44、蒼穹の果てに
地面が揺れる、決定的な何かがへし折れる音がする。
その一切を感じて、悠里は叫んだ。
「シャーナ! みんなを乗せて行け!」
「馬鹿者! そんな芥に構うな! 捨て置けば、そ奴はもう!」
魔王が振り上げた剣から、衝撃波が飛び、シャーナの体を切り裂く。その間にも足場が崩れ始め、逃げ場所がなくなっていく。
「俺は、死んでも死ぬことはない! でも、みんなは駄目だから!」
「ユーリさん!」
イフは叫び、魔王と自分の間に、光の足場を作り出す。
「絶対、勝って! 魔王なんか、ぶっ飛ばしてください!」
「行け、みんな!」
仲間を乗せたドラゴンが空に舞いあがり、魔王は嗤う。
「最後の最後まで、勇者ムーブか。本当に、反吐が出る」
「そっちこそ。最後の最後まで、魔王ムーブで、呆れるよ」
互いに噴き出し、構える。
「だが、ふさわしい。どこかの誰かが書いた物語で踊る、俺たちには」
「そうだとしても、踊る者に意思がないなんて、誰にも言わせない」
剣を一つに変えて、魔王が間合いを詰める。
悠里は、剣を天に向け、こめかみの所に鍔が来る位置に降ろして、構える。
「勝てよ、ユーリ!」
周囲を旋回するシャーナの上から、グリフが檄を飛ばす。
「あと少しです、どうか、我らに勝利を!」
フランの声は、崩れる轟音の中でも凛々しく響いてくる。
「儂はお前の勝利を疑わぬ! 絶対に、疑ってなどやらぬからな!」
それはコスズの、少しひねた信頼の証。
「私、もう、歩けますから! だから、約束、守ってください!」
素顔で、日の下を一緒に歩く。イフの願いを、忘れたことなんてない。
「そんな三下、そなたの敵ではない! 吾が背よ、とっとと終わらせよ!」
シャーナの言葉に、魔王の嗤いが深くなる。
一つになった剣が渦を巻き、周囲の一切を粉砕していく。
その魔剣は、『喰う』と『吼える』を循環させ、あらゆるものを砕く力を放っていた。
「さて、会話イベントも済んだようだし、終わらせるか」
魔王の姿勢が、揺らぎ。
「つえええいっ!」
手にした魔剣が、投げつけられた。
それは全てを斬り穿つ、魔力の槍になって突き進む。
ほぼ同時に、魔王が剣を生み出し、逃げ道を塞ぐように、横に薙ぐ。
「――岩蔵流」
その全ての『先』を取り、
「電」
ただひたすらに、真っ直ぐな一刀が、魔王の肩口から腰までを、断ち割る。
驚愕し、よろめき、下がる姿。
そして、天からの雷光が、魔王の五体を完全に焼き尽くした。
「……え?」
驚いて手元を見る。そこには稲妻を思わせるような刃紋が浮かび、消えていく。
岩蔵流の伝にある、至高の領域。繰り出す一刀を、雷に等しい速度で打つという境地。
それが、形になったとき、刀が応えてくれたのだろうか。
だが、そんな感慨に浸っている暇はなかった。
「うわあっ!?」
地面が揺れる。イフの作ってくれた足場が消えて、振動が激しく伝わってくる。
大きく旋回するシャーナの背を蹴って飛び、イフがこちらを抱き留めた。
「行きます!」
自分の背に悠里がたどり着いたのを確認すると、聲を振るわせて赤い竜が魔王の城から離脱していく。
「……シェートは?」
載せられている者の中に、コボルトの姿はない。
目前で、城が崩壊していく。
「戻れシャーナ! 戻ってシェートを!」
「諦めろ! あの崩落では、どのみち助からん!」
「わ、私が!」
飛び出そうとしたイフを、コスズが掴む。崩壊が急速に進んで、魔王城の外殻が砕け、地面に振り注いで行く。
城はすでに、鳥が飛ぶのも難しいほどの高さにある。
ここまで助けられて、最後の最後で、自分には何もできない。
「シェートおおおおおおおおっ!」
すでに藍に染まり始めた空で、悠里は絶叫した。
聞こえていた。悠里の絶叫が。はるか空の高みで、崩落していく魔王の城が見える。
がれきが降り注ぎ、人々が悲鳴を上げて逃げていく。
アクスルが先に立ち、エルカが叫ぶ。
「逃げるよ! ここもヤバい!」
「嫌だ!」
抱き留めていたリィルを振りほどき、地面に降りる。
仔竜は顔を上げる。降ってくる城の残骸を睨み、叫んだ。
