42、踏破すべきもの
いったい、何が起こった。
目の前に魔将が現れ、シェートと一緒に裂け目へ落ちていった。しかし、あれは自分が倒したはず。しかも、魔王からの魔力で動いていた魔将が、生きているというなら。
「貴様が思っている通りだ。俺はまだここにいるぞ」
初めて会った時と同じ姿。だが、その顔は憔悴し、明らかに力を削がれているのは明白だった。
「シェートをどうした!」
「連れて行かせた。これで、貴様は一人だ」
「お前だって、そうだろ」
「そんなことはない」
魔王は上着をはだけ、その下を見せた。
そこにあったのは、無数の目玉と、口。黒い影、あるいは泥の中を蠢きながら、かすかなつぶやきを漏らしている。
「だいぶ、小さくなってしまったがな。使いすぎた。まさか怨念が擦り切れようとは」
悠里はただじっと、目の前の敵を睨む。
魔王はそっとため息をつき、前を閉じて服を整えた。
「お前は、俺を空っぽの魔王と言ったな」
「……ああ」
「では、俺たちは似合いの存在というわけだ。中身の無い魔王と、見栄えだけの勇者」
ゆっくり吐息する。相手に聞こえぬほどの、かすかさで。
「どうだ、勇者よ。俺のものに――」
抜き打ち、一閃。
魔王の首が、後ろ方向へ吹っ飛び、ぐらついた胴体が膝を突いて、倒れる。
「付き合ってられない。シェートを探しに行く」
「――フ」
何かが脈打つ音がする。
それは、魔王の胴体から聞こえてくる。全身が崩れ、地面に染み込み、振動がさらに大きくなる。
「フハハハハハハハハハ、アーッハッハハハハハハハハハ!」
黒い樹木のようなとげが、敷石のあちこちから湧き出てくる。死体のあった場所から、せり上がってくるのは、黒い大樹。
「まったく、酷い男だなお前は! 話も聞かずに手打ちとは!」
「……まだ……やる気か」
「当たり前だろう」
黒い大樹の中央、そこに貼り付けになったような魔王の体がある。その周囲には、蠢く目と、不揃いに裂けた口。
「ここまで来た以上、貴様は、俺の手で殺す」
「やれるもんなら!」
目の前に突き立つ、黒い槍。そこから無数の棘が伸びて、こちらを傷つける。
斬れない硬さではないが、数が多すぎる。
「くっ、そおっ!」
「守りの鎧、刃の鋭さ、そして今も働く神規の力! まさに勇者の力だな!」
魔王の声に張りがない。だが、疲労と苦痛を押さえつけ、猛烈な殺気を放つ。
「なあ、悠里、岩倉悠里! 教えてくれよ! お前はここで、何をする気だ! 勇者になって、俺を倒して、その先に何がある!」
「っく、おおおっ!」
槍を斬り、目の前の木に必死に近づこうとあがく。さっきまでの人型と違い、硬さと鋭さに全振りして、移動も回避もせずに障害物として存在し続ける。
だからこそ、やりにくい。
この場に生きているのは自分と魔王。それ以外は、自動迎撃してくる黒い棘だけだ。
「そも、この世界の窮状など、貴様には何の関係もない! その上、いくつもの負わなくてもいい苦しみを、負ってきたはずだ!」
そんなことはどうでもいい。もう惑わされない、もう迷わない、俺は。
「俺は、俺の心に従って! "英傑神"の志に共感したから、ここにいる! そして、一度誓ったことは、絶対に曲げない!」
最後の林を潜り抜けた先に、魔王の樹はそそり立っていた。
なぜか棘はなく、空間が広がっている。
「立派な心がけだ。それが岩蔵流の教えか」
「自分の信念のために生きる、それが父さんに教えられた――」
はらりと、悠里の前に、何かが投げ出される。
それを見た瞬間、ぞわり、と首筋が総毛立った。
「六月十六日付け――県立城南中学の三年生男子生徒(十五)が、いじめにより不登校になったとして、同中学校教諭と、いじめ教唆をしていたとされる児童を相手取り訴訟を行うことを、生徒の父兄が記者会見で明らかにした」
それは過去の忌まわしい記憶を端的に記した、新聞の切り抜きだ。
丁寧に、静かに読み上げる声が響き渡る。
手にした刀が震えて、嫌な汗がにじむ。
「城南中学の調査報告書によると、男子生徒は複数による他生徒へのいじめを注意したところ、学用品の損壊や悪口によるいじめを繰り返し受けていた――か」
なんで、お前が、そんなことを知っている。
どうして、今になって、あの時のことを。
