ。こちらの聲を聞き取っておる! こうなれば――フラン!」
堅い鉄の殻をかぶった雌が、脇をすり抜けようと走る。
行かせない、地を舐めるようにして足首に噛みつこうとして、
「ぐ、ぎゃうっ!」
横ざまに矢がぶち当たるが、こちらの体には通らない。『かご』とかいうので少し痛いだけで済む。
そのまま顔を押し込むように足首を狙うと、殻の雌がようやくこちらに向いた。
「加護が強化されておる! 儂の矢も魔法も通じんとは……面倒な!」
「おそらく、噛みつく力も強化されているでしょう。薄い部分を突かれれば、私でも無事では済みません」
「だとすりゃ、誰か一人でも、ユーリの所にたどり着かせた方がいいな!」
そしてこっちは、シェートの所に誰もたどり着かせないつもりだ。
『俺、ずっと逃げる。逃げて、決闘する。逃げ足、頼むぞ、グート』
だいぶ簡単に、相棒は目的を語っていた。
実のところ、こいつがどういう相手に牙をむいてきたのか、ほとんどわからなかった。
昔、あの小さな人の子供に飼われて、もう一度、そいつと引き合わせてもらってから、何とはなしについてきていた。
元々いた群れを離れ、気ままに歩き、はぐれの雌でも見つかればいい、そう思っていたときに、たまたま出会っただけだ。
それが本当に長く、付き合いが続いていた。
『俺たち、三匹、ちっちゃい魔王軍、だ』
シェートの言葉は分からなかった。それでも、どんな意味かは分かった。
俺たちは小さな群れだ。狩りをし、外敵と戦い、日向の心地よさと、雨のしのぎを共にする群れだと。
風に乗って吹き付けてきた、香りで気づいた。小さな弟分は、倒れたらしい。
俺たちの末っ子、生意気ではしっこい、奇妙な群れの、大事な一匹。
背中越しに伝わった、シェートの苦しさと悲しみは、今も残っている。それでも、狩りを果たすために、走っていった。
「ぐるるぅっ」
だから、こいつらは通さない。
身構え、首元にある『それ』に気持ちを通す。
「な……!?」
シェートに与えられた『それ』を使うと、体がなくなる。何度もは使えないが、体がなくなるおかげで、獲物を捕まえやすくなった。
そして、二本足を狩るのも、やりやすい。
「ぎゃあっ!?」
「コスズ!」
耳長の雌を組み敷いて、前足で肩を押さえる。それから素早く、口元に嚙みついた。
「ひうっ、ぐうううううううううううううっ!?」
「コスズを離せこのクソ犬がかああっ!」
牙で雌の顔を引き裂きながら、雄の膝頭に食いつく。牙を突き立て、そこにあった鉄の殻と下の皮膚を一緒に嚙み潰した。
「っぎゃあああああああああああ! は、離れろぉっ!」
ああ、離れてやるとも。
鋭くこちらの顔にねじ込んでくる、鉄の先端を避けて、殻の雌に顔を向ける。耳長の雌は顔を押さえてのたうち回り、でかい雄は膝を抱えてこっちを睨んだ。
後はこいつだけ。この殻の雌さえ、動けなくすればいい。
だが、殻の雌は体を低くして、片手の板をこっちに向けた。
「うおうっ! うわうっ!」
吠え掛かるが、怯みもしない。こっちの牙を受けないように、走り込んでも板で弾き返せるように。
こっちには『かご』があるが、ただ突き進んでも倒すことはできない。
それならもう一度、体をなくす。
毛皮の下で板切れの感触が変わる。これなら、体をなくせる。
低く唸り、グートは自分の体をなくすように板に命じた。