「シェートを! シェートを、助けるんだ! あいつが、まだあそこにいるんだ!」
「■■■、無理だよ、もう」
「無理じゃない! 俺は、俺は、■■■■なんだ! あいつを、助けるって、ずっと守るって、誓ったんだよ!」
鋼鉄の柱が断頭の刃になって地面を穿つ。逃げていく人々の中で、仔竜は、それでも手を伸ばした。
「これで終わりなんて、嫌だ! 俺は、俺はっ!」
「行ってください」
振り返ると、そこには泣き顔のリィルがいた。
泣きながら笑った。
「私はもう、大丈夫です。行ってあげてください、シェートさんの所へ」
「リィル……?」
「私たちの勇者は、死んだんです。イツミコウジは、もう、この世界にはいません」
そして、空を見上げた。
「貴方の大切な人のために、飛んでください。どこまでも、高く」
「リィル……俺は」
「さようなら、コウジ。私の、大好きだった人」
あふれる涙を、仔竜は拭わなかった。
そのまま走り出す。壊れていく城の真下へと。
どうして、自分に聲が使えなくなっていたか、分かった。
この姿、この心、この魂。
その全てを示す、真の名前を、名乗れなくなったから。
でも、今なら。
「俺は、俺の――名前は!」
駆け上がっていく。
蒼い軌跡が、襲い来るすべての障害を、突き抜けて。
それは、一条の、蒼き雷霆。
諦めない、諦めたくない、こんなところで、絶対に。
降ってくるがれきを避けて、炎で消し飛ばして、通路ですらなくなった空間を必死に抜けていく。
出口は無い、脱出口もない、戦いの中で連絡用のミスリル板も失っていた。
せり上がる床、降ってくる天井、天地の区別が消えいくが、それでもシェートは走る。
行き着いたのは、大きくも小さくもない、球形の空間。
そこは頑丈で、振動も少なく、未だに原型を保っていた。
そこに転がる、一つの体。
寄り添う、二つの影。
「やはり、生きておられましたか、その生存への飽くなき希求。お見事です」
羊の"執事"はこんな時でも、こちらを誉めるのをやめなかった。
「忌々しい犬。お前の顔など、見たくありません。早々に立ち去りなさい」
たっぷりと嫌味をまぶした"参謀"の顔。
その足元に転がる、朽ちかけた体の"魔王"。
「ようやく、来たか。王を、待たせる、など。不敬だぞ」
驚くことに、その身体でも、立ち上がってきた。
シェートは身構えず、静かに見つめた。
「そうまで見透かされると、腹が立つより笑ってしまうな。そうだ、俺はもう、戦えん」
「"魔王"、出口、どこだ」
「ここは、魔王城の心臓部。城を浮かばせ、電力を供給するための場所、だった。頑丈だが、もうすぐ壊れよう」
「だから、出口!」
笑う"魔王"。その口元の歪みを見て、シェートは目の前が暗くなる思いだった。
「あまりシェート様をからかわれないでください。それに、もう時間もありません」
「事実は、事実、だろう。脱出口ではなく、まだ無事な、エリアへ、逃げられるだけだ」
「それ、どこだ!」
無言の"参謀"が指し示したのは天上、そこへ上る梯子。
「後一分ほどで、ここがむき出しになります。その期を伺えば、死なずに外には出られましょう」
「だが、その後は、自由落下、だ。ものの、数分足らずで、地面に落ちる」
それでも、まだあきらめない。
梯子へ登ろうとしたとき、魔王が問いかけてきた。
「なあ、シェート、お前は――」
なぜそんなことを、少し考えて、シェートは首を振った。
「重ねて、問おうか。お前は――」
"魔王"の問いかけに、コボルトは沈黙した。
そして、答えた。
「だろうな。お前は、そういう奴だ」
すべて語り終えると、魔王は膝を突き、ほほえんだ。
「なあ、勇者よ」
「なんだ」
「俺のものに、ならないか」
あの時と同じ、無邪気にねだる、子供の顔があった。
だから、同じ答えを返した。
「いやだ。絶対に」
「そうか。残念だ」
その時、部屋の外側で、何かが大きくかしぎ、砕け落ちていく音が聞こえた。
「シェート様、お早く」
「お前らは」
「貴様の心配など不要。疾く消え去れ」
シェートは振り返らず、上を目指して登って行った。
崩落の音が、少し強くなった。