「だいぶ堅苦しいなあ。しかも、奥歯に物の挟まったような記事だ。いかにも、いじめ被害者に配慮しました、という、無意味な取り繕いが見え見えだ」
嬉し気に語る魔王。
そして、こちらの動揺を、見逃すはずもなかった。
「うっ!」
自分の首元に、鋭く突きつけられる棘。その黒さは自分の気道を、容易く突き破れるほどに研ぎ澄まされていた。
自分の周囲を、檻のように黒い槍が囲んでいく。
「切り札というのは、最後まで取っておくものだ。そして、最良のタイミングで切るものでもある」
「お、お前……っ」
「さて、俺がなぜ、日本のどこかの地方都市の、いじめ被害者に関する記事を読み上げたか……わかるよな?」
棘の数が増えていく。喉だけでなく、腕や股間、腹部に背中、あらゆる場所に、痛みが突きつけられる。
「ちなみに、俺はもう少し突っ込んだ話を知っている。このいじめ被害者とやらが、どういう運命をたどったのかも」
「ぐ……っ!」
「この少年は結局、中学を卒業できたが、高校へは一年遅れて入学することになった。心の傷が癒えるのに時間がかかったのだろう。痛ましいことだ、なあ?」
怒りと羞恥に顔を上げれば、魔王はまるで『磔刑された聖者』のような姿勢で、こちらを嗤っていた。
「だが、問題はそこではない。これだけなら、この少年はただの被害者だ。同情こそすれあげつらうことはできない。はずだった」
魔王は映像を映し出す。
滅茶苦茶に荒れ果てた学校の教室と、中心にいる生徒がいた。
窓ガラスは残らず割れて、いくつかの椅子と机は原形をとどめず、教壇どころか板書用のホワイトボードさえ歪んでいた。
それは、あの日の自分の、行状の全てだ。
「な、なんで、お前が、それを……」
「今時の中学生はスマホぐらい持っているだろう? これはその一人から拝借した。うちの現地調査員は実に優秀だ」
逸らそうとする顔の先に、棘がある。
どうしても過去に向きわせたい、そういう意志がった。
「その少年は限界だった。父親から仕込まれた技術で、同級の貧弱で愚昧なクズに、思い知らせたいと思うほどに。だが、できなかった。故にこうなった」
「やめてくれ!」
思い出す、思い出してしまう。すべてを、酷く冷静に、冷たく怒りながら。
誰も傷つけずに、破壊し尽くしたことを。
「結局、それが突破口になった。警察が呼ばれ、事情聴取がなされ、新聞社が動き、いじめを黙殺しようとした教師が、いじめを教唆した主犯の生徒が、明らかになった」
悠里は目をつぶる。
あの地獄のような日々が蘇ってくる。
きっかけは、同級生のいじめを、咎めて注意したことだ。
自分はただ、良心に従っただけだ。どうなるかは、薄々感じていた。それでも、自分一人が傷つくならと、思っていた。
結果は、地獄だった。
いじめに加担した生徒だけではない、クラスの全員、だけではない。
担任も、教育指導の教諭も、誰一人として、俺の味方はいなかった。
何より辛かったのは。
『次は、モップとかつっこむと、いいんじゃないかな』
最初に救った人間が、嬉々として、自分をいじめる側に回ったことだった。
「犯罪者は謝った。そして型どおり、人類の英知である法治精神の下『人は過失を犯すがゆえ量刑は慎重に』という方針で、被害者の少年と家族に許しを強要した。受験シーズンで、彼らにも将来があるから、とな」
『兄貴、この件、俺に預けてくれや』
自分たちにとって、苦痛でしかない『提案』を受けたその日。
長く縁が切れていた叔父が、戻ってきた。
叔父は自分と一緒にゲームをし、くだらない話をしながら過ごし、その日の晩に、阿修羅のような冷たい顔で、告げていた。
『悪いようにはしねえ。兄貴も悠里も、十分苦しんだ。つまらねえ後始末は、全部、俺が引き受けるからよ』
「不思議な話をしようか。いじめ加害者の彼らは、なぜか高校に『入らなかった』。それぞれ県立や私立の名門校に入学予定で、中にはスポーツ推薦や学業成績で優秀なものもいたはずなんだがな」
それは、聞いていない。
自分たちが知っているのは、彼らとの裁判で示談金を取ることまでだ。その後は、手に入った金で県外の高校に転入し、何もかも忘れて生活していた。