そのまま殻の雌に飛び掛かり――
「ぎゃうっ、ぐっ!?」
――わき腹に、何かが突き刺さった。『かご』でもどうしようもない、すさまじい痛みが体を吹き飛ばす。
おかしい、自分の体がないときは、誰もこちらに気づけないはず。
「ごめんなさい、グートさん」
こちらを吹き飛ばした姿が、ゆっくりと立ち上がる。
奇妙な匂いの雌は、手足から煙を出しながら、言った。
「そのまま、寝ていてください。もう、終わりますから」
頭上を、巨大な影が通り過ぎていく。
真っ赤な鱗をざらめかせて、大蜥蜴がシェートを目指して飛んでいく。
それは山の大きな揺らぎや、海の大波と同じだった。ちっぽけな自分たちではどうしようもない、ただ逃げ隠れる事しかできない、絶対の存在。
だが、それに追いすがるように、何かが空を駆け抜けていく。
その姿に、グートは大きく吼えた。
『もうやめろ、フィー!』
フィーの視界の端に、白い狼の姿が見えた。
異形の娘に倒され、力無く転がる姿。悠里の仲間たち。だが、今はそれよりも。
「待ちやがれ!」
秒単位で鎧がはげ落ちていく、背中のエストラゴンが一機砕け、二機砕け、それでも必死に声を振り絞って――
「待てってぇっ、言ってんだよぉおおおおおおっ!」
最後に残った一本を両手で支え、シャーナの顎を突き貫く。
「うがあああああああああああっ!」
怒号、聲でさえない絶叫が仔竜を吹き飛ばし、同時にバランスを崩して、赤い地竜も地面に転がる。
そうだ、いくら成竜だからって言っても無尽蔵に力があるわけじゃない。
立て続けに新たな聲を見出し、全力で竜の聲を使い続けてきた。
こっちもボロボロだが、相手だって、満身創痍のはずなんだ。
「っは、ぜっ、はひっ、ぜぇっ、い、いかせ、ねえよっ!」
「こ、この、忌まわしい、仔竜、めが、ぁっ!」
火球がこちらに飛ぶ。その火勢も、今や人間の魔術師が繰り出せる程度の力――。
「ぐあああっ!?」
防御が間に合わない。いや、自分の聲が、弱まっている。
無敵の力を約束していたはずの鎧が、粉々に砕けて崩れ落ちていく。
それでも、まだ、諦めない。
「エクソ……ドラゴデウス……っ、リブート!」
祈るように胸を叩く。
伝わってきたのは、空疎な手ごたえと、小さなエラー音だった。
『『竜樹』、ユーザーの魂魄限界を検知しました。侵蝕率、99.99%。契約条項に基づき、セキュアモード起動。ユーザーの全権能を凍結します』
背中のユニットが強制解除され、ただの金属と炭素の塊に戻っていく。手にしていたエストラゴン、だったものが、輪郭を失って消えていった。
「そん――」
激痛が、フィアクゥルの意識を薙ぎ払った。
それは真紅の尻尾の一撃。吹き飛ばされ、瓦礫に叩きつけられる。
「あ……が……ぅ」
「もう死ね」
その瓦礫ごと、擂り潰すような太い尾の一撃。意識が吹き飛び、強烈な痛みで無理矢理覚醒してしまう。
「げ、あ……」
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
踏み降ろされたつま先が、足を砕き腕をへし折り、翼を引き裂いて、内臓を圧迫する。
口から血泡が溢れ、潰れ砕ける骨と内臓の悲鳴で、角が満たされていく。
「早く死ね! 一刻も早く死ね! そうでなければ、吾が背が」
その足の暴力が、唐突に止まる。
