46、最も弱き叛逆者
悠里の目の前で、不安が現実に変わっていた。
最初から、構図がおかしかったのだ。自分の後ろには仲間と協力者たちが並び、目の前のシェート達には、誰もいない。
もし、平和裏に勝敗を決するなら、こんな屈従を強いるような場面にはしないはず。
それを、シアルカも承知したということは。
交渉の余地など、最初からなかったのだ。
「ま、待ってください! これは、こんなのは間違ってる!」
礼儀も忘れて、よろめくように進み出る。
そして、酷く後悔した。
シアルカの顔には、冷たい拒絶と怒りだけがあった。とても近づけない、神の峻厳さだけがあった。
「下がりなさい、悠里。君の出る幕じゃない」
「シア――」
「下がれ」
それは、隷属を意味していた。
対等という状況を破棄し、こちらに有無を言わせない神の権能。人間などが逆らっていい者ではないことが、呪いの鎖のように全身を縛る。
「その真意を、お聞かせ願いたい」
「天をただ一柱にて統べる者など、私には認められぬからです」
サリアの言葉は端的だった。
「"遊戯"の問題はありこそすれ、すべての神に上下関係はない。しかし、神の誓約は人と結ぶ以上のもの。絶対の王を認め、隷下となれば、覆す方法はありませぬ」
「つまり、僕がバラルのようになると?」
「神ゆえに王を定めてはならない。我が義父"調停者"バルフィクードの諫言に基づき、貴方の独裁に、異議を唱えます」
独裁という指摘にシアルカは言いよどみ、それからゆっくりと首を振った。
「我が身一つですべてを決めるつもりはありません。貴方を始めとする他の神と合議し、意見を推し量った上で、それをまとめる役として、王座を定めるつもりです」
「それは、不可能です」
女神の顔は冷たく凍っている。優しさなど微塵もなく、射貫く視線に、場にいるすべての人々が動けなくなっていた。
「貴方が勝利すれば、天の権威は貴方に集約される。確かに、私には遊戯で収奪した所領があり、貴方に対抗できるように見えましょう。しかし、我が勝利は怨恨を買いすぎました。天の神々は、私につくことはなく、シアルカ殿を支持されるでしょう」
「僕は、その不公平をこそ、是正するために」
「貴方の意志は、もう関係ないのです。もし天を戴く一柱となるならば、貴方は他の神という『民草』を治めるものとして、私の処断を求められるでしょう」
それは、シアルカの公正が及ばない道理だった。
サリア―シェの勝利と大神の身分は、たくさんの神の、恨みと妬みの上に成り立っている。その清算を求める者は少なくないだろう。それが、逆恨みだとしても。
そして王になるならば、民の言葉は、無視するわけにはいかないのだ。
「遊戯終わりし後、貴方の側近に、というお申し出でしたが、それも不可能です。それをすれば、貴方は自らの理想の、意義を失う」
「――かの"万軍の主"と"調停者"は」
「あれは交誼から始まり、親しき者であるという前提の、いわば身内びいきの結果。ここで結ばれようとした関係は、ただの裏取引です。公正とはさらに、程遠い」
その言葉に、悠里は理解した。
彼女は『シアルカのために』言っているのだと。
「此度の会談は、すべてが茶番です。貴方が、唯一絶対にして公正たる"万民の主"となるならば、私を切り捨てるほかありません」
「なぜ、ですか」
シアルカの顔には、苦悩が浮かんでいた。
振り絞り、思いを抑えるように、問いかけていた。
「僕は、貴方にこれ以上、傷ついてほしくない。この和議を受けていただけるなら、誰も傷つかずに済むのです」
「いいえ、シアルカ殿。それでは貴方の理想が、傷つけられます」
女神は微笑んでいた。
自らの願いに、一切恥じることのないという顔で。