「ある者は『健康上の理由』、ある者は『家庭環境の変化』。だが、いじめの中心人物は一人として、まっとうに進学できたものはいなかった。中には急激に経済状況が悪化した家庭もあった、という話もある」
「そ、そんな……」
「もちろん。彼らが何らかの暴力被害にあったという話は無い。暴力被害は、な」
どこからか、新しい資料が放り込まれる。
そこに貼られた顔写真には、見覚えがあった。いや、見たくもなかった。
「追跡調査の結果、その少年のクラスでいじめに関与していた主犯格の内、半数以上が進学先で『いじめ被害』に会い、体調不良や不登校になっているそうだ」
「な……っ!?」
「ああ、それは別に誰のせいでもない。単にそいつらが『弱った』だけだ。いじめというのは、流行性感冒のような物。体力や精神、立場が弱れば、その分罹りやすくなる、というだけだ」
魔王は吐息をつき、それから問いかけた。
「で、ご感想は?」
「…………」
「その沈黙は、俺の仕打ちへの怒り? こんな異世界まで追いかけて来た、忌まわしい過去への恐怖? あるいは、外道に落ちた叔父や父への失望か?」
「な、なんで父さんが、そこに出てくるんだ!」
「知らないわけがないだろう! 司法上の動きも、加害者家族への対応も、その後の私的制裁の話だって、知らないわけがないだろうよ!」
分からない、いや、考えたくもない。
自分への人々の仕打ちで、一番心を痛めていたのは父で、それを助けるために、叔父は動いていた。
自分には何も考えられなかった、何も見たくなかった。
「ああ、ついでに貴様の家系について、調べさせてもらった」
「……え?」
「貴様らの先祖、岩蔵流開祖、岩倉一揖。本来の名前は、迫田長次郎正道。こいつの経歴を、貴様は知っているか?」
自分たちの先祖のことが、なぜ出てくる。
その疑問は、忌まわしい事実で、塗りつぶされることになった。
「元薩摩藩、江戸屋敷詰めの武士。こいつは己の上司を斬り、逐電した。その理由が実に滑稽でな!」
「も、もう止めろ! お前……お前は!」
「許嫁をその上司に召し上げられ、責め殺されたのに怒り、一刀の下に切り伏せた! その後、逃げた。当時の定法に従うなら、自首したのち斬首か割腹、いずれであるはずなのにな!」
今はもう確かめようのない、過去の出来事。
それでも、そのことを告げているのが目の前の魔王というのが、すべてを嘘と切り捨てられない迫力があった。
「つまり、貴様らには『いじめ被害者』の血が流れているということだ! 誰かに抑圧され、最後は暴力で以てすべてを雪ぐ、そういう賤しい性根がな!」
そういうことか。
魔王があげつらったすべての事は、一つの糾弾へと集約する。
「……俺には、勇者の資格は無い、そう言いたいんだな」
「ああ、その通りだ」
「どんな理想を掲げても、俺や、叔父さんや、先祖の人のように、最後には自分の憎しみですべてを壊すと」
「そうだ。お前の存在は、その血筋は、理想を掲げるには薄汚すぎる」
魔王は、こちらを確かめるように、少し沈黙した。
それから、穏やかに問いかけた。
「お前は、俺と同じだ。逃れられない血に、己の行く先まで決められた悲しい生き物だ。進むほどに悲惨は増し、理想を掲げても裏切られる定めだ」
篠突く雨のように、魔王の言葉が降りかかる。
優しく、そして忌まわしく、肩と言わず背と言わず、全身を濡らす。
「たとえ俺を倒し、世界を救っても、お前はいつか叛かれる。辛い世界だ、終わらない業苦だ。だが……俺ならお前を救える」
言葉は棘になり、こちらを鋭く狙っている。
動けば痛みと、死が約束されていた。
「俺と契り、魔の物となれば、そんなくだらぬ人の世に、心煩わせずとも済む」
その言葉は、甘い毒だ。
これが本来の魔王、その根幹にあるものだ。
内側の痛みを暴き出し、過去と引き換えに、過去からの開放を約束する者。
「勇者よ、我がものとなれ。それが、お前が手にできる、唯一の救済だ」
見上げると、掲げられた姿があった。
闇に白々と浮かぶ、魔王の笑みがあった。そこには嘲笑はなく、慈愛があった。
同類を哀れむ、苦しみを理解する、そういう顔があった。
そして悠里は、その上を見た。
星が、瞬いていた。
「断る」
ぎり、と、周囲の棘が唸りを上げた。
それでも言葉を重ねた。
「聞こえなかったのか。嫌だって、言ったんだよ」