正気を失いかけていたドラゴンの目に、怪しく乱れた光が灯った。
「ああ、吾が背よ。斯様なとことで、なにをしおる」
羽ばたき、酔ったような顔立ちが嗜虐に染まった。
「そんな汚らわしいものなど、すぐ燃え散らそう。ああ、なんと、なんと、なんと酷い一日だ! 今すぐ汝と睦み合いたい! そうでなくては収まらぬ! 昼夜の分かちなく! 時の果てまでも!」
破れた血袋になったこちらに目もくれず、狂った竜が去っていく。
だめだ、行かせない。
意識を――加速。
仔竜の世界が、静寂の中で、止まった。
だが、それだけだ。
いつもなら無限に広がるはずの可能性は、絶望の断崖で、ぷっつりと途切れていた。
「まだだ」
手足が動かない。粉砕骨折と筋肉と神経が完全に断裂し、腱が切れている。
翼が引き裂けている。内臓もほとんど潰れて、心臓と肺が無事なだけ。あと二分で多臓器不全と失血によるショックが襲い、意識を保てなくなる。
「ソール」
赤の声は聞こえない。自分の最初の無茶のために、『竜樹』のシステムに割り込みをかけて、こちらの力を増強したときに、力を使い果たしている。
「グラウム」
黒い魔竜は動かない。同僚の後を引き取り、こちらの送り付ける侵蝕率をごまかし、あらゆる遅延を行ったから、あんな無茶ができたんだ。
「ヴィト」
白い風は凪いでいた。システムと仔竜に適用される、あらゆる『負荷』をその力で『殺す』ことで、仔竜の思考の飛躍を助ける、追い風となったために。
「メーレ」
青い癒し手は絶えた。崩れ去るはずの命を繋ぎ止め、あらゆる力を尽して、フィアクゥルという存在を保たせていた。
「終われ、ない」
空を見上げ、そこにいる女神の姿を探す。だが、サリアの加護は使い果たしている。
地を見晴るかし、星狼に手を伸ばす。グートの力では、どうにもならない。
それでも。
「終わりたく、ない!」
本当にもう何もないのか。誰の助けも、なんの力も、残っていないのか。
いや――たった一つだけ、残っていた。
今回の作戦では採用することが難しかった、切り札が。
それを使うためには、あらゆる『コスト』を払う必要があった。
「『竜樹』、管理者権限で、最優先、命令」
胸元で光が点り、アプリが起動する。
迷いなく、フィアクゥルは告げた。
「竜神、エルム・オゥドと、逸見浩二の、契約を」
言いかけた時、いつの間にか、体を起こしていた。
痛みも辛さもなく、傷もない。心もひどく穏やかだった。
仔竜は目の前に座る黄金の神竜を見つめていた。巨大な竜の目は、悲しげだった。
『良いのか』
ああ、もちろんだ。
『後悔はないと言えるか?』
分からない。でも、今やらなかったら確実に、後悔するから。
『では、告げよ。我が残した、最後の言葉を』
血まみれの仔竜は目を開き、一言、告げた。
「"汝の欲するところを成せ"」
『パスワードを受諾しました。竜神エルム・オゥドと逸見浩二の契約を破棄。竜樹、魂魄維持機構、解除』
空を泳ぐように、地竜の女王が突き進む。もつれあいながら先を行く二つの姿がある。
片方は愛おしい存在。もう片方は■■■■■■■■■■。
お前は、いらない。
口を開く、聲を絞る、ただ一条の焦熱をもって、塵さえ残さず燃え散らす。
そのシャーナの目の前に、忌まわしい色がちらついた。
小さな青の欠片が、すべてを遮る壁のように、立ちふさがる。