だが、"魔王"にとって、それは夢の中の出来事に等しかった。
「お疲れさまでした、"魔王"様。我が主よ」
「貴様にも、苦労を掛けたな」
「いいえ」
傍に座り、こちらの頭を膝に乗せる。いつのまにそんなことを覚えたのか、おかしく思えて笑ってしまう。
「"参謀"とは、このようなものであるそうですね。資料を、見ました」
「だから、見せたくなかったんだ。お前は真面目くさって、教科書通りに、するからな」
「お嫌でしたら、外しますが」
「いや、いい。これも案外、悪くない」
そうだ。
案外悪くなかった。
何もかも仮初で、寄せ集めで、出来合いの、ガラクタの山。
偽り、出し抜き、ごまかしで出来た存在。
それでも案外、悪くなかった。
「ああ、参ったな。手抜かりが、一つあった」
「申し付けていただければ、遺漏なく下命を果たしましょう」
「……こんなことなら、墓碑銘でも、考えておくのだった」
有能な執事は笑い、告げた。
「"我は我の想うまま、邪悪であった"。で、いかがでしょう」
「最後の、最後まで、借り物の、言葉か」
だが、それもいいだろう。
見せかけだけの魔王には、ぴったりの。
「じつに、おれ、らしい――」
灯火は、吹き消された。
金属のゆりかごの中で、世界を向こうに回したガラクタの"魔王"は、静かに退場した。
空を見上げた。
いつしか、払暁の光が、世界を染めていた。
東の端から差し込む輝きが、紅から紫へ、色を変えてく。
シェートの足元で、崩落していく感触。魔王の城を浮かべていた、巨大な金属球が、剥き出しになる。
その堅牢な構造さえ、墜落の衝撃で折れ剥がれ、砕けて微塵に散っていく。
足場が消える、立っていられなくなる。
そして、コボルトは、跳んだ。
「うわああああっ!」
バラバラに砕けていく。中枢のあった場所には、何もなかった。魔王の死体も、二人の従者の姿も。
そして、自分にとって支えになるものの一切が、砕けて散った。
眼下に広がるのは、絶望的な光景だ。
雨のように降り注ぐがれきと、立ち昇る煙。茶色の大地。その一切が遠い。
あの日、魔王城から逃げ出した時と同じ。
あの時は、夜に閉じていく時間だった。
今は、朝へと広がっていく時間だった。
天と地の狭間に放り出され、何にすがるものもなく、近づく最後を思った時。
聲が、聞こえた。
「あ……!」
遥かな距離を越え、降りしきる破壊の雨を払い散らし、視界を遮る煙と雲を突き抜け。
それは、聲を限りに、叫んだ。
「シェートおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
大きく手を広げて、叫び返した。
「フィーいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
それは、世界と自分を、すべて抱くような、腕だった。
抱き留められ、聲が、優しく周囲ではじけた。
暖かさが伝わり、涙が、流れた。
抱き返し、その背中を、そっと撫でる。
「シェート、俺は、俺は……っ!」
「いいんだ」
そのまま、二人の体はずっと空へと昇っていく。
暁が最後の一筆を振るい、その色が、目の覚めるような蒼に染まる。
「俺、お前、好きだから」
そこは、誰にも縛られることのない、広い世界だった。
重苦しくそびえる城はもうない。
ひたすらにどこまでも、続いていく空だった。
「帰ろう、シェート」
「うん、帰ろう。フィー」
勇者を奉る『天槌の祝祭』は、魔王の城を模した構造物が燃え尽きた時、終わる。
そして人々は夜明けを待ち、早暁の風が吹き渡る頃、赤き竜の女王を讃える巨大な凧を上げるのだ。
その壮麗さと、朝の風のすがすがしさに人々が上げる快哉は、魔王の倒された朝を祝った人々と、重なるところがあったろう。
ただ、ひとつだけ、この祭礼には不思議な掉尾が、存在する。
ごく小さな、蒼く塗られた凧を、最後に飛ばすのだ。
その理由も意義も分からないまま、儀式は続けられているが、その凧が飛ぶ頃には、人々は赤の竜の凧を追い、勇者の帰還を祝う祭礼に行ってしまう。
誰もいない空で静かに舞う凧を、振り返る者は、ほとんどいない。