「恰好を付けるな。声が震えているぞ。大丈夫だ、裏切りの恐怖など最初だけ。一度飛び越えてしまえば」
「三流詐欺師」
首元から血が流れる。
それでも、悠里は言うのをやめなかった。
「もう種は割れてるんだよ。へぼ手品師」
「ああ、貴様の血お得意の逆切れ芸か。いいぞ、いくらでも」
「お前がこういうことをするのは、追い詰められている時だ。今なら地上の人たちでも、確実にお前を殺せるんだろ?」
手足に棘が差し込まれ、痛みが伝わってくる。
それでも抵抗は辞めない。
「俺だって、分かってるんだ! 結局、誰かに裏切られるんだってこと、ぐらいは!」
口にすれば悲しい言葉だ。それでも、それでもなお。
「でも、次こそはって思ったから、ここまで来た! 転んだら、倒れたら、這ってでも進むために!」
今動いて、どれだけ持つ。全身から血を流しながら、それでも致命的な一撃を凌いで、一太刀浴びせられるか。
そんなことは、考える時じゃない。
「"いと貴き、慈しみと勇気を授ける、英傑神の護りを我が身に授け給え"」
「貴様――っ」
「ぬがああああああああああっ!」
両足を使い、その場で全身を回転させる。
両腕を振るい、両脚は内側にしめ込むように、細かい傷が出来たが、掛けた防御の魔法で致命的な負傷を避けた。
地面に落ちた刀の柄を勢いよく蹴り上げ、跳ね上がった刀をつかみ取る。
『兄貴には内緒だぞ。こんな大道芸見せたら、確実にキレるからな』
「せえええいっ!」
全身を大きく振るって、すべての棘を払い散らす。
こんなもの。
「こんなもの、痛くもかゆくもない!」
目の前の魔王から、さまざまな感情が剥がれ落ちていた。
残っているのは、交じりっけなしの憎悪だけ。
「岩倉、悠里ぃっ!」
魔王の胴体から、極太の黒槍が放たれる。
その一撃さえ、今なら砕けると信じて剣を振りかぶる。
「うっ、しゃらあああああああっ!」
その決意を、横合いから飛んできた大きな塊が、叩き壊して通り過ぎた。
「ってバカヤロウ! 勢い付けすぎだ! 城の端から落っこちるかと思ったぞ!」
斧を振りかぶり、肩に担ぐと彼は屈託なく笑った。
「待たせたな。俺の遅刻癖は、死ぬまで治らねえみたいだ、悪く思うなよ」
「安心せい」
地面から生えた黒槍に矢が突き刺さり、蔦が絡みついてねじ切っていく。蔓の一本を足場にして、ふわりと舞い降りる少女。
「帰ったら、二度と朝寝も夜更かしもできぬよう、たっぷり鍛え上げてくれよう。感謝するのじゃな」
「そういえば、最近体の切れが悪くなられたとか」
新たに生えた槍を切り裂き、光の刃を携えた姿が悠然と進み出る。
「騎士団再建の折には、従卒としてご参加を。見違えるほどの肉体をお約束します」
「下働きさせて、余分な肉を搾り取ろうってか? 勘弁してくれ」
油断なく構える三人の周囲で、再度湧き上がる黒の槍。
その一切を、疾風が残さず打ち砕く。
「私も、グリフさんの遅刻、うつっちゃいました。遅れて、ごめんなさい!」
そして、重々しい物体が、床を踏み抜かんばかりの勢いで降り立った。
「一度と言わず二度三度、吾と吾が背に、よくも煮え湯を飲ませたな。今度こそ貴様を、微塵も残さず燃え散らす!」
彼らの姿を見て、悠里は、何も言わなかった。
ただ頷き、敵を見据えた。
「……忌々しいことだ」
魔王の憎悪は、暗い体に輝く星のように燃え盛る。
「こんな、見たくもない光景を、成立させてしまったとはな!」
その怒りの理由は分かっている。
コイツが憎み続けた勇者の物語が、現れたのだから。
「魔王、お前の言う通りだ。俺は、勇者にふさわしくないよ」
笑い、身構える。
「こんな風に、みんなと一緒に、お前を倒せることを、喜んでるんだから!」
目の前の大樹が身をよじらせ、根ざした床を割りながら、何かを持ち上げてくる。
何かの結晶。それは迷宮の中でみた、迷宮の核に似ていた。
「本当に、これが最後だ」
結晶を取り込む魔王が歪み、膨張し、一つの形を取る。
それは、巨大な四つ足のケモノと一体化した、竜の翼を持つ、黒い無貌の人型。
『夢の終わりをくれてやろう。貴様と、俺の!』
荒々しく石畳を踏みしめて襲い来る姿に、悠里は臆せず叫んだ。
「終わりにしよう! お前と、俺の悪夢を!」