だが、どうでもいい。あの力を使うなら、いや使おうとも、貴様もろとも■■■■を燃え散らす。
「――」
だが仔竜は、胸の板を引きちぎり、捨て去る。
代わりに手にしていたのは、光り輝く小さな紙片。そこに込められた神威に、シャーナの精神は限界に達した。
意識が赫怒で塗りつぶされる。すべてがどうでもよくなる。あれを使わせてはならないと、全神経が悲鳴を上げる。
何もかも燃え散らして――。
「キャスト――《竜血覚醒》!」
渾身の竜の聲が、青い体を焼失させ、その背後を進む■■■と■■■■を、■■殺す。
はず、だった。
「なんだ、それは」
茫洋と、アマトシャーナは口にする。
目の前に顕れた、巨大な蒼きドラゴンに向けて。
それは、こちらのあらゆる常識を覆す、偉丈夫だった。
「なんなのだ、それは」
その身体を、太くたくましい筋肉と、深い蒼を湛えた鱗で固め、広げた翼の片方だけでも、こちらを包めるほどの大きさが備わっていた。
双眸に輝く金の瞳は一切を見通す怜悧が宿り、天に伸びる双角には、傷も歪みもない。
ただそこに在る、そこで息づくだけで世界が揺らめき、わずかな蠢動さえ、百億の聲を放散し続けた。
絶望的に美しい、蒼の輝き。
その光の中に、自分の知らぬ世界の在り様が垣間見える。知れば、これまでの世界に戻れぬ真理が、渦を巻いている。
相対するだけで、吐息を感じるだけで、自分の角が腐って抜け落ち、鱗の赤がくすんだ茶色になるかと思うほどの、喪失感と自己卑下が湧き上がる。
真実、自分など及びも付かぬ、強く、美しく、至高の存在へ、隷属しなけれ――。
「なんなのだ、それはああああああああああっ!」
悲鳴を上げた。上げなくては保てない、自分を保てない。
「吾を助けろ! あれを消せ! 吾が聲に従い、すべてを消し去れぇえええっ!」
お前らは吾が癒した。吾が聲に従うのが道理だ。
そして、目障りなすべてを、吾に従って消し去れ。
傲慢な赤のドラゴンの聲に、立ち尽くしていた人々が、正気を消されて走り出す。明らかに本人の限界を超えて、手足から血を流しながら。
「貴様らもだ! もたもたするな虫共ぉっ! あの汚らしい畜生を殺せ!」
■■■の■■だというなら、吾の道具も同じ。■■■以外の人共など、いくら摺り潰しても構わぬ。
虫も森人も雌も混ざりものも、あれを殺しに行け。
「……どうした」
目の前のそれは、動かない。
こちらの聲にも干渉せず、先ほどのような妙な力も使わない。こちらを金の瞳で、見下ろすばかりだ。
「図体ばかり大きくして、聲の使い方も忘れたか!」
シャーナは聲を放つ。背後に控えた、四頭に向けて。
そして、万を超える人共と自分との盟約に縛られた四頭のドラゴンが持つ、全ての暴力を、ただ一頭の神の竜へ、解き放った。
「ならばそのまま、燃え散り果てよぉっ!」
耳に入る空気がひどく、騒がしかった。
そんな中でグートは目を開き、聲を聞いた。
『おい、起きてくれ』
それは仔竜の言葉。少し焦り、そして少し笑っていた。
『悪いんだけど、頼まれてくれないか』
お安い御用だ。何をすればいい。
『これから、全部終わらせる。でも、ちょっとだけ、手が足りない。ほら、あいつら』
駆けていく四人の二本足。何かにせっつかれるように、シェートを目指している。
『あれを止めれば、シェートはもう、大丈夫だ。だから』
それで?