「貴方は天の腐敗を嘆き、それを糺そうと理想を掲げた。その心は至誠からのもの、私には受け入れられないが、その理想を汚す気もありません」
「サリア―シェ、つまり、貴方は」
「ええ。いかにも野蛮ですが、今の私が望むのはただ一つ」
女神は穏やかに、厳かに告げた。
「岩倉悠里殿とシェートの、一対一の決闘です」
それは、ある種滑稽な状況だった。
悠里を始めとした"英傑神"に与する人々が動揺しているのに対し、女神もシェートも、フィーや、竜洞の代表でさえ、平然としている。
この時点で、互いの覚悟の、明確な差が出ていた。
「悠里殿が勝てば、晴れて貴方は、何一つ偽ることのない唯一絶対の主として、天に君臨できる。公正を期すならば、それが正道です」
「公正の名の下に、和議は存在しない。そして、貴方に何の手当もなく勝利を奪うなら、それは隷属を強いたことになる、ということですか」
「私からは、以上です。あとはそちらの返答をお待ちするのみ」
ひどい理屈だった。
サリア―シェに自分と等しい身分を与えながら、他の神の上で君臨するなど、権力の専横に他ならないだろう。
それを嫌って、ただ勝利を譲れと言えば、それは強奪だ。専横よりもひどい、独裁の証明になる。
分かっている、分かっているが、分かりたくない。
「俺は! 俺は戦いたくない!」
こんなのは違う。だって、みんなで一緒に戦ってきて、魔王を倒したのに。
「遊戯が間違っているっていうなら、ここで全部否定してしまえばいいだろ!」
「それは結局、僕と"平和の女神"が独断で、遊戯を破却したことになる。天は割れ、魔の者たちは参加する意義を失う。残されるのは渾沌と破壊だ」
「なら、俺が」
「悠里」
言葉の先を、"英傑神"は硬く、抑えつけた。
「振り返りなさい、悠里」
それは命令ではなかった。ただの確認だった。
「君の後ろにあるものを、振り返りなさい」
そこには、すべてがあった。
仲間と、救うべき民と、未来を期待する目があった。
この人たちを、裏切ることは、できない。
「あ……あ……」
そして、向き直る。
真正面からこちらを見据える、シェートと。
「君は、それでいいのか、シェート?」
「ああ」
「フィー……君なら、こうならない道を、探せたはずだろ!」
すがるように問いを投げた仔竜は、穏やかに首を振った。
「違うよ、悠里。これはシェートと俺が望んだ事だ」
すぐそばにいるのに、彼らとの間には恐ろしいほどの溝があった。
強固、いや頑固な決心が、壁のようにそそり立っている。
それを突き崩す方法は、一つしかないのは、分かっていた。
「それでも俺は、君たちとは――!」
「話にならぬ!」
それは地の底から湧き上がる怒り。本性を顕したシャーナが、神の間に割って入る。
「一対一など、認めるものか! 吾が背を、貴様らなどに傷つけさせるか!」
「なんだよ、地竜の女王も大したことないな」
小さな青い仔竜が、巨大な赤い竜を睨み上げる。
口元には不敵な笑いと、悪罵が漲っていた。
「か弱いコボルトに、自分の愛しい勇者さまが、負けるかもしれないって?」
「吾は、貴様を侮らぬ!」
その全身に燐火を纏い、凶悪な牙をむき出しにして、赤竜は怒りを吐いた。
「一対一を申しでた、それで十分。貴様は姦計を弄し、我が背を蔑せんと企んだに違いない! いや、きっとその企みがある!」
「買い被りだ。俺だって、一対一に何かを仕込めるほどじゃない」
「そんなことはどうでもよい! 吾は貴様の智を侮らぬ! 心底嫌うがゆえに、貴様の一切を侮らぬ!」
きっとそれは独占欲だ。シャーナは自分との関係性に誰かが入ってくるのを嫌う。
シェートとの一騎打ちも、やりたくはないが、納得できない線じゃない。
地竜の女王は、天の神の祝福を受けた仔竜の、未知の力を恐れているのだ。
(シャーナが、怖がってる?)