『ちょっと荒っぽくなるけどけど、使ってくれ』
小さな光が、腰のあたりに入り込む。それから感じるのは、ちょっとどころではない荒っぽさ。
でも、まあいい。
起き上がり、そして走り出す。
『俺たちのガナリを、頼んだぞ』
任せろ。
チビ助の聲が、遠ざかっていく。背中の方で、『こちら側』と『あちら側』に仕切られる感じがする。
そんなことを気にする必要はない。
いつもの狩りと同じだ、相手を追い詰め、牙を突き立てる。
馬にも乗っていないのに、二本足は早かった。いつもの自分なら、決して追いつけないほどの速さ。今は仔竜が付け足した聲で、間に合っていた。
連中の先頭を、混ざった臭いの雌が飛ぶように進む。目は狂った猪のようで、赤い筋と透明な筋が、目からこぼれている。
ああ、これは、良くないものだ。
さっきまでわめいていた、竜の聲のせいだ。
怖い、苦しい、助けて、だからお前らは、自分に従え。そういう聲だった。
『ふぃ、ふぃぇえんす、い、いに、か』
さっきの蹴りが、こちらに飛んでくる。
今の自分なら避けられる、だが。
「ぎゃぶ、ぅっ!」
わざと喰らって、吹き飛ぶ。
痛みが増している、体の中で何かが砕けて、潰れた。
たぶん、起き上がるのは、無理だ。
その代わり、
「おぐあああっ!?」
飛ばされた先に、残りの連中がいた。一緒にもみ合いながら、地面に転がる。
そうだ、これでいい。
体に付けられた皮の袋に鼻面を突っ込み、それを取り出した。
銀色の刃、シェートが造っていた金属の牙。
「あ、ああああっ!」
それを見た混ざり者が叫び、襲い掛かってくる。
使い方は知っている。武器を使わない雄との戦いで、見たから。
ただ、命じるだけでいい。
砕けろ、と。
そして白き狼が、銜えていたものを投げ捨てた瞬間。
竜の女王が解き放った聲と、短剣に込められていた魔力が、同時に炸裂した。
それが自分へ浴びせられた暴力と分かっていたが、蒼き神竜は身じろぎもしない。
竜たちの聲は、届かなかった。
エルフの魔法も、騎士たちの槍も、あるいは人界の絶技を操る老魔術師の力さえも。
役目を果たしてくれた大切な友を思って、それを心に刻みつけた。
これは、うたかたの夢だ。
たった一分間だけの奇跡。あと三十秒ほどで、効果が切れる。
それでも『充分』だ。
閉じていた瞼を開くと、神の竜は、静かに謳いだした。
『――――』
それは、破壊をもたらさなかった。
『――――』
それは、嵐も呼ばなかった。
『――――』
それは、ただ世界を暖め、満たしていく。
切れ切れに、しかし次第に意味を持って世界を、揺さぶっていく聲。
それに触れた時、人々は侵攻を止めていた。
「ど……どうした!? う、動け! 動かぬか! わ、吾が、そう命じたは、ず」
人々は武器を捨て、鎧がほどけて、兜も楯もどこかに消える。
森人が弓を降ろし、岩人は帷子と斧を置き去りにする。
馬から鞍が消え、荒ぶるものも、盲目的に突き進む者も、いなくなっている。
「な、なんだ、この聲は!? い、癒しでも、操りでもない……?」
いつの間にか、四頭のドラゴンたちさえ地上に降り、呆然と虚空を眺めている。
その顔には、穏やかな表情だけがある。
「何をしておる! もう一度、吾と共に」
怒鳴りつけた一頭のドラゴンが、岩と土の山に変わりつつあった。その、陶然とした口元から漏れるのは、蒼き神竜と同じ聲。
「ま……まさ、か」
アマトシャーナの顔に浮かんだ表情。それは、決してドラゴンが浮かべないもの。
絶望が、彼女を醜く歪めていた。
「馬鹿な! まさか、葬送の謳を、末期の鳴唱を、謳っておるのか!?」
彼女の足元で、一人の男がはじけ飛び、無数の蝶に変わった。
エルフたちは天を仰ぎ、心地よさそうに樹木と化していく。岩人たちは憩いながら、路傍の岩、あるいは一叢の炎へと転じた。
それまで荒れ果てていたはずの、滅びた町の北の平原は、様相を変えていた。
緑が生い茂り、草花が咲き乱れ、小高い丘や泉の湧き出るくぼ地が生まれ、鹿や熊、兎や狼たちが方々に散らばっていく。
その全てが、勇者軍と呼ばれた者たちの、成れの果て。
「その聲は、その聲こそは、世界の調和と円環を司るもの! それを貴様は、ただ吾らを留めるためだけに、殺戮の業へと貶めたというのかぁっ!」
青き神は謳い続ける。
その周囲から風が舞いあがり、甘やかな雨が降り、すべてを包むような慈愛が、淡い輝きとなってこぼれている。
世界が循環していく。
終わりなき生と死の円舞を享受する、楽土が目の前に開けていく。
それは抗えない甘露。永劫の悦びを約束する『終わりと始まりの強制』だった。
「吾に従いし同族よ! この聲に惑わされるな! これは偽りの導き! あのような忌まわしい混ざり者に」
その言葉を聞く者は、誰もいない。
竜たちはそれぞれの本性に従い、土と成り、水と成り、火と成り、風と成っていく。
シャーナは絶望し、それでも一歩踏み出す。
あれを殺して聲を止めるしかない。
だが、なにかがおかしい。
「なんだ……貴様は」
神の聲が止まらない。
末期の鳴唱が、これほどまでに長く続くわけがない。
何故なら、かの鳴唱は謳った者にも快悦と安寧を約束し、ほんの数節謳っただけでも、その存在が自然に還るはずだから。
これほどまで、長く謳えるわけがないのに。
「なんなのだ、これは!」
空を飛び、掴みかかる。その頭に自分の頭を押し付け、その内側にもぐりこむ。
こいつの心を、知らなくてはならない。
これほどまでに長く謳い続けられる、その秘密を。そうしなければ、止められない。
めまいをこらえて、その心の深くに潜る。
「な……」
輝くような外の光景とは裏腹に、神竜の中味は闇だった。
一切の光を拒絶するような、黒々とした世界。
その中心に、場違いな色が落ちている。
青い小さな仔竜が、何かを抱き締めながら、謳っている。
「これが、仔竜の、心の深奥、なのか?」
堅く目を閉じ、甘く優しく癒しと輪廻を謳いながら、何かを抱く両手から、どす黒い血を流し続けていた。
顔を近づけ、中を覗き込こむ。
それは記憶。仔竜にとっての、忌まわしい記憶だった。
『お前……いったい、なんなんだ!?』
コボルトの怯えた顔が、映し出されている。それを眺めている背後の人影は、灰色にかすんだ霧と化していた。
『■の■前は■■■■』
いやらしく笑う青い鎧の少年。
その目鼻はかすれて、ヒトのとして個を特定することさえ難しかった。
『■界を滅■す魔■を■すた■に、この■■■■ばれた勇■だ』
振り下ろされる剣。貫かれて地面に倒れ伏すコボルト。
そして時間が巻き戻り、再び同じ光景が繰り返される。そのたびに、過去の記憶が擦り切れ薄れて、それでも仔竜は謳い続ける。
両手どころか、両目からも、どす黒い涙を流しながら。
「あ、あのコボルトと、ユーリを決闘させるためだけに……こんな!」
理解できない、理解したくない、どうしてこんなことを考えつく。
助けたい相手のために、そいつを殺し、そいつから奪ったという悔悟を想起し、自傷し続ける。
その痛みがある限り、救われることのない罪人として、己を罰し続ける限り、輪廻も赦しも拒絶して、謳い続けられる。
「なぜそこまでする! あんなものに、ここまでする意味があるはずがない!」
ただのコボルト、ただの雑魚、瞬く間に死んでしまう、塵芥に過ぎない者。
美しくもない、強くもない、知恵も、価値ももたない魔物。
それを、神と成るだけの資質を持つ、至高のお前が、なぜそこまで。
「いったいあれは、貴様の何なのだ!」
黒い涙を流しながら、仔竜は、告げた。
「やくそく」
「――は?」
「たのむって、いわれた。やくそく、した」
すでに自我の輪郭さえ、喪失しつつある。
それでも、仔竜は思いを告げた。
「ともだち、だから」
「う――」
「だいすきだから、やくそく、まもるんだ」