そうだ、なぜそう思ったのかはわからない。
でも、彼女の声、いや『聲』から伝わってくるのは、震えだった。それはきっと、魔王城との対峙で体験した――。
「俺ぁ、シャーナの意見に賛成だ」
「グリフ!?」
すでに友好の顔を捨てて、グリフとコスズが身構えている。その後ろに、不安げに付き従うイフと、話の底流にある悲しみを察して、憂い顔のフランバールが続いていた。
「魔王城ん時は世話になったが、俺はこいつらが好かねえ。そもそも、他の勇者は敵だって話だったろ」
「この場も、儂らではなくあっちが望んでしつらえたもの。罠を疑うのはもっともじゃ」
「要領を得ないな。結局お前ら、何が言いたいんだ?」
この場に最もふさわしくないグリフが、あえて進み出る。
その真意を悟って、悠里は喉が締め付けられる思いだった。何があっても、自分がやった失態だと言い張るために。
「一対一は無しだ。やんなら俺らも混ぜろ」
「数が合わないだろ。それじゃ勝負が成立しない」
「なわけあるか。テメエらの強さは知ってる。力を取り戻したテメエと、魔王と互角に張り合えるコボルトだ。ケンソンもし過ぎると、ただの嫌味だぜ?」
そのやり取りを楽しむように、フィーは嗤った。
まるで、魔王のように。
「なら、アマトシャーナは抜いてくれ。そいつがいると、俺たちは絶対に負ける」
「貴様……ァッ!」
「正確な戦力分析だよ。仔竜が大人のドラゴンに勝てるもんか。シェートと俺が、仲良くブレスで焼かれて終わりだ」
その指摘はもっともだ。魔王城を削り取ったブレスは、二人を確実に打ち倒せる。
そして乱戦になったとき、シャーナは自分以外の全てを焼き滅ぼして勝つことも、厭わないだろう。
「吾は認めぬ! 吾は譲らぬ!」
「おいシャーナ! せっかく俺が話を」
「黙れグリフ虫! 吾は絶対に譲らぬぞ!」
騒然となったこちら側に対して、シェートは静かに状況を見つめていた。
フィアクゥルはため息をつき、悲しく悠里に笑いかけた。
「全部、予想してたよ。こうなるだろうと、思ってた」
「フィー……?」
「だから、最後の手段を、取らせてもらう」
シェートの隣に、白い狼の姿が進み出る。鞍袋から何かを取り出し、手に取る。
その衣装には、見覚えがあった。
「悠里、戦わない、言ったな」
悠里は、言葉に出さずに、呻いた。
それだけは、止めてくれと。
「お前ら、一対一、許さない。なら」
「やめろ!」
身の丈に合っていないマントを羽織り、コボルトは告げた。
「俺、今から、魔王、なる」
風が吹く。
軍勢もなく、城もなく、四方を圧する背丈すらない、小さな魔物。
誰一人いない荒野を背負って、最も弱き魔王は、宣言した。
「魔王、シェートだ。俺と戦え、勇者」
「嘘だ!」
悠里は、絶叫していた。
そんなことができるはずがない、だって魔王は死んだはずで。
「いいえ、嘘ではありません」
こちらの思いを否定したのは、ずっと沈黙を保ってきた"刻の女神"だった。彼女は巨大な杖を掲げて、会談の場の保護を解いた。
「シェート様にはその権利があります。死の間際、魔王から譲渡され、行使していなかった権利を、賦活させただけです」
「……俺が、一対一を受けて、いたら」
「権利は破棄され、魔王とはならなかったでしょう」
何の冗談だ。いや、冗談なんてかわいいものじゃない。
いつか魔王が蘇る、そんなお約束を、こんな形で見るなんて。
「あ、あいつに、操られて」
「それもありません。私が、そのようなことを許すとお思いですか?」
平然と言い放つ"平和の女神"に、歯噛みをするしかない。
その目の前で、魔王は狼の背に乗った。
「勇者、お前、俺、倒せ。でないと、世界、救われない」
「なんで! なんで、そこまでするんだよ!」
「俺、戦いたい。それだけ」
言い捨て、素早く踵を返し、コボルトたちは走り去っていく。
それを見送ると、青い仔竜は冷淡に告げた。
「早く馬でも何でも使って、追い駆けろよ。時間が経てば、お前らに不利だぞ」
「え……?」
「魔王復活。その後に何が起こる?」
残された兵を集めての再起、そして世界を滅ぼす。
嘘だ、そんなことを彼がするはずが。
「立て! ユーリ! ぼさっとすんな!」
すでに馬が引き立てれ、シャーナが空を先行していく。その影を青い仔竜が追い越しつつ飛び去っていく。
「グリフ! 俺は!」
「もう無理だ! アイツが名乗ったのを聞いただろ! アイツは、魔王なんだよ!」
人々が逃げ去り、列席していた騎士たちが鎧兜を着込み始める。何もかもが望んでいない方向へ転がって、自分だけが取り残されていた。
「早馬を出せ! 近隣に駐留する騎士、戦士、あるいは戦えるものをすべて集めよ!」
冷徹に、それでも苦々しく、フランバールは良く通る声で命を下した。
「新たな魔王が誕生した! コボルトのシェート! それが――我らが討つべき敵だ!」