彼は満足げに、笑っていた。
全身を、自らの罪で染めながら。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
繋いだ心を、無理やり引きはがす。
分かりたくない、分かりたくもない。
人共の恋は知っている、愛も見聞きした、友誼を結ぶという意味も理解している。
それらが、人共にとって『尊い』とされるということも。
だが、あれはなんだ。あれは、あんなものが、あんないびつで穢れたものが、尊いものであっていいはずがない。
「たすけて」
目の前の竜の神は、謳い続ける。
まだ吾がいるからだ。
吾がいる限り、たとえ魂が擦り切れようとも、竜の神は謳い続けるだろう。コボルトとの約束を、吾を足止めするという約束を、果たすためだけに。
こちらが輪廻に還り、消え去る時まで。
地竜の女王、アマトシャーナは、絶望に泣いた。
「たすけて、かあさま」
屈した心が、甘やかな聲に拾い上げられる。手足が崩れ、心が還っていく。
薄暗くあたたかな洞窟の中。
卵の殻を破って出たばかりの、まだ世界を知らない無垢の仔供時代へと、崩れ去った。
そこは、白い空間だった。
あらゆる音が静まり、動くものは無いように思われた。
ただ、その中心に、炭を落としたような黒い点が一粒あった。
それはまるで胎児のように、目の前にある白い球を抱く、黒い何かだった。
黒いなにかは、口ずさんでいた。すでに意味を失った調べを。
『あらあら、ずいぶんと張り切っちゃったみたいね』
それは、真紅の薔薇、のようなものだった。
ふわりと、黒い何かの側に寄り添い、その手を添えた。
『そこまでにしておきなさい。貴方の出番は、終わったのよ』
でも、うたわないと。
なにかのために。
『そうね。とても美しい、悲しい、狂おしい歌だったわ。そうやって、何もかも、使い果たしたのね』
まだ、のこってる。
ひとつぶだけ。
『それは、とっておきなさい。貴方の、大切なものだから』
黒いそれが抱いているもの。真っ白な球に、一粒だけ浮かぶ、黒い点。
そこに見える何かに、黒いそれは、笑った。
『さあ、顔を上げて。貴方の仕事が、結実するときよ』
赤い薔薇が指さす先に、光の柱があった。
そこから届く宣言を、黒い何かは確かに聞き届けた。
『悠里、俺、決闘、申し込む』
それが合図だったように、白の世界が破れて風が吹き込んだ。
赤い花びらが、朗らかに笑いながら散っていき、黒い姿が拭われて、青い仔竜へと還っていく。
そして――
――人々が気が付くと、そこは殺風景な荒野だった。
最初、彼らは互いを見回し、奇妙な喪失感を覚えたという。
まるで楽園から追放された、ような、寒さと心細さを。
世界には芳しき香りと花びらが舞い、荒れ果てた土地に小さな緑が芽生えていた。
勇者のために集った者たちは、誰一人欠けることもなく、それまでの荒々しい行軍の記憶も、遠く感じるような情景にしばし呆然とした後。
驚くべきものを目にした。
天に届くほどの光の柱がそそり立ち、その手前で硬直する、地竜の女王と呼ばれた一頭のドラゴンの姿を。
だが、そんな光景も一瞬だった。
巨大な赤いドラゴンが、逃げ出したのだ。
威厳も強さも、傲慢さもかなぐり捨て、心底怯えきった姿で、彼方へ飛び去っていく。後を追うように、四頭の竜たちも。
後に残されたのは、驚くほど小さな、青い仔竜。
両手を広げ、誰も通さないとでも言うように、立ちはだかっていた。
そこから少し離れた場所に、浅くすり鉢状になった地面があり、焦げた毛皮の狼が、静かに横たわっている。
『これより、"英傑神"の勇者、岩倉悠里と、勇者にして魔王、コボルトのシェートの、決闘を開始いたします』
宣言を聞くと同時に、仔竜は静かに倒れ伏した。
「行こう」
誰かがそう告げて、誰もがそれに従った。
勇者を奉ずる人々は、光の柱へと歩いていく。
仔竜と狼を、振り返りもせずに。